できそこないの幸せ

さくら怜音/黒桜

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第九章 VS相羽修行

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いつか指が動かなくなるかもしれない。

(ピアノが弾けなくなるってことだろうか……)

それがいつなのかはわからない。けれど突然指先に力が入らなくなり、台所で転倒したあの時。ふいに星野の言葉が脳裏をよぎった。
今すぐ弾けなくなるのかと思った途端、血の気が引いた。

(やっぱ幸せなんて、永遠に続くわけがない)

ピアノが弾けない今西光になんの魅力があるのだろう。きっとファンも、事務所も、勝行も、飽きて知らぬ間に自分の傍から消えていくに違いない。
せっかく自分にも未来が見えてきたというのに。
いつまでも闇色だった出口が、ようやく朝焼けのように輝いてきていたのに。さらに奥のエンディングだけを先に知ってしまった気分だ。
まだ思うように力が入らない指を見つめながら、光は究極の選択を強いられていることにようやく気が付いた。


「光くん、今いいかい。入るよ」

聞き覚えのある声がして、点滴中の病室に見慣れない人物が現れた。

「お……親父さん」
「顔色が悪いが、大丈夫か? 寝てていいから、おじさんと話をしないか」

見知らぬ護衛秘書に外での待機を言いつけ、スーツ姿の相羽修行が光のベッドサイドの椅子に座り込んだ。そこはいつもなら、勝行が座る場所だ。
いつも多忙で、東京に来てからも直接会うことは殆どなかった。それに相羽家のごたごたした諸問題を見聞きした後で彼に会うのはこれが初めてだ。なぜか妙に緊張感が走る。

「あ……あの……倉庫のドア。ぶっ壊してごめん……なさい」
「ん? ああ、なんだ妙に大人しいと思ったら。あれで怒られると思ったか?」

ぽっこり出た腹を抱えて笑う修行の姿も久しぶりに見た。

「君は勝行を助けてくれたんだ。むしろ礼を言わねばならないところだったよ、ありがとう。部下からは伝えたけれど、直接話せる時間がなくて申し訳なかったね」
「べ……別に。気にしないけど。あの……」

ならば、どうしてここに勝行の父親が?
すると修行は声に出せない疑問に気が付いたのか「今日は君の病気の話を聞きに来たんだ」と告げた。よく見ると修行の手元には、以前星野にもらった転院の資料と同じものがあった。

「君は勝行の身の回りを世話してくれる友人として、時には家族として、とてもよく尽くしてくれた。感謝している。将来有望な調理師にもなれるとお墨付きをもらったそうだね。料理長から聞いたよ。最初は勝行のわがままだったとはいえ、私も君に投資した甲斐はあったと思っている」
「はあ……」
「けれどこのまま今の生活を続けていれば、君の身体は駄目になるかもしれない。勝行も君と一緒に歌うために、色んな夢を描いているようだが、今はまだ時期尚早なのではないか」
「……?」

褒められているのか、説教をされているのかわからず、光は首を傾げた。修行は病院のパンフレットや光の検査結果をトントンと叩きながら、「治療の費用など今後も気にせんでいい」と話を続ける。

「勝行はまずきちんと大学を卒業し、相羽家当主が身に着けるべき教養を終わらせてからやりたいことをすればいい。そして君は、勝行が政治の勉強をしている間、アメリカで治療に専念し、未来の勝行を支える部下として戻ってきて欲しい」

遠回しに説く忠告をゆっくり脳内でかみ砕き、光は眉をひそめた。

「……つまり。WINGSはやめろってこと?」
「やめろと言っているのではない。君にも勝行にも、芸能活動より優先するべきことがあるはずだ。今は休めと言っている」
「それ、勝行にも言ったの」
「もう何度も説得しているが、ちっとも聞かんでな。今日明日の共通一次が終わったあとでもう一度話すつもりだ」
「まって、せめて受験が終わってからでもいいんじゃ」
「いいや、勝行が次の願書を出す前に決めなければいけない。悠長なことを言ってられる時期ではないんだ」

修行の言葉には迷いも隙もなかった。そんなことをされたら、せっかく安定した勝行の精神状態がまた不安定になるかもしれないというのに。
だが修行の言いぶりは、むしろほっと一安心したかのような声色だった。

「どう説得しようかと悩んでいたが、光くんのことも話せば間違いなくあの子は第一志望にT大を選ぶだろう。将来有望な君の病気を、このまま放置するわけにはいかないからな」
「……っ」

その言いぶりはまるで、光の病気を理由に、勝行の夢を断念させると言っているようだった。

(こんなところで、俺がまたアイツの足を引っ張るのかよ……)

項垂れる光の頭にぽんぽんと大きな手を乗せ、修行は「なあに、心配ないさ」と笑った。

「音楽は逃げない。ほんの数年、別々に暮らすだけだ。そうだ、向こうで治療を受けている間、ピアノの修業もしてきたらどうだ。著名な講師を紹介するよ。そうすれば君はきっと今以上に魅力的なピアニストに成長して戻ってくるだろう。その頃の勝行は、学ぶべきことをきちんと終わらせ、音楽活動にも手が出せる頃合になっているはずだ」

確かに修行の言う通りだ。別々に暮らすのは嫌だと反論するのは、どう考えても子どもじみたわがままだし、勝行が家でやらねばならないことを全て捨ててまで光一人を選ぼうとしていることが正解だとも思わない。
正月の帰省時、少なくとも光には勝行が沢山の使用人と心通わせ、彼らの頂点に立つ一家の主に見えたのだ。

反論する言葉をうまく見つけられず、光は黙り込んだ。それを肯定と捉えたのか、修行は「まずは元気になってから、また話そう」とだけ告げて足早に病室を出て行った。

音楽は逃げない、だなんて。簡単に言ってくれる。光は重いため息をついた。

(明日死ぬかもしれない――とか、考えたこともない人なんだろうな)

見慣れた点滴のパックと病室の天井を見つめ、光は「ちくしょう」と唇を噛み締めた。
勝手にぽろぽろと溢れる涙が頬を伝って布団に零れ落ちた。
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