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3話 思考の小道で迷子中 3
しおりを挟む『お久しぶりです、アルグ様……いや、今後は旦那様、と、お呼びした方がよろしいでしょうか?』
自分で口にしたはずなのに、思いの外、言葉が自身へと突き刺さって。
ルスターは一瞬、自虐的な考えへと意識をとばしかけて、しかしすぐさま我に返り、こんな事ではいけないとアルグを仰ぎ見た。
すると、だ。
そこには、わずかに耳を赤くしたアルグが眉をよせて立っていて。
己の態度が気に障ってしまったか。
眉間のしわにばかり意識がいき、慌てて謝罪をと、ルスターは口を開くが、先に言葉を紡いだのはアルグだった。
『その、……旦那様というのは、やはり正式な立場になってからがよいかと……だな……』
不意に視線を逸らして、言いよどむアルグの姿は、気分を害した様子とも、また普段の威風堂々とした様子とも違い、ルスターは戸惑いを覚える。
新しい主人となったアルグを、どのような言い回しで呼べばいいのか尋ねたつもりなのだが。
どうも返された言葉は、ルスターが考えているものとは違ったニュアンスを含んでいるようだ。アルグがなにを言いたいのか、理解に努めようと頭をひねるが、残念ながら答えらしきものは浮かばずに。
『申し訳ありません、旦那様とはお呼びしない方がよろしかったでしょうか』
『いや! 決して嫌だとか、そう言うわけではない。ただそのように呼ばれると、我慢が……何ともこれくらいで情けないものだと笑ってくれてもいい』
『我慢?』
やはり、なにを言っているのか分からない。幾分焦っている珍しい姿に目を瞬かせれば、アルグはとりあえず中に、と。ルスターを屋敷の中に招き入れる。
屋敷、といっても、アルグのそれは、シエンの屋敷とは比べものにならないほど小さい物だった。
同じ4階建てだが、敷地面積は5分の1あるかないか。
以前、アルグの屋敷に訪れた際にも思ったが、こぢんまりとしたエントランスにメイドたちの姿がなく、どういうわけなのだろうと思えば、『メイドは基本、馴染みの者を都度日雇いしている。この屋敷は隊長なのだからと押しつけられたが、兵舎の施設で十分暮らしていけていたからな、正直、持て余している』と、説明された。
確かにあれやこれやと世話を焼かれるよりも、さっさと自分自身で支度なり、行動する姿の方が容易に想像できて、ルスターはなるほど、と納得する。
ところがそうなると、自分の存在は不要ではないだろうかと、疑問が顔にでてしまったのであろう。アルグは一つ、ため息をついて。
『……とはいえ、いつまでも新米騎士に混じって食堂なり仮眠室なりを使われては、下の気が休まらないし、夢が壊れると言われてな。それ相応の振る舞いを覚えろ、とずいぶんとせっつかれていたのだが、どうも上が提案してくる内容は仰々しくてかなわん』
全く持って面倒だ、という心情がありありと分かる言い方は、どこか子供のようで、ルスターはわずかに目を見張った。
よく考えれば、今までアルグと対峙する機会とはシエンの側にある時だった。仕事上ではアルグはシエンの上司だが、ソレを抜かせば、立場はどちらに天秤を傾けるか迷うところで。
多少なりとも作っている部分があったのか。
常に毅然とした態度を崩さず、淡々と物事に従事する性格かと思っていたが、もしかしたら、こちらが素なのかもしれない。騎士殿の新しい側面に、ルスターは少しほほえましさを覚えて。
無意識に頬がゆるみかけたところで、アルグの視線がルスターに落とされ、反射的に背筋を伸ばす。
『そんな折りだ。お前の主より、お前を従者にしてみるのはどうかと申し出があったのは。お前なら、今までハンブル家に勤め、その生活を見て、シエンを支えてきたノウハウがある。正しき振る舞いを乞う相手としての知識も、身辺を任せるにおける信用も、十分にあった。故に、提案には有り難く飛びつかせて貰った』
『そのような評価をいただけて、至極こう…・……』
光栄です、と、続けるはずだった言葉を、ルスターは息と一緒に飲み込んだ。
何しろこちらを見つめているアルグの目が。急速に湛えはじめた色に気がついたからだった。
『もちろん、飛びついたのは能力を欲してだけではないがな……』
言葉の裏に、含ませてある意味が分からぬほど、ルスターも鈍くはない。
そもそも、この場の雰囲気が。一言で言い表すなら、「あ、なんか、空気が変わった」と、いうもので。
(こ、これは話題を変えなければ……! だが、余りに突拍子もない話題は失礼というもの。ここはやんわりと、しかし確実に流れを切断できる何か……)
一体なにが空気中に増えたのか。そんな疑問を投げかけたいほど、間違いなく何かが濃厚になった空気に。
頭の中をフル回転させようとするが、先ほどから目がそらせなくなっているアルグの瞳が、ますます熱を帯びて。その熱に焼かれるように、ルスターの思考は焦げ付いて、なにも考えがまとまらなくなる。
もしオーグがここにいたならば、ルスターを蛇に睨まれた蛙のような状態だと表現しただろう。
『先ほど車から降りてくるお前を見ても、己は夢を見続けているのではないかとかと思っていたが……』
すっと、アルグの右手が持ち上がり、ルスターの頬に触れるか触れないかという位置で手を止め、囁くように言う。
その動きに、ルスターが反射的に身を竦ませてしまえば。
『触れられるのは、怖いか?』
『え……あ……そ、れは……』
本音を言えば、怖い。
しかしそれは、単に触れられることが、ということではなくて。目の前のアルグの雰囲気が、普段は清廉潔白で情欲の気配一つさせないのに、こうやって一瞬にして性的なものを帯びるのに、頭がついていけなくて恐ろしかった。
『すまぬ、意地悪な問いをした。オーグにあれほど言われたのにな』
アルグの表情は変わらない。
だがその声はどこか切なさを滲ませて。
持ち上げられた手が、ルスターに触れることなく、ゆっくりと下ろされる。
ただそれだけのことにもかかわらず。
実際は触れられてすらいないのに、アルグの手から発せられた熱が、やんわりと頬を撫でてゆく感覚がして、ルスターは目眩にも似た心地を覚える。
たった一振りの手の動きで、これほどの破壊力を持つとは。一体なにをどうしたらそんな色気を持つことができるのか。
思わずズレた感想を考えるほどルスターは混乱して、直立不動でアルグの一挙一動を見守る。すると、アルグは上着の内ポケットに手をやると、真っ白な封筒を一通取り出した。
『私の気持ちだ。いつまでも待つつもりだから、焦らなくていい』
差し出された封筒を、こわばりが未だとれぬ両の手で苦労して受け取る。
『中を、見ても?』
伺えば、アルグは少し緊張したように見える面持ちで頷いて。
封筒の中身を取り出し、三つ折りになった紙を広げ、目を書面に走らせるまでもなく、表題の文字にルスターは思考を停止した。
【結婚届】
思わず、紙を裏返す。裏はまっさらで、何の文字も書かれていない。
封筒の中をもう一度確認するが、そこにもなにも入ってはいない。
紙を、また裏返す。踊っている文字は先ほど認識したものと同じで、幻覚ではなかったらしい。
上手くはないが、丁寧に書かれたのであろう文字で半分が埋まっている。
まだ空白となっている自署欄の保証人の欄には見覚えのある字で記された名前があり、思わず坊ちゃま、とつぶやきそうになった。
カサリ、と紙をまた三つ折りにして封筒にしまい、ルスターは自分が足元からさらりと崩れるのではないかという錯覚に陥った。
まだ、恋人になることを要求されているのであれば良かった。いっそこのこと体だけでも、なんて言われる方がもっとましだった。
恋人ならまだいいのだ。つきあって別れても、一時の気の迷いだと。興味本位で手を出したなんて言い逃れも出来る。
しかしアルグが望んでいるのは、ソレよりさらに上の段階だった。
結婚は駄目だ。間違っても、そう軽々しく決定出来る事じゃない。
なにが、焦らなくていい、なのだろうか。
どう考えてもこの手の中にある一枚の紙は、ルスターにとって強大なプレッシャーの固まりだった。
アルグにしてみれば、責任を持って結婚する気概だと、なにもかも受け止めるつもりだと、そう言う意味合いなのだが。
(……なんと、重い)
いかにして、アルグ向けられる恋情をそらすことが出来るかと考えるルスターには、その紙は異様に重かった。なまじ、アルグの気持ちをくみ取ることも出来るがゆえに、だ。
もう、これは。
いっそのこと身を任せてしまったほうが楽なのではなかろうか。
一度は腹をくくったのだ。それに四方八方が塞がれ、この有様だ。ほんのちょっとペンを走らせれば、もう悩まなくていいのだ。悲しみを浮かべるシエンとアルグの夢を見て、うなされる事もない。
『ルスター?』
『!』
名を呼ばれ、はっとして顔を上げる。
悪魔のささやく甘い誘惑から意識を切り離せば、こちらを心配そうに見つめるアルグの顔があった。
『すまない、まだソレを渡すのは早かっただろうか。オーグにも以前、渡すにはまだ早いと言われていたのに、どうもお前がいることに浮かれて、早まってしまったようだ』
先ほどまでの、色めいたものはすっかりなりを潜めて。
鈍い反応のルスターに、アルグは己の行動がまずかったことを悟ったらしい。
『どうも私はこういう事に慣れていなくて、な。私の行動に厭う事があるなら、遠慮なくいってくれ。努力する』
いくらアルグとはいえ、人の子である。想いを寄せる相手から、嫌われるような事態に不安を覚えることも当然あるのだが。
いつもは毅然とした態度のアルグが、顔を曇らせる様はルスターには晴天の霹靂で。
この状態を終わらせることが出来る、せっかくのチャンスだったというのに。
『そんな! アルグ様を嫌うなど、ありえません……!』
気がつけばルスターは全力で否定言葉をアルグに捧げていた。
告げた言葉は真心からのもの。
しかしそれは、今持ち出すには少々、意味合いが不適切だ。
そのことに、はたと気が付いても、もう遅い。
『そうか……? ならば良かった』
表面上は、わずかに微笑まれているだけなのに。ぶんぶんと力強く振られる犬の尾の幻覚がルスターには見えた。
微笑みが目に痛い。柔らかな言葉が胸に刺さる。
アルグには幸せになって欲しいと思いつつ、己はまた、浅はかな言葉を吐いてしまった。
しかも、自分が楽になることばかりを考えて、アルグを受け入れようとするなんて。
(ワタクシはなんと愚かな……)
本当に、砂になって、吹き飛んでしまいたい。
どこか輝くアルグの顔に照らされて、浮き彫りにされた己の行動を振り返り、目が当てられないとルスターは思う。
情けない。全く持って情けない。
こんな事では従者として、否、人としてどうだろうか。
己は自分の発言と行動に気をつけなければ、もっと、アルグの気持ちに誠実に向き合っていかなければと、ルスターは気持ちを新たにする。
新たに、する、のだが……
『しかし、なんというか「旦那様」という呼び方も、ぐっと来るものなのだな……。できれば、早く正式に……いや、急かすつもりはないが』
あ、「旦那様」とは、そっちの意味だったんですね。
口元を隠しつつ、ごくごく真面目に曰うアルグに、ルスターの決心は早々に揺らぐ。
なんだか、頑張らねばという気持ちと、ちょっと無理そうな気がするという気持ちで心中はぐっちゃぐちゃだ。
すこし泣きそうになった。しかし耐えた。視界がにじんだが、涙はこぼさなかったから、耐えきったと言っていいだろう。言わせてほしい。
結局、呼び方は今まで通り「アルグ様」となった。
アルグは「とても残念だ」という目をしていたが、ルスターは気がつかないふりをした。
ソレくらいは、許して欲しかった。
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