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30.得体の知れない薄笑い
しおりを挟む「う……あ……」
目を覚ました僕は、久しぶりにフュイアルさんのマンションにいた。なんだか体が痛いし動かない。
寝かされていたのは冷たいソファ。一人で住んでるくせに、僕が寝てもまだ一人くらい座れそうな大きなソファに、特に拘束されることもなく寝かされている。
いつもこういうことをする時は、僕を縛り付けるくらいするのに、一体あの変態魔族、どういうつもりだ。
ソファから体を起こす。
キッチンにいたフュイアルさんはすぐに気付いたみたいだ。片手に湯気を上げるマグカップを持って、人をいきなり連れ去ったとは思えないような笑顔で近づいてくる。
「起きたー? 飲む?」
「……」
一体、この人の神経はどうなっているんだ。なんでそんな、何事もなかったかのような顔していられるんだ。
フュイアルさんが持ってきたマグカップには、甘い匂いのするミルクがたっぷり入っている。
鼻先に突き出されると、その溶かすような匂いが、僕を誘うみたいに絡みついてくる。こんなことをされているのに、マグカップのミルクが、すごくうまそうに見えた。
「なんですか……これ……」
「トラシュが俺の前に跪いて舐めてた生クリームを入れたミルク」
「死ね!! 誰が飲むか!! なんでこんなところ連れてくるんだよ!! お好み焼き、まだ食べてないのに!!」
「トラシュが嫉妬させるからだろ?」
「嫉妬? 何のことだよ!! もう帰る!!」
「待ってー」
からかうように言って、フュイアルさんは僕の肩を掴んで、ソファに押し戻す。
馬鹿力のフュイアルさんに、ソファの上に押し倒されて、めちゃくちゃ腹が立つ。
「離してください!! フュイアルさん!!!!」
「嫌。トラシュを俺のものにするまで離さない」
「ふざけんな離せ!! 誰がお前のものになんかなるか!! バーカっっ!!」
「俺、トラシュのこと、好きなんだよ?」
「るせえよっ!! フュイアルさんの好きなんて、虐めて弄ぶのが好きって意味だろっ!! 冗談じゃないっっ!! お断りだっっ!!」
必死に暴れる僕を、そいつはますます強く押さえつける。
一体、なんなんだ。
フュイアルさんが僕をどう思っていようが、そんなのどうでもいい。フュイアルさんだけは嫌だ。
両手にありったけの魔力を込めて、僕はフュイアルさんを突き飛ばした。
不意打ちが功を奏したのか、気持ち悪い男を自分から離すことには成功した。
乱れた服を押さえる。自分の胸に自分の手が当たって、そこが壊れてしまいそうなほど脈打っているのが分かった。体まで熱くなっている。それがひどく腹立たしい。
「こんなところ出ていくっ!! こんな街……もう嫌だ!! お前がいないところに行くっっ!!!!」
何度か考えて、その度になんとなく消えていた計画を思いっきり叫ぶ。腹の底から怒鳴りつけたせいか、息が乱れていた。
肩で息をしている僕を、フュイアルさんは笑顔で眺めている。
怒り出すと思ったのに、逆に笑われ、ぞっとした。
僕の言っていることは通じているのか?
むしろ、僕の話していることを聞く気があるのか?
静かになった部屋で、フュイアルさんは目を細めて笑い、首を傾げた。
その男の声が、まるで冷たい風のように、耳を突き抜けていく。
「どうやって?」
体温を感じないような顔をしたフュイアルさんが、ゆっくりと、僕に近づいてきた。
腹を空かせた魔物のように見える。
得体の知れないものを感じた僕は、逃げようとしたのに、なぜか足が動かない。魔法にかかっているわけじゃないのに。
怯える僕に近づいてきたフュイアルさんは、僕のことを面白そうに見下ろしていた。
冷たいその男の指が、まるで絡みつくように僕の頬に触れる。
「トラシュはさあ、俺から離れて、どこかへ行けると思ってるの?」
「え……あ…………い、行ける……行けるに決まってるだろ……」
「砂漠は強力な魔物であふれている。街中には、俺たちを恨む奴らがうろついている。今日、魔族の男に殺されかけたの、忘れた?」
「……」
「無事に町から出て、砂漠を越えるなんて、不可能だろ」
「…………そ、それは……」
「ここを出て行けば、住むところもなくなる。魔物からも盗賊からも魔族からも恨みを買ったトラシュを、受け入れてくれるところがあるのか?」
「……………………」
突きつけられて、初めて自覚できた現実だった。
僕じゃ砂漠を越えるのはかなりきつい。強力な魔物を一人で倒すなんて、多分不可能だ。
その上、僕を恨む奴に追われることになる。
ここを出ても住めるところがないし、野宿しようにも、夜に一人きりで人気のないところにいたりしたら、暴漢どもにレイプされて嬲り殺しにされる。
僕は、どこへもいけない。
立ち尽くし、ただ呆然とする僕に、フュイアルさんは顔を近づけてくる。
足の力が抜けて、立っていることすらできずに、僕はフラフラと後ろに下がっていく。
足にソファがあたって、そのままその上に尻餅をついた。
愕然と俯く僕の顎に、冷たい指が触れる。くい、とそれをあげられて、無情な男と目があってしまった。
「まだ出ていける気でいるの? オフィスだってすでに、俺が呼び寄せた魔族でいっぱいだ。街もそうだ。俺が一言、トラシュを探せといえば、みんながお前を追う」
「な、なんだよっ…………! それ!!」
「……トラシュに潜り抜けられるかなあ?」
薄暗い部屋に、フュイアルさんの小さな笑い声が響いた。
僕は、この薄笑いを浮かべる男が、心底怖くなった。
もう、この男に全てを握られている。
怯える僕を、その男は愉快そうに眺めていた。
「トラシュは一生、俺に飼われてればいい……分かった?」
「い、嫌……嫌だ……」
拒絶の言葉は、ひどくかすれていた。
乱れた呼吸で喉が渇いたせいだろう。そこがすり切れるように痛い。
絶望に気持ちが侵食されていく。
恐怖からか、僕は震えながら叫んだ。
「ぼ、僕をどうする気だっ……!! い、いつも……僕を好きに嬲って…………一体何がしたいんだっ……!? 僕をどうする気だ!! なんで……………………なんでこんなこと………………」
体が震える。ガチガチと歯がなった。
恐れるばかりの僕に、フュイアルさんは突然、穏やかな口調に戻って言った。
「俺は、トラシュをそばに置いて、可愛がりたいだけ」
「だ、誰が……お前なんかと!!」
「え? 嫌?」
「嫌だ!! お前なんかとどうにかなるくらいなら、死んだ方がマシだ!! 外で素っ裸のまま寝て、砂嵐に吹かれて死んでやる!!!!」
「そうかー……」
フュイアルさんは、肩を落としたように見えるけど、絶対気落ちしたりしてない。だって口調が軽すぎる上に、平然としすぎだ。
僕は本気で恐怖を感じているのに、この人は、一体何なんだ。
得体が知れなさすぎる。
不気味な奴。
フュイアルさんは、僕から離れて、にっこり笑った。
「トラシュがどうしても嫌だって言うなら、俺はもうしばらくの間、このままでいいよ。これまでと何も変わらず、俺との関係は、今のままでいい。だから、やけにならないで」
「…………な、なんで急に……!! なにを企んでるんだ!!??」
「なにも。トラシュが追い詰められちゃうのは嫌なだけ」
「……」
微笑むフュイアルさんは、いつもオフィスで僕をからかう時と、まったく変わらない様子でいる。
本当に、何を企んでるんだ。
警戒しなきゃいけないのに、フュイアルさんがいつもどおりに戻ると、僕の恐怖もゆっくり消えて、心が落ち着きを取り戻してしまう。
一体この人、なんなんだ。
そして、こんな人の前なのに、すぐにこうして、緊張を解いてしまう僕はなんなんだ。
気を許しちゃだめだ。
まだ少し恐怖は残っているようで、心臓がドキドキしてる。悟られないようにしなきゃ。弱みを見せたら、何をされるか分からないんだから。
フュイアルさんは、僕から離れて、リビングの棚から、何か取り出している。今ぼそっと「どうせ逃げられないんだし」とか呟いてなかったか?
やっぱりこの人はやばい。こんな奴の言うことなんか、絶対に信じるもんか。
絶対に、この人に気を許しちゃだめだ。
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