播磨守江戸人情小噺(二) 小間物屋裁断

戸沢一平

文字の大きさ
1 / 15

第一話

しおりを挟む
 話はやや遡る。

 間部瀬勘太郎まぶぜかんたろうが、新米同心として勤め始めたばかりの頃である。

 それは前任者の突然の引退で得た幸運だった。人伝に、母方の伯父の推薦が物を言ったと聞いた。

 同心として召抱えられるまで、この伯父宅に盆暮れの贈り物を届けるのが勘太郎の役目であり、毎回屋敷にあげられ伯父の退屈な武勇伝を聞かされる苦痛を経験していた。修行の一つだと自分に言い聞かせて耐えていたほどだ。

 それ故に、これまでやや懐疑的だった「何事も真面目に行えば見る人は見ている」という父親の教えがようやく身に染みて納得出来た。

 更に、「目上の者の言うことは忠実に守るべし」という教えにも何ら疑問を持つことが無くなっていた。

 そのせいもあってか、この、濃い眉毛にギョロリとした鋭い眼、そして青々とした髭剃りあとがあるずんぐりとした小男の新米同心は、毎日のように上司から聞かされている役人としての心得を、確実に実践することしか頭に無かった。

「一番大事なのは、上役の意を体することだろうな」
 ある日、先輩同心の何気ない一言がピタッと頭にへばりついた。

 上役の意を体する、つまり、上司の直接的な命令はなくとも、その意図するところをすすんで斟酌して行うことである。

 元々が素直でクソがつくほど真面目である。
 それから数日間、上司の意を体せねば、と必死に考えるようになったのは致し方ないとしても、上司は何を望んでいるのか、好みは何か、とやや見当外れの方向に思考が行ってしまった。

 そんなところに、同僚の噂で小耳に挟んだのが、最近出来た評判の小料理屋の話である。江戸では珍しい上方料理を売りにしているという。

 新米同心の頭にひらめいたのは、酒好き上司をこの店に誘うことだった。

「奉行所で一番酒が好きな者?そりゃ奉行だろう」
「そうだなぁ、奉行かな」
「んなもん、奉行に決まっているだろう」

 奉行所の中で一番酒好きは誰かという問いに、誰の口からも、奉行の播磨守の名が上がった。

 そういえば、毎日のように茶屋に通っているような話もある。がっしりとした大柄な体は、いかにも酒豪という雰囲気を醸し出している。誘うのであれば、やはり奉行か。

 間部瀬の頭の中は、大胆にも、町奉行を酒に誘う事に傾いて行った。

「しかし、奉行ほどの頂上にいる上司を、新米の自分が誘っても良いのか」
 などとは、どういう訳か、この男は思わなかった。

 しかして、この日、思いたったは吉日とばかりに、帰りがけの奉行を捕まえて声をかけたのである。

「失礼致します。最近、銀幕町に評判の小料理屋が出来たとの事。今度、一献傾けたく、ご一緒させて頂きたいと思いますが、いかがでございましょうか」

 何事が起こったと呆気に取られる周囲をよそに、振り返った池田播磨守頼方が大きくうなずく。

「おう、良いな。では明日にでも行くか」
 あっさりと快諾してしまう。

 側に立つ筆頭与力の成瀬子多郎なるせこたろうが、恨めしそうに間部瀬を見ながら力なく首を振る。
「そうですか・・、まあ、では私もお供しましょう」

 成瀬がフウとため息を吐いて肩を落とすと同時に、満面に笑みを浮かべた間部瀬が深々と頭を下げて、喜び勇んで去って行った。

 その後ろ姿を見ていた成瀬が頼方に視線を向けた。
「奉行、今の江戸は、それなりに治安は良いものの、奉行ほどの要職を一人で見ず知らずの店に行かせる訳には行きません。お供は必要です。まずは相談してから行く行かないを決めて頂かないと困ります」

「あ、そうか、すまんな、成瀬さん」
 頼方が肩をすぼめて申し訳なさそうに微笑むと、成瀬がズンと頼方の前に立った。

「それに、軽々しく若手の誘いに乗ると、今後の御用の進め方や段取りに影響が出ますよ。奉行としての権威にも」
「まあ、出たら出たで、その時に考えれば良いさ」
「それとですね、何回か申し上げておりますが、最近の奉行は・・」

 頼方が軽く手を挙げて成瀬を遮った。
「わかった。続きはまた明日にしよう、な」

 成瀬が頼方をジッと睨んだ。

「明日はしっかりと聞いていただきますよ」
「はい、じっくりと聞かせていただきます」

 奉行所を出かけて頼方が振り返った。

「あ、それでだな、成瀬さん」
「何ですか」
「俺を誘ったあいつ、誰だっけ」
「・・・」

 何処かで猫が鳴いている。

 それが、昨日のことである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

処理中です...