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2章
9話 ボーイミーツガール
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……ひどい悪夢を見た。
背中にへばりつくシャツの不快さに閉口しながら、そう、漣は思う。
詳しい夢の内容は何も覚えていない。ただ、確かにひどい夢を見た、という感覚だけが、寝汗で冷えたシャツとともに背中にべったりと貼りついている。とりあえずバスルームでシャワーを浴びると、予備で支給された新品の下着に着替え、昨晩も着たサマーセーターとデニムを身に着ける。家に残してきた私物がいつ届くのかはわからないが、それまではこの私服と、あとは支給品のトレーナーで凌ぐしかなさそうだ。
脱衣所にはドラム式の洗濯機が置かれ、説明書を片手にどうにか回してみる。が、起動した後で洗剤を入れ忘れたことに気付き、慌てて開こうとするも扉はすでにロックされていた。結局、洗濯物は後で改めて洗い直すことにして、丸窓の中で荒波に揉まれる下着を、洗面所にしゃがみ込んだままぼんやり眺める。
こんなことなら、もう少し母さんの家事を手伝っておくんだった。
慣れない一人暮らしに早くも躓きを覚えながら、そう、今更のように漣は思う。その母にも、次はいつ会えるのかわからない。父に至っては、会ってくれるのかすらもわからない。
大学は除籍。そもそも戸籍の上では、もはや漣は生者ですらない。
「しんどいな……」
自分で選んだ道とはいえ、ある日突然、これまでの人生と切り離される孤独とその痛み。ある程度覚悟はしていても、いざ喰らえば痛いものは痛い。
ただ、それでも腹だけはちゃんと減る。意外なところで図太い自分に驚きながら、漣は手早く髭をあたって部屋を出る。確か、二階に二十四時間利用可能なビュッフェがあると嶋野が言っていた――
「ふげ!?」
不意打ちのような衝撃に、わけがわからないまま廊下に倒れ込む。そんな漣の頭上から、「すみません!」と声が降る。やけに陽気な女の声。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「……は、」
いや大丈夫じゃない。そう文句を言いたくなるのを堪えつつ顔を上げると、若い女が心配そうに漣の顔を覗き込んでいる。綺麗な二重瞼に大粒のつぶらな瞳。程よい血色を纏う肌はきめが細かく、見るからに柔らかそうだ。
顎のラインで切り揃えたショートボブも、愛らしい顔立ちによく似合っている。
「あれ? 君、ひょっとして……新しい子?」
「えっ? あ……はい。実は昨日――」
「そうでしょ!? うん、初めて見る顔だもんね! あたし東雲瑠香! 瑠香って呼んで!」
怒涛のような自己紹介に、漣は「あ、はい」と条件反射で頷く。一歩下がると二歩詰めてきそうな勢いと雰囲気に、こんな人も住んでいるんだなとぼんやり思う。
ただ、大学で女子に声をかけられた時に感じていた、あのざらりとした不快感は皆無だった。少なくともこの女性は、開業医の息子というオプションが目当てじゃない。
「君は、えーと、なに君?」
「あ、ええと……」
差し出された手を取り、立ち上がる。小さく柔らかな手には、ところどころ肉刺のようなものができていて、何かしらの道具を日常的に扱う人だな、と漣は推理する。
「海江田、漣……ええと、漣は、さざなみの漣です。さんずいに、連絡の連、あと点をひとつ――」
「あーはいはい。漣、漣ね。――あ、ごめん、あたし下に荷物取りに行かなきゃだから、ちょおっと談話室で待っててくんない? ぶつかったお詫びに、後で朝食作ってあげるからさ!」
「えっ? あ、いや、朝食なら――」
ところが瑠香は、漣の制止も待たずにさっさと走り去ってしまう。下に荷物? わけがわからない。が、待てと言われたならとりあえず待った方がいいのだろう。廊下の案内板によると、さいわい談話室は部屋からそう遠くない場所にあるらしい。行ってみると、該当の場所にそれらしいスペースが見つかった。カーテンウォールの窓越しに、中庭と思しき緑地を見下ろす八畳ほどのオープンスペース。そこに小さなテーブルセットと、機械式のコーヒーサーバーが置かれている。コーヒーは、どうやら無料で飲めるらしい。これも税金……か。
その、税金支給のコーヒーをサーバーで受け取ると、椅子の一つに腰を下ろし、足を組む。爽やかな香りはモカだろうか。何にせよ良い豆だなとちびりちびり啜っていると、朝方の疑問がまたぞろ頭にもたげてくる。一体、俺はどんな夢を見たのか。……が、相変わらず、嫌な夢を見たという感触以外は何一つ思い出すことができない。
ただ。
あそこで見たもの感じたことは、確かに、漣自身の根幹に関わる何かに触れていた。
「何を、見たんだ……俺は……」
紙コップの中で所在なげに揺れる顔。物心がついた頃から、それこそ鏡越しに日々目にしているはずなのに――さっきも髭を剃るときに洗面台で散々眺めたはずなのに、今だけは、なぜか得体の知れない他人に見える。
やがて、忙しない足取りでばたばたばと瑠香が戻ってくる。
「おまたせー! ささ、おいでおいで!」
陽気なその声を合図に、漣はとりとめのない想像を打ち切る。
わからないものはわからない。そもそも一日前の自分は、こんな組織の存在も、運命すらも想像しなかった。今はただ、現実に身を委ねるしかないのだ。きっと。
背中にへばりつくシャツの不快さに閉口しながら、そう、漣は思う。
詳しい夢の内容は何も覚えていない。ただ、確かにひどい夢を見た、という感覚だけが、寝汗で冷えたシャツとともに背中にべったりと貼りついている。とりあえずバスルームでシャワーを浴びると、予備で支給された新品の下着に着替え、昨晩も着たサマーセーターとデニムを身に着ける。家に残してきた私物がいつ届くのかはわからないが、それまではこの私服と、あとは支給品のトレーナーで凌ぐしかなさそうだ。
脱衣所にはドラム式の洗濯機が置かれ、説明書を片手にどうにか回してみる。が、起動した後で洗剤を入れ忘れたことに気付き、慌てて開こうとするも扉はすでにロックされていた。結局、洗濯物は後で改めて洗い直すことにして、丸窓の中で荒波に揉まれる下着を、洗面所にしゃがみ込んだままぼんやり眺める。
こんなことなら、もう少し母さんの家事を手伝っておくんだった。
慣れない一人暮らしに早くも躓きを覚えながら、そう、今更のように漣は思う。その母にも、次はいつ会えるのかわからない。父に至っては、会ってくれるのかすらもわからない。
大学は除籍。そもそも戸籍の上では、もはや漣は生者ですらない。
「しんどいな……」
自分で選んだ道とはいえ、ある日突然、これまでの人生と切り離される孤独とその痛み。ある程度覚悟はしていても、いざ喰らえば痛いものは痛い。
ただ、それでも腹だけはちゃんと減る。意外なところで図太い自分に驚きながら、漣は手早く髭をあたって部屋を出る。確か、二階に二十四時間利用可能なビュッフェがあると嶋野が言っていた――
「ふげ!?」
不意打ちのような衝撃に、わけがわからないまま廊下に倒れ込む。そんな漣の頭上から、「すみません!」と声が降る。やけに陽気な女の声。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「……は、」
いや大丈夫じゃない。そう文句を言いたくなるのを堪えつつ顔を上げると、若い女が心配そうに漣の顔を覗き込んでいる。綺麗な二重瞼に大粒のつぶらな瞳。程よい血色を纏う肌はきめが細かく、見るからに柔らかそうだ。
顎のラインで切り揃えたショートボブも、愛らしい顔立ちによく似合っている。
「あれ? 君、ひょっとして……新しい子?」
「えっ? あ……はい。実は昨日――」
「そうでしょ!? うん、初めて見る顔だもんね! あたし東雲瑠香! 瑠香って呼んで!」
怒涛のような自己紹介に、漣は「あ、はい」と条件反射で頷く。一歩下がると二歩詰めてきそうな勢いと雰囲気に、こんな人も住んでいるんだなとぼんやり思う。
ただ、大学で女子に声をかけられた時に感じていた、あのざらりとした不快感は皆無だった。少なくともこの女性は、開業医の息子というオプションが目当てじゃない。
「君は、えーと、なに君?」
「あ、ええと……」
差し出された手を取り、立ち上がる。小さく柔らかな手には、ところどころ肉刺のようなものができていて、何かしらの道具を日常的に扱う人だな、と漣は推理する。
「海江田、漣……ええと、漣は、さざなみの漣です。さんずいに、連絡の連、あと点をひとつ――」
「あーはいはい。漣、漣ね。――あ、ごめん、あたし下に荷物取りに行かなきゃだから、ちょおっと談話室で待っててくんない? ぶつかったお詫びに、後で朝食作ってあげるからさ!」
「えっ? あ、いや、朝食なら――」
ところが瑠香は、漣の制止も待たずにさっさと走り去ってしまう。下に荷物? わけがわからない。が、待てと言われたならとりあえず待った方がいいのだろう。廊下の案内板によると、さいわい談話室は部屋からそう遠くない場所にあるらしい。行ってみると、該当の場所にそれらしいスペースが見つかった。カーテンウォールの窓越しに、中庭と思しき緑地を見下ろす八畳ほどのオープンスペース。そこに小さなテーブルセットと、機械式のコーヒーサーバーが置かれている。コーヒーは、どうやら無料で飲めるらしい。これも税金……か。
その、税金支給のコーヒーをサーバーで受け取ると、椅子の一つに腰を下ろし、足を組む。爽やかな香りはモカだろうか。何にせよ良い豆だなとちびりちびり啜っていると、朝方の疑問がまたぞろ頭にもたげてくる。一体、俺はどんな夢を見たのか。……が、相変わらず、嫌な夢を見たという感触以外は何一つ思い出すことができない。
ただ。
あそこで見たもの感じたことは、確かに、漣自身の根幹に関わる何かに触れていた。
「何を、見たんだ……俺は……」
紙コップの中で所在なげに揺れる顔。物心がついた頃から、それこそ鏡越しに日々目にしているはずなのに――さっきも髭を剃るときに洗面台で散々眺めたはずなのに、今だけは、なぜか得体の知れない他人に見える。
やがて、忙しない足取りでばたばたばと瑠香が戻ってくる。
「おまたせー! ささ、おいでおいで!」
陽気なその声を合図に、漣はとりとめのない想像を打ち切る。
わからないものはわからない。そもそも一日前の自分は、こんな組織の存在も、運命すらも想像しなかった。今はただ、現実に身を委ねるしかないのだ。きっと。
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