できそこないの幸せ

さくら怜音

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第二章 明けない曇り空

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その時は間が悪かった。
オーナーは勝行と久我を含む出演者を集め、楽屋に籠っていたし、須藤はバーカウンター、藤田は受付を一人で回して多忙。早めに会場入りした観客と光以外、誰もステージフロアにはいなかった。
光は延々と続けていたピアノ演奏に一区切りをつけて、鍵盤から手を離した。天井を見上げ、ふうと一息つく。すると周囲からあふれんばかりの拍手喝さいが起こった。その騒音にビクッと身体を震わせた光は、その時初めてピアノ以外の音に気が付いた。

「ヒカルー!」
「素敵ー!」
「いい演奏だったよー!」
「……え?」

ただの練習のつもりが、いつの間にか客入りコンサートと化していたようだ。知らぬ間に集まった沢山の観客から次々と声をかけられる。
どうしたらいいかわからず、必死に周囲を見回すも、知らない顔ばかり。こういう時に「ありがとう!」と光の代わりに受け答えしてくれるチームメイトは誰もいない。
急に心臓がどくんどくんと激しく鳴った。背中にじんわりと汗が滲む。

(だ……だめだ。いつまでも人に頼るわけには)

一人でもステージに立てるプロの音楽家になれないと、勝行に置いて行かれる。あの夢のようになりたくない。
焦る気持ちを抑えながら、光はそっと椅子から立ち上がり、ステージ向こうの客席に向かってぺこりと頭を下げた。するとさらに拍手が巻き起こる。ヒューヒューと口笛が鳴り、光へのファンコールがあちこちから聴こえてくる。
自分一人で客に向かって挨拶をしたのは、これが初めてだった。

(よし……合ってた。よし……!)

褒められるのは少し照れくさかったが、ちゃんとミュージシャンらしくできた気がする。お辞儀したまま、光は手で小さくガッツポーズをとった。

「君はリクエストしたら演奏してくれるのかい」

ふいにすぐそばから渋い男の声が聴こえてきた。それはまるで、父・桐吾の声のようで——一瞬胸がざわつく。声のする方を振り返ると、パリッとしたスーツを着こなす初老の男が、胸元の財布に手をかけながらこちらを値踏みするように見つめていた。

「弾いてほしい曲があるんだがね」
「べ……別にいいけど。俺が弾くとあんたの思ってるピアノとは違うかも」

この男が何を言いたくて自分に近づいてきたのかわからない。だがわからないなりに言葉を選んで返してみたつもりだった。
ところが男は「は?」と侮蔑の笑みを浮かべ、「金をもらって演奏する雇いのピアニストだろう?」と嘲笑う。
WINGSのことは知らない、ヒカルの素性も知らない男。だがさすがに上から目線でバカにしたような態度なのはわかる。こうやってどこのミュージシャン相手でも、チップをチラつかせてくるのだろうか。光は苛立ちを露わにしながらも、声を殺して呟いた。

「今はライブ中でもねえし。金のために演奏してんじゃねえ」
「なんだ、じゃあただの素人か。そいつは失礼したね」
「……なんだと」

踵を返し、ワインを飲み干す男の背中に向かって、光は思わず叫んだ。

「その言葉は、俺の演奏聴いてから言えよな!」

同時に鍵盤をなぞり、ざらっと片手でグリッサンド。手首を返して速弾きパッセージ。全身をメロディに合わせて揺らしながら、光は男のリクエスト曲が何なのかわからないまま適当に演奏し始めた。やがてその指は超絶技巧曲のような激しい動きを取り入れていく。

「あれ……これって、ラフマニノフじゃ」
「——ピアノ協奏曲第3番、大カデンツァ?」

ライブハウスにいる観客の殆どは、ただただ光の早すぎる指裁きを呆然と見つめているが、男は驚いたように光の方を振り返った。拍手をしながらブラボーなどと言っている。

「なんだ、こういうのが聴きたいのか、だったらおっさん、入る店間違ってんだよバーカ!」

光はピアノの鍵盤を見ないまま、男の方を何度も振り返り、そのまま別の曲へと移行した。今度はリストの超絶技巧練習曲、マゼッパ。どれもピアニストが「難しい」と評する有名クラシックピアノ曲ばかりだ。光は激しい抑揚を乗せ、時折立ったり座ったりしながら暴れるように演奏し続ける。

「なんとめちゃくちゃなリストだな、クラシックを馬鹿にしているのか」
「うるせえ、これが俺のピアノだ! あとあんたの思ってんのと違うってのはこういうことだっ」

そのまま光は、先日聴いていたラテンジャズのナンバーやゴリゴリのロックソングを織り交ぜて完全自由のオリジナル曲へとアレンジしていく。もうこれはリストでもラフマニノフでもない、今西光の単独バトル楽曲だ。

「ねえ……ヒカルって、何者なの? あれ、鍵盤見てないよね」
「なんかよくわかんねえけど、すごくないか」
「おい誰か動画とってる? あとで送って」

原曲を知らない若い観客人も、まるで攻撃的ロックのような——ド派手な速弾きテクニックに息を呑んだ。何よりもその楽曲を演奏している時の光は、いつも勝行の歌声を操るような楽し気なノリではなく、明らか一人の男に単独で歯向かう獰猛なヒョウのようだ。
何者かにとり憑かれたかのように弾き続け、やがてジャジャン、ドゥン……と闘いのエンディングを迎える。たちまち周囲からは拍手喝さいと口笛が鳴りやまなくなった。

「はあ……はあっ……」

頭から汗を流し、荒れた呼吸を整えながら光はあのスーツ男を探した。観客席にいない。逃げ出したのだろうか。
バカにされたままは悔しいが、できれば二度と出会いたくないタイプの男だ。光はほっと一息ついて、椅子から立ち上がり、何も言わないまま上手かみての幕内に引っ込んだ。
喉が渇いた、水が欲しい。ただそれが席を離れた理由だったのだが——。

「実にいい腕をしたピアニストだね、しかも美形ときた。うちの事務所に来ないか」

見えないところから突如ガシッと腕を掴まれ、光の顔は慄き真っ青になった。さっきの男が暗闇の幕内に潜んでいたのだ。

「なっ……なんだよあんた」
「私のことを知らない君も大概無礼な男だ。私はこういう者なんだがね」

簡単に逃げられないよう、身体をがっしり抱き寄せながら、男は自分の名刺を押し付けてきた。恐る恐るその字面を見ると、沢山ある事業の中に、昨日勝行と行ったライブ会場の名前が小さく刻まれていた。何かの代表取締役社長と書いてある。

「君のバンドは知っている。ボーカルの子には以前挨拶もしてもらったよ。今度うちのロックフェスイベントにおいでと打診したのは私だ。感謝してくれてもいいと思うんだがね」
「……」

この男に誘われた仕事を、勝行は引き受けようとしている——ということだけは瞬時に察した。黙っていると、なぜか男は光の身体を嬲るように見つめ、さわさわと色白の指を撫でてくる。

「だがねえ、君はあんなバンドの後ろにいるだけじゃ勿体ない。ソロでやる気はないか。うちの事務所で、今の報酬の三倍は出すよ、約束しよう」
「……そ、ソロって?」
「君ひとりで活動するってことさ。それにもう一つのうわさも知っているよ」
「もうひとつの噂……?」

嫌な予感がする。
さっきからずっとこの男にべったり触られている。後ろから抱きしめられ、股間には何か硬いものが当たっているし、首元ではタバコ臭い息を吹きかけられて熱い。光の身体は小刻みに震えていた。

「君は枕営業をしていたって話」
「……っ」
「最近薬物で逮捕されちゃったカメラマンからねえ、聞いたよ。君、そんなのバレたらこの業界でまともに生きていけると思ってるの?」

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