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第四章 百物語編
33話目 件の如し(六)
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そうして夜は深くなり、辺りは静まり返る。
見藤は事務所を出た時よりも、さらに疲労の色を濃くして帰宅した。霧子は折を見て神棚へと戻って行ったのか事務所内にその姿はない。
見藤はちらり、と件を見やる。彼はまだ眠っているようだ。それを確認すると事務机まで移動して乱雑に道具を置く。そして、おもむろにジャケットを脱ぎ捨てて居住スペースへと移動した。その次にはシャワーの音が響く。今日は食事も摂らず、寝てしまおうと考えたのだ。
しばらくすると、見藤は事務所の方へ戻った。無造作に下ろされた前髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、事務所を一通り見渡す。猫宮はソファーの上で身を丸めて眠っているようだ。
事務所は消灯され、月明かりだけが窓から差し込んでいる。月光の先、件は目を覚ましたのか――。その光をじっと眺めていた。
その姿を目にした見藤は、柔らかく声を掛けた。
「起きてたのか」
「……あぁ」
見藤は依然として、立ち上がる気配のない件の傍へと寄って、近くに腰を下ろす。この際、地べたに座ることを気にするなど野暮というものだ。尻が少し冷たいことが唯一の欠点だろう。
冬の始まり頃とは言え、流石に夜は冷え込む。誰の目もないため、見藤は上下スウェットに紺色の半纏というなんとも不格好な出で立ちをしている。
見藤はちらり、と件を見やった。
子牛というのは生まれて間もなく自力で立ち上がるのが自然の摂理だ。しかし、件は生まれてから間もなく生命の期限が迫るためなのか、どうにも歩くことができないようだ。こうして、ここに来てからも一歩も動かない。
見藤はそんな彼を不憫に思う。しかし、残された僅かな時間を少しでも意義のある時間として過ごそうと考える。
「少し、話でもどうだ?」
「ふっ、いいだろう」
見藤の提案に応えた件。月明かりに照らされた彼の表情はどこか嬉しそうに見えた。
そうして、見藤と件は夜通し話をした。不思議とそれは旧友と話すように楽しくもあり、面白くもあり、時に冗談を言い合った。
見藤が経験してきた怪異事件調査や、怪異からの相談など。時には少し抜けていて憎めない神獣白澤のことも。
件はこれまで見聞きしてきた事、どのような予言をしてきたのか、それは実際に起こったのか、まるで答え合わせをしているかのようだった。
「昔も今も、人は同族同士で争う」
「……変わっとらんな。……儂が予言するまでもない、ということだな」
「ふっ……。そういう事だ」
見藤がそう自虐的に笑うと、件も困ったように笑ってみせた。そして、件は月明りを眺めながら、ささやかな願いを口にする。
「そうだな、あとは冬の海が見てみたい」
「そんなもの、見てどうするんだ」
「風情があるだろう?」
「ははっ、そういうものか?」
件の答えに、今度は見藤が笑ってしまった。
そんな和やかな会話の最中。突然に件は俯き、ぽつりと言葉を溢したのだった。
「お主には、また会いたいと願うよ……」
「ははっ……、その頃に俺はこの世にいないだろうな」
「そうであっても、人の魂は廻る。私と同じように……」
「…………」
その言葉は、見藤には叶えることはできない。しかし、件が続けた言葉はどこか意味深だった。あの世の摂理に沿えば、人の魂は廻る。
見藤にもその摂理は当てはまるというのだろう。だが、この二人が再びめぐり合える可能性など、誰にもわかり得ないことだ。
件の言葉と共に、残夜はそろそろ終わりを迎える。徐々に外が白み始めたのだ。それはまるで、件の命の期限を現しているかのようだ。
傍で件の様子を見守っていた見藤はそれを感じ取っているのか、彼の最後を見届けるため腹を括ったように徐々に深く呼吸をする。少しだけ、眉間に皺を寄せる。
「……逝くのか?」
「あぁ、この短くとも楽しかった日は忘れない。予言など在りはしないが……。お主の生は尊いことだろう」
「………」
どうしてこうも穏やかな性分を持つ怪異というのは人の幸せを願うのだろうか、と思い見藤は哀しそうにより深く眉を寄せた。
眠っていたはずの猫宮は片目を開けて、ぽつりと「よって件の如し、だな」と小さく呟いた。
その言葉が意味すること。それは件の予言が外れないように、言葉に嘘偽りがないというものだ。猫宮はその言葉を言い終えると、再び目を閉じてしまった。彼らに余計な言葉はいらない、と猫宮なりに考えているのだろう。
そうして、徐々に細くなっていく声で、件はまばらに言葉を紡ぐ。
「もし、望みを持つことが許さるのならば……人に、なりたいと思うのは、いけないことだろうか……」
――怪異が人になりたいと願うか、その数奇な生に嫌気がさしたのか。
その言葉を聞きながら見藤はただ黙ったまま、件の傍にいる。
「ふふ……、ま、た会おう……」
「…………」
そう言い残して、件は黎明に導かれるように息を引き取った。
今回、件が受けた生は怪異として認知によるものだ。よってその肉体は遺らない。次第にぼろぼろと崩れ、塵となってしまった。黒く積もった塵、これは認知の残滓と似たようなものだろう。既に一部は虚空へと消えてしまった。
見藤は塵を拾い集め、ススキと鹿が彫られた木製の匣に入れた。その蓋にはとんぼ玉が装飾され、光を反射している。これらは昔から生命力の象徴とも言われるものだ。そんな絵柄が彫られた物に件の認知の残滓を入れるという行為は、なんとも皮肉だ。
最後の件の願いは、叶わない。件は件として生まれ、その短い生を終える。それ以外の何者にも成れない。
「最後の最後に、なんて我儘な奴だ……」
ぽつりと呟いた見藤の表情は、背に隠れて見えない。
ただ、せめてもの救いは、件がまた会いたいと思えるような人間に今世を看取られたことだろうか。
見藤は大きく息を吐くと立ち上がり、匣を力強く握った。後ろを振り返れば、今度はその目を大きく見開いたのだった。
いつの間にか見藤の後ろに佇んでいた霧子が、その綺麗な瞳から大粒の涙を流していたのだ。
見藤は思わずぎょっとし、慌てて彼女の元へ駆け寄った。
霧子は見藤の心の揺らぎを感じて神棚から降りてきたのだろうか。その姿は彼女が気に入っている淡い紫色の化粧着で、その格好ではこの夜は肌寒い。
見藤はすかさず半纏を彼女の肩にかけてやると、霧子は縋るようにその裾をぎゅっと握った。
彼女はすんすんと鼻を鳴らしながら、光に反射して煌めく涙はとめどなく溢れ、頬を伝う。見藤はその涙を拭うことはしなかった。
「たった数日のために……死ぬために生まれてくるなんて、残酷よ」
霧子はそう言って、また鼻をすすったのだった。
いつもなら、見藤に寄り憑く怪異を悉く嫌う霧子だが、どういう訳か件は違ったようだ。
初めはその短い生にただ同情心を抱いただけであったかもしれない。しかし、たった一日と数時間でも共に同じ時間を過ごし言葉を交わせば、自ずと距離は近くなる。それ故に、この早すぎる別れというのは酷く哀しい。
そんな霧子の涙と感受性を見藤は不謹慎にも、とても綺麗だと思ってしまった。
――いずれ時が来れば、見藤とてその生を終える。
そのとき彼女はこうも泣いてくれるのだろうか。不意に抱いてしまった人の狡い感情に、見藤は自嘲する。
見藤はそっと、霧子を抱きしめて震えるその背をさすってやる。しばらく、黎明に照らさながら二人は抱きしめ合っていた。
そうして日は完全に登り、また夕刻を迎え、夜が帳を降ろす。その頃には、鈴の香炉が鳴ることは無くなっていた。まるで件など端から生まれていないかのように、日常は瞬く間に戻ってくるのだ。
こうして、依頼は完遂されたのであった。
見藤は事務所を出た時よりも、さらに疲労の色を濃くして帰宅した。霧子は折を見て神棚へと戻って行ったのか事務所内にその姿はない。
見藤はちらり、と件を見やる。彼はまだ眠っているようだ。それを確認すると事務机まで移動して乱雑に道具を置く。そして、おもむろにジャケットを脱ぎ捨てて居住スペースへと移動した。その次にはシャワーの音が響く。今日は食事も摂らず、寝てしまおうと考えたのだ。
しばらくすると、見藤は事務所の方へ戻った。無造作に下ろされた前髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、事務所を一通り見渡す。猫宮はソファーの上で身を丸めて眠っているようだ。
事務所は消灯され、月明かりだけが窓から差し込んでいる。月光の先、件は目を覚ましたのか――。その光をじっと眺めていた。
その姿を目にした見藤は、柔らかく声を掛けた。
「起きてたのか」
「……あぁ」
見藤は依然として、立ち上がる気配のない件の傍へと寄って、近くに腰を下ろす。この際、地べたに座ることを気にするなど野暮というものだ。尻が少し冷たいことが唯一の欠点だろう。
冬の始まり頃とは言え、流石に夜は冷え込む。誰の目もないため、見藤は上下スウェットに紺色の半纏というなんとも不格好な出で立ちをしている。
見藤はちらり、と件を見やった。
子牛というのは生まれて間もなく自力で立ち上がるのが自然の摂理だ。しかし、件は生まれてから間もなく生命の期限が迫るためなのか、どうにも歩くことができないようだ。こうして、ここに来てからも一歩も動かない。
見藤はそんな彼を不憫に思う。しかし、残された僅かな時間を少しでも意義のある時間として過ごそうと考える。
「少し、話でもどうだ?」
「ふっ、いいだろう」
見藤の提案に応えた件。月明かりに照らされた彼の表情はどこか嬉しそうに見えた。
そうして、見藤と件は夜通し話をした。不思議とそれは旧友と話すように楽しくもあり、面白くもあり、時に冗談を言い合った。
見藤が経験してきた怪異事件調査や、怪異からの相談など。時には少し抜けていて憎めない神獣白澤のことも。
件はこれまで見聞きしてきた事、どのような予言をしてきたのか、それは実際に起こったのか、まるで答え合わせをしているかのようだった。
「昔も今も、人は同族同士で争う」
「……変わっとらんな。……儂が予言するまでもない、ということだな」
「ふっ……。そういう事だ」
見藤がそう自虐的に笑うと、件も困ったように笑ってみせた。そして、件は月明りを眺めながら、ささやかな願いを口にする。
「そうだな、あとは冬の海が見てみたい」
「そんなもの、見てどうするんだ」
「風情があるだろう?」
「ははっ、そういうものか?」
件の答えに、今度は見藤が笑ってしまった。
そんな和やかな会話の最中。突然に件は俯き、ぽつりと言葉を溢したのだった。
「お主には、また会いたいと願うよ……」
「ははっ……、その頃に俺はこの世にいないだろうな」
「そうであっても、人の魂は廻る。私と同じように……」
「…………」
その言葉は、見藤には叶えることはできない。しかし、件が続けた言葉はどこか意味深だった。あの世の摂理に沿えば、人の魂は廻る。
見藤にもその摂理は当てはまるというのだろう。だが、この二人が再びめぐり合える可能性など、誰にもわかり得ないことだ。
件の言葉と共に、残夜はそろそろ終わりを迎える。徐々に外が白み始めたのだ。それはまるで、件の命の期限を現しているかのようだ。
傍で件の様子を見守っていた見藤はそれを感じ取っているのか、彼の最後を見届けるため腹を括ったように徐々に深く呼吸をする。少しだけ、眉間に皺を寄せる。
「……逝くのか?」
「あぁ、この短くとも楽しかった日は忘れない。予言など在りはしないが……。お主の生は尊いことだろう」
「………」
どうしてこうも穏やかな性分を持つ怪異というのは人の幸せを願うのだろうか、と思い見藤は哀しそうにより深く眉を寄せた。
眠っていたはずの猫宮は片目を開けて、ぽつりと「よって件の如し、だな」と小さく呟いた。
その言葉が意味すること。それは件の予言が外れないように、言葉に嘘偽りがないというものだ。猫宮はその言葉を言い終えると、再び目を閉じてしまった。彼らに余計な言葉はいらない、と猫宮なりに考えているのだろう。
そうして、徐々に細くなっていく声で、件はまばらに言葉を紡ぐ。
「もし、望みを持つことが許さるのならば……人に、なりたいと思うのは、いけないことだろうか……」
――怪異が人になりたいと願うか、その数奇な生に嫌気がさしたのか。
その言葉を聞きながら見藤はただ黙ったまま、件の傍にいる。
「ふふ……、ま、た会おう……」
「…………」
そう言い残して、件は黎明に導かれるように息を引き取った。
今回、件が受けた生は怪異として認知によるものだ。よってその肉体は遺らない。次第にぼろぼろと崩れ、塵となってしまった。黒く積もった塵、これは認知の残滓と似たようなものだろう。既に一部は虚空へと消えてしまった。
見藤は塵を拾い集め、ススキと鹿が彫られた木製の匣に入れた。その蓋にはとんぼ玉が装飾され、光を反射している。これらは昔から生命力の象徴とも言われるものだ。そんな絵柄が彫られた物に件の認知の残滓を入れるという行為は、なんとも皮肉だ。
最後の件の願いは、叶わない。件は件として生まれ、その短い生を終える。それ以外の何者にも成れない。
「最後の最後に、なんて我儘な奴だ……」
ぽつりと呟いた見藤の表情は、背に隠れて見えない。
ただ、せめてもの救いは、件がまた会いたいと思えるような人間に今世を看取られたことだろうか。
見藤は大きく息を吐くと立ち上がり、匣を力強く握った。後ろを振り返れば、今度はその目を大きく見開いたのだった。
いつの間にか見藤の後ろに佇んでいた霧子が、その綺麗な瞳から大粒の涙を流していたのだ。
見藤は思わずぎょっとし、慌てて彼女の元へ駆け寄った。
霧子は見藤の心の揺らぎを感じて神棚から降りてきたのだろうか。その姿は彼女が気に入っている淡い紫色の化粧着で、その格好ではこの夜は肌寒い。
見藤はすかさず半纏を彼女の肩にかけてやると、霧子は縋るようにその裾をぎゅっと握った。
彼女はすんすんと鼻を鳴らしながら、光に反射して煌めく涙はとめどなく溢れ、頬を伝う。見藤はその涙を拭うことはしなかった。
「たった数日のために……死ぬために生まれてくるなんて、残酷よ」
霧子はそう言って、また鼻をすすったのだった。
いつもなら、見藤に寄り憑く怪異を悉く嫌う霧子だが、どういう訳か件は違ったようだ。
初めはその短い生にただ同情心を抱いただけであったかもしれない。しかし、たった一日と数時間でも共に同じ時間を過ごし言葉を交わせば、自ずと距離は近くなる。それ故に、この早すぎる別れというのは酷く哀しい。
そんな霧子の涙と感受性を見藤は不謹慎にも、とても綺麗だと思ってしまった。
――いずれ時が来れば、見藤とてその生を終える。
そのとき彼女はこうも泣いてくれるのだろうか。不意に抱いてしまった人の狡い感情に、見藤は自嘲する。
見藤はそっと、霧子を抱きしめて震えるその背をさすってやる。しばらく、黎明に照らさながら二人は抱きしめ合っていた。
そうして日は完全に登り、また夕刻を迎え、夜が帳を降ろす。その頃には、鈴の香炉が鳴ることは無くなっていた。まるで件など端から生まれていないかのように、日常は瞬く間に戻ってくるのだ。
こうして、依頼は完遂されたのであった。
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