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不穏な足音
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「貴重な経験がたくさんできて、もう十分に満足してるの」
照れ隠しに、若干不貞腐れたような口調になってしまう。
「音羽がフランスへ行ったのを見届けて、俺の役割は終わったと傲慢にもそう感じた。でもな、いい加減に婚約を破棄していいはずなのに、それでも迷いは晴れない。そんなときに、君の母親が誰かと電話をしている話を聞いてしまったんだ」
それはいったいどんな内容だったのだろうかと、首をかしげる。
「音羽の仕事はフリーターのようなものだと。日本での働き口に目途をつけたとか、結婚相手を探さないとなど言っていた」
「なに、それ」
たしかに母は、帰国するように繰り返し促してきた。
でも、その後の生活まで用意しようとしていたなんてまったく知らない。
困惑する私を落ち着かせようと、碧斗さんが背中をなでてくれる。
「このままでは、音羽は強制的に帰国させられる。あの人が用意する仕事なんて、きっと音楽とは無関係なものばかりだろう。それに結婚相手って……そんなの認められるわけがない」
苦しげな声音に、ドキリとする。
「だったら俺でいいじゃないか。音羽が仕事をしたいと言うのなら反対はしない。楽器だって当然続けてくれてかまわない。俺なら音羽を自由にしてやれる。母親の話を聞いて、もう自分を止められなくなった」
「碧斗さん……」
碧斗さんが、熱い眼差しで私を見つめる。
「音羽の心だけが心配だった。好きでもない相手と、強制的に結婚させられる。これでは君の母親のやっていることと大差ない」
「そんな。私、碧斗さんと婚約してからずっとよくしてもらって、今に至るまでこんなに幸せでいいのかなって。むしろ碧斗さんの方が、私なんかと結婚することになって苦しんでるんじゃないか心配で……」
本気でそう考えて、ずっと不安だった。
「姉の話になると、碧斗さんはいつだって表情が曇っていたし。本当はまだ、姉が好きなのかなって」
「あの人にそんな感情を抱いたなんて、一度もない。音羽から一嘩さんの話が出るたびに、つらく当たられる君の姿を思い出していたんだ。それに、音羽が俺をほかの女性の婚約者だと信じている事実が苦しかった。長く続いた一嘩さんの関係についてはいずれ打ち明けるつもりでいたが、それでも姉の婚約者だった男に言い寄られても、音羽を困らせるだけだろ」
そんなわけないのにと、首を小さく横に振る。
安堵や後悔など、様々な感情が駆け巡る。
難しく考えすぎていたけれど、結局私たちは長くお互いを想っていたらしい。
そんな単純な事実にこれまで気づいていなかったのがなんだかおかしくて、視線を合わせたままふたり同時に小さく噴き出した。
「ずいぶん遠回りしたが、つまり俺も音羽も、お互いに好き合っていたんだな」
「そうみたい」
それまでの緊迫していた空気が嘘みたいに霧散して、くすくすと笑い続ける。今の私の反応は、ずっと気が張り詰めていた反動なのかもしれない。
照れ隠しに、若干不貞腐れたような口調になってしまう。
「音羽がフランスへ行ったのを見届けて、俺の役割は終わったと傲慢にもそう感じた。でもな、いい加減に婚約を破棄していいはずなのに、それでも迷いは晴れない。そんなときに、君の母親が誰かと電話をしている話を聞いてしまったんだ」
それはいったいどんな内容だったのだろうかと、首をかしげる。
「音羽の仕事はフリーターのようなものだと。日本での働き口に目途をつけたとか、結婚相手を探さないとなど言っていた」
「なに、それ」
たしかに母は、帰国するように繰り返し促してきた。
でも、その後の生活まで用意しようとしていたなんてまったく知らない。
困惑する私を落ち着かせようと、碧斗さんが背中をなでてくれる。
「このままでは、音羽は強制的に帰国させられる。あの人が用意する仕事なんて、きっと音楽とは無関係なものばかりだろう。それに結婚相手って……そんなの認められるわけがない」
苦しげな声音に、ドキリとする。
「だったら俺でいいじゃないか。音羽が仕事をしたいと言うのなら反対はしない。楽器だって当然続けてくれてかまわない。俺なら音羽を自由にしてやれる。母親の話を聞いて、もう自分を止められなくなった」
「碧斗さん……」
碧斗さんが、熱い眼差しで私を見つめる。
「音羽の心だけが心配だった。好きでもない相手と、強制的に結婚させられる。これでは君の母親のやっていることと大差ない」
「そんな。私、碧斗さんと婚約してからずっとよくしてもらって、今に至るまでこんなに幸せでいいのかなって。むしろ碧斗さんの方が、私なんかと結婚することになって苦しんでるんじゃないか心配で……」
本気でそう考えて、ずっと不安だった。
「姉の話になると、碧斗さんはいつだって表情が曇っていたし。本当はまだ、姉が好きなのかなって」
「あの人にそんな感情を抱いたなんて、一度もない。音羽から一嘩さんの話が出るたびに、つらく当たられる君の姿を思い出していたんだ。それに、音羽が俺をほかの女性の婚約者だと信じている事実が苦しかった。長く続いた一嘩さんの関係についてはいずれ打ち明けるつもりでいたが、それでも姉の婚約者だった男に言い寄られても、音羽を困らせるだけだろ」
そんなわけないのにと、首を小さく横に振る。
安堵や後悔など、様々な感情が駆け巡る。
難しく考えすぎていたけれど、結局私たちは長くお互いを想っていたらしい。
そんな単純な事実にこれまで気づいていなかったのがなんだかおかしくて、視線を合わせたままふたり同時に小さく噴き出した。
「ずいぶん遠回りしたが、つまり俺も音羽も、お互いに好き合っていたんだな」
「そうみたい」
それまでの緊迫していた空気が嘘みたいに霧散して、くすくすと笑い続ける。今の私の反応は、ずっと気が張り詰めていた反動なのかもしれない。
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