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第二章 戴冠式の夜
18 黒獅子将軍について ①
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陸軍省は相も変わらず慌ただしい雰囲気に包まれていた。
戴冠式前の希望に満ちたそれとは程遠く、今は誰もが厳しい表情をして方々を駆け回っている。原因はもちろん、あの戴冠式の夜に起きた惨劇にあった。
国として最も重要な行事の一つであるにもかかわらず、重傷者六名を出した史上稀に見る大事件。未だ解決の糸口を見せないこの出来事が、疲れ切った軍人たちを諸々の後始末へと駆り立てているのだ。
そしてランドルフはといえば、自身の執務室にて部下から書類を受け取ったところであった。
セラフィナを屋敷に戻したのが昨日、そして今日後ろ髪引かれる思いで出仕したのは他でもない。ランドルフは事件に深く関わった当事者として、捜査の一端に関わることになったのだ。
もしかすると捜査の陣頭指揮を取らされるかもしれないと構えていたのだが、昨日の段階で情報部に一任することが決まっていた。アイゼンフート侯爵夫人が皇帝夫妻を庇って負傷したという情報は、箝口令を敷いたにもかかわらず軍内部を駆け巡り、それはランドルフに対する労りという形で表面化していたのだ。
何はともあれ仕事が増えなかったのはありがたい。今は少しでも長く屋敷にいる時間を作り、妻を気遣ってやりたいというのがランドルフの偽らざる本心だった。
ただし彼女をあんな目に合わせた連中を許すわけではない。奴らは必ず炙り出し、然るべき裁きを受けさせてやる。
「少将閣下……? あの、書類に何か不備でも?」
怒りのあまり凶悪な顔つきをしたランドルフに怖々声をかけたのは、第三師団参謀にして直属の部下であるケッシンガー少佐である。
ランドルフより一つ年下のこの男は書類仕事が得意で大変重宝しているのだが、いかんせん指揮官の顔にいつまで経っても慣れてくれないのが玉に瑕。
ランドルフが書類からチラリと目線を上げると、彼は青ざめた顔の前に両手をかざして縮こまってしまった。
「ってひゃー! やっぱり怖い!」
「……貴様はいつもいつも、本当に真正面から失礼だな」
「だ、だって閣下、いつにも増して迫力あるんですもん!」
いかにも事務屋といったひょろ長い体を折り曲げたケッシンガーは、本気で怯えた様子で肩を震わせている。この反応はいつものことなので、ランドルフは無視して会話を続けることにした。
「この書類に問題はない。ここに解決の糸口があると思ったら、ついな」
「そ、そうでしたか。あの、奥方様のお具合は、快方に向かっておられるのですよね?」
どうやらあまりに張り詰めた様子の上官に、奥方の具合がそんなに悪いのかと心配になったらしい。ケッシンガーという男は腰抜けではあるものの、人として真心ある好人物なのだ。
ランドルフは極力優しい顔になるよう気を付けつつ、部下の労りを受け取ることにした。
「起上がれるようになるまで十日程度とのことだ。心配かけてすまないな」
「いいえ、そんな! 第三師団一同、今回のことで少将と奥方様を誇りに思っているんですよ。私に代われる仕事があるなら何でもお引き受けしますから、なるべく早く帰って差し上げてくださいね」
「ああ、感謝する」
温かい言葉をかけてもらってありがたいのだが、その間一回も目が合わないのはどうしたことだろうか。
とはいえ、いい部下を持ったなとしみじみ思うランドルフなのであった。
書類の内容は警備の不備をまとめたものだった。確認して自身の見解を述べた報告書を作成した後、ランドルフは昼を挟んで執務室を出る。
向かった先は陸軍省の地下二階、特別な囚人を収監する地下房。ここに立ち入るには将官ですら申請が必要なのだが、今回はすんなりと許可が下りていた。入り口を固める衛兵に身分証を提示して入室すると、すぐに今回の捜査における最高責任者が待ち構えていたので敬礼を交わす。
「お初にお目にかかります。情報部長、陸軍大佐マイネッケであります」
「アイゼンフート少将だ」
「この度はご協力感謝致します。さ、奥へどうぞ」
マイネッケは慇懃な笑みを浮かべて奥の独房を指し示すと、先立って歩き始めた。石造りの地下房は湿っぽく、ところどころ灯されたランプの明かりが彼の白いものの混じった髪を赤く見せていた。
マイネッケ大佐は情報部長で、要するにスパイの親玉を勤め上げる傑物である。
滅多に表にその姿を現さず、年齢や経歴、本名すらも謎に包まれていることから、陸軍内でも関わりにくい人物との印象が強い。
ランドルフですらその姿を見たのは片手で数えるほどしかなかったが、こうして実際話してみると底知れないとの第一印象を抱かずにはいられなかった。
髪に白髪が混ざっているがその顔付きはまだ若く、この相反する二つの要素が年齢不詳の原因だろう。細身の体からは一切の隙も感じられず、一見柔和に見える目元はランドルフを認めた瞬間だけ鋭さを増していた。一度手合わせでもしてみたいものだが、彼の職務上それは無理な相談なのだろう。
「情報部の管轄になったということは、相当根深い事件のようだな」
「仰る通りです。まだ全貌は掴みきれていませんが、これは恐らくヴェーグラントの根幹を揺るがしかねない事案ですよ」
マイネッケはどこか楽しげにそんなことを言う。こんな厄介な事件の責任者になったというのにこの余裕とは、やはりスパイ畑の人間は感性が違うのだろうか。
「随分楽しそうだな。そんなに見通しが明るいか」
「おや、これは失礼いたしました。アイゼンフート少将の奥方がお怪我をなさったというのに、不謹慎でしたかな」
「……それは貴官には関係のない話だ」
「重ね重ね失礼を。私はもともとこういう話し方なのですよ、どうぞご容赦ください」
どうにもつかみどころのない男だ。調子に飲まれているような気がして閉口していると、やがてマイネッケは一つの扉の前で足を止めた。
「この部屋です。どうぞ」
戴冠式前の希望に満ちたそれとは程遠く、今は誰もが厳しい表情をして方々を駆け回っている。原因はもちろん、あの戴冠式の夜に起きた惨劇にあった。
国として最も重要な行事の一つであるにもかかわらず、重傷者六名を出した史上稀に見る大事件。未だ解決の糸口を見せないこの出来事が、疲れ切った軍人たちを諸々の後始末へと駆り立てているのだ。
そしてランドルフはといえば、自身の執務室にて部下から書類を受け取ったところであった。
セラフィナを屋敷に戻したのが昨日、そして今日後ろ髪引かれる思いで出仕したのは他でもない。ランドルフは事件に深く関わった当事者として、捜査の一端に関わることになったのだ。
もしかすると捜査の陣頭指揮を取らされるかもしれないと構えていたのだが、昨日の段階で情報部に一任することが決まっていた。アイゼンフート侯爵夫人が皇帝夫妻を庇って負傷したという情報は、箝口令を敷いたにもかかわらず軍内部を駆け巡り、それはランドルフに対する労りという形で表面化していたのだ。
何はともあれ仕事が増えなかったのはありがたい。今は少しでも長く屋敷にいる時間を作り、妻を気遣ってやりたいというのがランドルフの偽らざる本心だった。
ただし彼女をあんな目に合わせた連中を許すわけではない。奴らは必ず炙り出し、然るべき裁きを受けさせてやる。
「少将閣下……? あの、書類に何か不備でも?」
怒りのあまり凶悪な顔つきをしたランドルフに怖々声をかけたのは、第三師団参謀にして直属の部下であるケッシンガー少佐である。
ランドルフより一つ年下のこの男は書類仕事が得意で大変重宝しているのだが、いかんせん指揮官の顔にいつまで経っても慣れてくれないのが玉に瑕。
ランドルフが書類からチラリと目線を上げると、彼は青ざめた顔の前に両手をかざして縮こまってしまった。
「ってひゃー! やっぱり怖い!」
「……貴様はいつもいつも、本当に真正面から失礼だな」
「だ、だって閣下、いつにも増して迫力あるんですもん!」
いかにも事務屋といったひょろ長い体を折り曲げたケッシンガーは、本気で怯えた様子で肩を震わせている。この反応はいつものことなので、ランドルフは無視して会話を続けることにした。
「この書類に問題はない。ここに解決の糸口があると思ったら、ついな」
「そ、そうでしたか。あの、奥方様のお具合は、快方に向かっておられるのですよね?」
どうやらあまりに張り詰めた様子の上官に、奥方の具合がそんなに悪いのかと心配になったらしい。ケッシンガーという男は腰抜けではあるものの、人として真心ある好人物なのだ。
ランドルフは極力優しい顔になるよう気を付けつつ、部下の労りを受け取ることにした。
「起上がれるようになるまで十日程度とのことだ。心配かけてすまないな」
「いいえ、そんな! 第三師団一同、今回のことで少将と奥方様を誇りに思っているんですよ。私に代われる仕事があるなら何でもお引き受けしますから、なるべく早く帰って差し上げてくださいね」
「ああ、感謝する」
温かい言葉をかけてもらってありがたいのだが、その間一回も目が合わないのはどうしたことだろうか。
とはいえ、いい部下を持ったなとしみじみ思うランドルフなのであった。
書類の内容は警備の不備をまとめたものだった。確認して自身の見解を述べた報告書を作成した後、ランドルフは昼を挟んで執務室を出る。
向かった先は陸軍省の地下二階、特別な囚人を収監する地下房。ここに立ち入るには将官ですら申請が必要なのだが、今回はすんなりと許可が下りていた。入り口を固める衛兵に身分証を提示して入室すると、すぐに今回の捜査における最高責任者が待ち構えていたので敬礼を交わす。
「お初にお目にかかります。情報部長、陸軍大佐マイネッケであります」
「アイゼンフート少将だ」
「この度はご協力感謝致します。さ、奥へどうぞ」
マイネッケは慇懃な笑みを浮かべて奥の独房を指し示すと、先立って歩き始めた。石造りの地下房は湿っぽく、ところどころ灯されたランプの明かりが彼の白いものの混じった髪を赤く見せていた。
マイネッケ大佐は情報部長で、要するにスパイの親玉を勤め上げる傑物である。
滅多に表にその姿を現さず、年齢や経歴、本名すらも謎に包まれていることから、陸軍内でも関わりにくい人物との印象が強い。
ランドルフですらその姿を見たのは片手で数えるほどしかなかったが、こうして実際話してみると底知れないとの第一印象を抱かずにはいられなかった。
髪に白髪が混ざっているがその顔付きはまだ若く、この相反する二つの要素が年齢不詳の原因だろう。細身の体からは一切の隙も感じられず、一見柔和に見える目元はランドルフを認めた瞬間だけ鋭さを増していた。一度手合わせでもしてみたいものだが、彼の職務上それは無理な相談なのだろう。
「情報部の管轄になったということは、相当根深い事件のようだな」
「仰る通りです。まだ全貌は掴みきれていませんが、これは恐らくヴェーグラントの根幹を揺るがしかねない事案ですよ」
マイネッケはどこか楽しげにそんなことを言う。こんな厄介な事件の責任者になったというのにこの余裕とは、やはりスパイ畑の人間は感性が違うのだろうか。
「随分楽しそうだな。そんなに見通しが明るいか」
「おや、これは失礼いたしました。アイゼンフート少将の奥方がお怪我をなさったというのに、不謹慎でしたかな」
「……それは貴官には関係のない話だ」
「重ね重ね失礼を。私はもともとこういう話し方なのですよ、どうぞご容赦ください」
どうにもつかみどころのない男だ。調子に飲まれているような気がして閉口していると、やがてマイネッケは一つの扉の前で足を止めた。
「この部屋です。どうぞ」
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