この感情を愛と呼ぶには

紀村 紀壱

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2話 アルノア・エイリークは死を望まれる 4

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「ネロ」

 己の名前を呼ぶ声に馬の水桶に水を注ぎこんでいた手を止め、振り返ってアルノアをとらえた黒い瞳は不安げに揺れる。

「ご主人さま。ご用、でしょうか」

 初めてネロに出会った時から同じ季節が2つほど巡り、少年のつたない発音は時たま引っかかるものの、ずいぶんとスムーズに舌が回るようになって語彙力も増えた。

「口を開けなさい」
「……」

 アルノアの言葉に子供はパチパチとその瞬きで疑問を投げかけてくるが、それでもネロはおずおずと口を開く。従順さは主人に対する忠誠か信頼の証しか。
 いずれにしろ、この子供がこういった危うげな態度を取る相手はこの屋敷の中でそう多くはない。
 薄い唇の小さな口に、ポケットから取り出した缶から砂糖がまぶされた飴玉を1つ押し込んでやる。

「!」
「美味しいだろう」

 目を丸く見開いて頷くネロに目を細める。唇の端についた砂糖の粒を指先で拭うふりをして、唇を撫でる。
 アルノアの行動にぴくり、と驚いたように身体を跳ねさせるが、それでも子供は逃げ出さない。
 ほんの少しおかしいと思ったかもしれないが、今までアルノアはネロに対して決して酷いことをしなかった。それだけで狭い世界の中で生きる彼を油断させるに足りたのだろう。
 また初めて食べる甘いお菓子に気を取られていたせいかもしれない。

「あの」
「なんだ?」
「どうぞ日影へ。強い日差しは、お体に悪いないです」
「そこは『悪いです』か『良くないです』だな」
「お体に良くないです」
「それでいい」

 子供の口には比較的大きな飴玉だ。口の中でコロコロと動くソレが口から飛び出さないように、口元を押さえ、飴玉で頬を膨らませながら、ネロは気遣わしげにちらちらと木陰を見やりながらアルノアに提案する。
 その瞳にあるのは、心配だ。
 今日はネロが言うとおり日差しが強い。
 夏の盛りは過ぎ、雲は空の高いところに浮かぶようになってきた。朝晩は涼しげに、日中はまだ夏の気配を時折のぞかせる。今日はそんな夏の日差しを僅かに感じさせるが、運動をしないのならたいしたことは無い程度だ。
 だが提案を無下にする必要も無く、素直に木陰に移動してやれば、アルノアの姿を見てからずっと曇っていたネロの表情がほんの少しだけ晴れた。
 心の底から、ネロはアルノアを心配している。そのいじらしい様子に唇が笑みの形を作らないようにするのが大変だった。
 馬小屋にやってくるのは実に一週間ぶりだった。少し間を開けた方が効果的だと思ったからだ。
 想像通り、狙った反応を得られて満足する。
 きっと子供の目にはたった一週間でアルノアが『更に酷く』やつれたように見えるのだろう。



 あの日、庭の木が雷で燃え上がるのを見てアルノアが思いついた計画は実にシンプルな話だ。
 ネロと言う名の子供を安寧の下で可愛がるために、財力と名声と比例する様に恨みを買った立場を捨て、今度は比較的まっとうな新しい身分の人間へと生まれ変わろうと考えた。
 だが単純に事故などで突然死、という簡単な手段を取ることはしない。
 なぜならアルノアは己の容姿を最大限に利用してきた。
 いくら身分を作り変え、しばらく潜伏をするつもりだとはいっても今後、社交界に全く出ないような身分にまで身を落とし、不自由をする気はないからだ。何事にも自由に動くには先立つものは必要だ。
 今までのようなスピードで出世するようなことは無いだろうが、商才を出し惜しみしなければ遠い未来、いつかは顔なじみの者にも出会うことがあるだろう。
 人間、顔を隠し続け生きるなんて事は不可能だ。
 だからといって原型が分からなくなるほど顔に不用意に傷をつける、なんて安易に選べるわけもない。
 だからアルノアは人の記憶を消すのではなく、上書きすることにした。
 頭の中から特定の情報を完全に消去する事は難しい。だがよほど意識をしたり、ソレこそ特技でもなければ、映像記憶を脳は勝手に改変してしまう事はとても多い。
 つまり、アルノア・エイリークという男の顔を忘れさせるのが難しいなら、記憶している顔を変えてしまうのだ。
 その為に数ある幕引きの方法の中で選んだのは病気に身をやつしての自死だった。
 情婦に送るためと手に入れた化粧品で、徐々に顔色を悪くする化粧を施す。少しずつ、始めは違和感を抱かせない程の僅かな変化で。
 1年を過ぎた頃から目ざとい人間は少しずつ疑問を覚えるぐらいに、少しずつ顔をやつれさせてゆく。
「最近眠りが浅いというか眠れなくて」
「食欲が無いわけじゃないんだが、すぐに胸が詰まる気がするんだ」
「少し仕事を詰めすぎてしまったかな、最近疲れててね」
 なんてことない雑談の合間に『予兆』を潜ませて、ある程度体重を絞るのも忘れない。
 痩せ過ぎては流石に行動するための体力に支障が出てしまうから、ほどほどで妥協し化粧である程度影を入れて補強をする。頬をこけさせ、目元に血流の淀んだ隈を作り、髪の艶を落とす。できる限り夜しか出歩かず、わざと少しだけ大きめの服を着れば、事実以上に痩せた印象を与えた。
 そして段々と、行動もまた変えていった。
 商売は情報戦だ。今までは積極的に参加していた夜会や会合を、やつれて変わった姿を印象づけるために満遍なく、しかし必要最低限に絞って参加する。
 本来ならありえない仕事のミスを、少しずつ増やしてゆく。
 あらゆる医療品を取り寄せ、体に良いという食べ物を仕入れる。
 教会や孤児院へ寄付を始め、若手の事業の支援を行い、使用人に手厚い待遇を与える一方、医者を呼んではヤブ医者だとヒステリックに糾弾してクビにする。
 二年目に入る頃には、わざわざ調べる必要も無いほど「以前の知性と美貌など見る影もない」「どうやら深刻な病を患っているようだ」と囁かれるようになった。
「今更になって善行を積んで、なんとか生き長らえたいと醜く足掻いている」と嘲笑が増えた頃を見計らい、寄付や支援に見せかけて今後の潜伏予定先へ、資産のほんの一部を移動して新しい身分の準備をする。
 アルノア・エイリークを殺す手筈は順調だった。誰も疑う素ぶりなど無かった。
 それもそのはずだ。まさかただ一人の子供との平穏が欲しくなったからと積み上げた物を手放す愚か者だったとは思うまい。
 そしてアルノアが死んでしまった方が奪える富が増えるとはるかに都合が良いと考える人間ばかりだった。
 同業者は憐れみと労り、同情の言葉をかけてきながら瞳の奥ではいつ死ぬのだろうと算段し舌なめずりをしていた。
 築き上げたものがどんどんと失われゆく様に、後ろ髪を引かれなかったかと言えば嘘になる。
 ただ不幸中の幸いとして、直接手を下さずとも死期を待つかと、何かと仕掛けてくる人間が減ったのは良かった。誰もが出来ることなら手を汚すのは避けたい。
 少しばかり勢いの減った『嫌がらせ』に、慎重を期しながらも頑張っている自分へのご褒美とばかりに他の者より目立たぬようネロを愛でる。その無垢な仰望を抱いた瞳に己を映すのは目減りしてゆく富など気にならなくなるほどの麻薬だった。
 準備は上々だった。
 後の問題は己が死んだ後のネロ母子の身元をどうやって押さえておくかという事だったが、ソレについては『共謀者』の協力を得るように手を回しているところで、思いがけないことが判明した。

 ネロに、魔術師の才能が発覚したのだ。


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