嫌われた王と愛された側室が逃げ出してから

迷路を跳ぶ狐

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chap9.先へ進む方法

162.浮かび上がった存在するはずのない影

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 夜の城を、カルフィキャットが駆けていく。暗闇に溶けるような長い藍色の髪と、同じ色の目をした男で、人目を忍ぶためだろう、真っ黒なマントを羽織っていた。

 彼は、ひたすら、暗い城を走っていく。その髪は乱れ、服は襟元が大きく開いていた。そこからのぞく肌は、汗と涙に濡れ、いくつも、痛々しいほどの赤い跡ができている。

 汚れた体を拭くこともせず、彼は一心不乱に走っていた。

 それを、少し離れたところから、ティフィラージは、じっと見つめていた。

 ティフィラージがいるのは、グラス城の窓の外。外壁につかまったティフィラージには、誰も気づかないだろう。

 走るカルフィキャットの足には、ドロドロした白濁が伝っていて、それには血が混じっていた。彼の足首や手首、首にまで、縛られたような痛々しい跡がついている。乱暴に犯された跡だ。

 夜の暗闇に紛れて、城の裏口から飛び出すカルフィキャットを、ティフィラージは、音もなくつけた。

 あの男は、向かっているはずだ。ヴィザルーマの元へ。

 城を出たところで、カルフィキャットは一人の男と合流する。ヴィザルーマの手のものだろう。
 任務に必要な情報は、すべて頭に叩き込んである。あの男は、背格好からして、恐らくベジャッズだ。

 城壁にある小さな扉から出た二人は、街の方へ走っていく。それも、普段人が通らないような道を選んで。馬車すら呼ばないのは、追跡を恐れたヴィザルーマの指示だろうか。

 泣きながら走るカルフィキャットに、ベジャッズが、声を出すなと囁いていた。

 やがて彼らは町外れまで来た。この辺りは、昔から立っている古い建物ばかりで、今では、そこに家を失った者が多く住んでいたはず。

 夜の中で眠る家屋が並ぶ間を抜けて、二人は、一つの古ぼけた建物に入っていく。以前は街の集会場として利用されていたものだ。

 ティフィラージは、音を立てないように、窓の前に降りた。中を覗くと、そこは寝室のようだった。古びた部屋だが、丁寧に磨き上げられている。だいぶ痛んではいるが、補修された絨毯がひいてあった。

 そしてそこに、あの男はいた。

 ティフィラージも、彼がこのグラスの城にいた頃を知っている。あの時より幾分質素な格好をしているが、それでも、昔の面影はある。街の広場にいた時は、真っ黒なフードで顔も体も隠していたようだが、今はそれもない。

 簡素だが美しいナイトウェアを着た、ヴィザルーマだ。

 彼は、そばに控えた男に、何か話していた。男は、侍従のように振る舞ってはいるが、ヴィザルーマは、多くをそばに置かない。格好や立ち振る舞いからして、貴族とも思えない。おそらく、もともとここに住んでいた者だろう。住人のことは、すでに懐柔済みのようだ。広場では、まるで蘇った英雄のように振る舞っていたようだし、相変わらず、彼はこういうやり方がうまい。部屋の中も、住人たちが精一杯、彼へのもてなしとして美しく磨き上げたのだろう。さして広くもない場所で、元々の住人たちは玄関先の部屋で待機しているようだ。

 そして、ヴィザルーマのすぐそばには、ミズグリバスが控えている。ヴィザルーマに心酔していた貴族だ。

 もう少し近づけば、二人が話す声が聞こえるかもしれない。

 ティフィラージは、音を立てないよう、足元に気をつけながら、窓に近づいた。この辺りは街からも離れていて、草木も生い茂っている上に、外には荷物が多く置かれていて、隠れる場所も多い。加えて、周りでは虫の声が響いている。隠れるのに、困ることはなかった。

 だが、ヴィザルーマの方も、相当警戒しているはずだ。

 万が一に備えて、ティフィラージは、彼が仕掛けた罠がないか、確認しながら窓に近づいた。

 そのうちに、住人の男は部屋を出て行き、中にカルフィキャットが飛び込んでくる。彼は汚れた姿のまま、ヴィザルーマに縋り付いた。

「ヴィザルーマさまっ……!」

 長く走ってきたからだろう。彼の体は汗と泥で汚れている。
 そんな姿でヴィザルーマのベッドに上がったカルフィキャットを、そばにいたミズグリバスが咎めた。

「おいっ!! なんだそんな姿で!! 挨拶もなしに、無礼だろう!!」
「構わない。ミズグリバス」

 ヴィザルーマに言われて、ミズグリバスは口を閉じる。

 ヴィザルーマはカルフィキャットに微笑んで、その頭を、いたわるように撫でた。

 カルフィキャットが、泣きながら顔を上げる。

「ヴィザルーマさま……」
「カルフィキャット……よく帰ってきた。何があった?」
「……」

 答えないまま、ずっと泣いているカルフィキャットを慮ったのか、ヴィザルーマはそばに控えたミズグリバスに、部屋の外に出るように言った。
 けれど、さっきまでヴィザルーマのそばにいたミズグリバスは、納得できないのか、声を荒らげる。

「ですがっ……!! ヴィザルーマ様っ!! 貴方様の部屋を泥で汚すなどっ……!」
「ミズグリバス、彼は国のために、こうして辛い任務を終えて、戻ってきたのだ。労うのは当然だろう」
「ヴィザルーマ様……」

 ぼろぼろ涙を流し出すミズグリバス。そして、ヴィザルーマに丁寧に頭を下げると、部屋を出ていった。

 彼がいなくなると、カルフィキャットはヴィザルーマの足元に縋りつき、大声を上げて泣き出した。

「ヴィザルーマさまっ……!! も、もうっ……! 私はっ……もう耐えられません!! わ、私はっ……!! あ、あんなっ……!」
「カルフィキャット……辛い目にあったんだね……」

 しばらく、ヴィザルーマはずっと、カルフィキャットの頭を撫でていた。
 けれど、よほど恐ろしかったのか、カルフィキャットは泣き止まない。

「ヴィザルーマさまっ……! 私はっ……もうっ………………ち、チュスラスがっ……あの男は、貴方様の子であるはずがありません!! あの男は私をっ……私をっ…………!! 私の服をむしりとって……!!」
「……カルフィキャット……」
「あ、あんな男にっ……私はっ…………も、もう嫌です!! あんな屈辱っ……! 私はっ……もうっ……」
「カルフィキャット……すまない……」

 優しく言われて、カルフィキャットは、ハッとしたようにヴィザルーマを見上げる。

「そんなっ……! ヴィザルーマさま!! 私はっ……! 貴方様が謝られることはないのです!! すべては……!」
「お前に、それほどまでに辛いことをさせてしまったのは私だ……好きなだけ責めてくれていい……」
「違います!! 違うのです!! ヴィザルーマ様!!」
「カルフィキャット……だが、お前はこんなにも傷ついているではないか……」
「ヴィザルーマ様っ……! いいのですっ……! そんなこと……」
「お前がこんなに傷ついているのに、いいはずがないだろう!」
「いいのです!! あなたの……貴方様のためならっ……! 私はっ……私はっ……!」
「カルフィキャット……」

 ヴィザルーマが、泣いてうつむくカルフィキャットの頭に手を添える。その目は冷め切っていて、計算尽くの自分の言葉に、むしろ達成感を覚えているかのようにすら見えた。
 しかし、泣き濡れるカルフィキャットは顔を上げないし、ヴィザルーマのその冷淡な表情に気づかない。本気で労りの声をかけてもらったと思ったのか、彼は顔を上げて微笑んだ。

「ヴィザルーマさま……貴方様にそのような言葉をかけていただけるだけで、私は……」
「カルフィキャット……」

 微笑んで、ヴィザルーマは、カルフィキャットをベッドに押し倒す。

 そしてその体を、丁寧にタオルで拭き始めた。

「……カルフィキャット…………」

 労わるような声だが、それはカルフィキャットに、報告を促すもののようだ。

 カルフィキャットは震えながら口を開く。

「……ジョルジュに……会って来ました……」
「そうか……彼は、城はどうだと?」
「……イルジファルアが、シグダードの生存を知ったようです……どうやら、家族の名前を出されて脅されたようで……」
「そうか……それにしては、城が静かだ。イルジファルアは、チュスラスにその話をしていないのか…………」

 すると、カルフィキャットは、初めて顔を綻ばせる。

「今すぐそのことを、チュスラスに話すべきです!! シグダードは、この国を滅亡させるつもりです!! あれを連れてきたフィズだってっ……」
「カルフィキャット!!!」

 刺すように鋭く怒鳴られ、カルフィキャットは口を閉じた。おびえたような彼の顔を見て、ヴィザルーマはすぐに、さっきまでのあの表情が嘘だったかのように微笑む。

「……カルフィキャット…………」
「は、はい……ヴィザルーマさま……」
「それは、私が決めることだ」
「はい……」
「それで、チュスラスから、フィズの様子は聞き出せたか?」
「……いいえ。ですが、フィズはずっと、リリファラッジの部屋におります。不自由ではあるでしょうが、以前のように大怪我をしたり、死にかけるようなことはないでしょう」
「そうか……」
「あの……ヴィザルーマ様……」
「どうした?」
「……あ、あの、フィズは貴方様を裏切って、敵国の王についたのです。あ、あの男の処遇は……どうされるおつもりですか?」
「当然、あの男には、厳しい罰を下す」
「ではっ……!! あの男は死刑ですか!?」
「いいや」
「……え? な、何故です!? なぜあの男を処刑なさらないのです!??」
「カルフィキャット……あの男には、死よりも恐ろしい罰を下さなければならない。暗い地下に監禁し、私が罰を与え続けると、そう話したではないか」
「……はい…………ヴィザルーマ様…………」

 返事はしたけれど、カルフィキャットは不満そうだ。そんな彼に、ヴィザルーマは微笑んだ。

「君は本当に私に忠義を尽くしてくれる……」
「ヴィザルーマさま……」
「後少し……チュスラスから聞き出してほしいことがある」

 それを聞いて、カルフィキャットは、顔をそむけてしまう。彼の逃げて来た格好を見れば、それは当然の反応だったのだが、ヴィザルーマは、畳み掛けるように言った。

「カルフィキャット……あの男は、どうやってお前を汚した? 教えてくれないか?」
「そんな……ヴィザルーマさま…………」
「カルフィキャット……」
「ヴィザルーマさま! お、お許しください! も、もう……思い出したくありません!!」
「カルフィキャット……」
「…………ふ、服を……服を…………脱げと……」
「……」

 ヴィザルーマは、無言でカルフィキャットの服のボタンをはずしていく。柔らかいベッドの上で押さえつけられ、彼はかなり動揺していた。

「あ、あの……ヴィザルーマ様…………」
「忠義の礼だ……私も、お前に礼を尽くさなくては……」
「そ、そんなっ……! ヴィザルーマ様っ……!!」

 組み敷いた男の舌が、カルフィキャットの痛々しい体を這う。彼は涙を流して「汚れています。いけません」と言って拒否したが、ヴィザルーマは、その体を丁寧に舐めていく。

「汚れているのではない。これは、お前の忠義の証だ。全て私が貰っていく」
「ヴィザルーマ様…………っ!!」

 泣いているカルフィキャットをあやすように、ヴィザルーマは、その体に快楽を教え込む。

 ティフィラージは、外で聞いていて、なんて哀れな男だと思った。

 涙を流して、これからも貴方に仕えますというカルフィキャットは、ヴィザルーマが時折見せる、冷徹な目に気づかない。あれは、人を見る目ではなく、道具を見る目だ。それも、長く使う気などまるでない。使い捨てのものを。

 それは、自分も同じであることは自覚している。ティフィラージは、イルジファルアの使い捨て。それでも、イルジファルアはティフィラージを部屋に入れるし、ずっと、使い捨てのはずのものを使い続けている。大きな失敗をしても、殺されることはなかった。失敗を許さないイルジファルアが、まだティフィラージを使い続けるという。

 それを思い出すと、ティフィラージの胸の奥が明るくなり、わずかな優越感と共に、心地よさが生まれる。

 今は特に、目の前で無残に利用される男を見た後だ。ますますその優越感は強くなるはずだ。

 それなのに。何かがおかしい。

 明るく晴れるはずの胸に、微かな陰りがある。
 そして、その陰りの中には、ヴァルケッドが振り向いて鞭を振り上げる姿が浮き上がっていた。

 あれはずっと、イルジファルアが直々に行ってきたのに。

 ティフィラージは、胸を押さえて邪魔なものを打ち消そうとしたが、それは消えるどころか広がるばかりだ。

「…………イルジファルア様……」

 呟いて、気づく。

 あの部屋の外で、イルジファルアの名前を呼ぶことは禁じられている。破ったのは初めてだ。

 口を噤む。

 これからも、自分はイルジファルアの道具。

 唯一無二の。

 きっとずっとそうだ。そのはずだし、疑うことなど、絶対に、永遠に、あり得ない。

 そう確信すると、少し落ち着いた。
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