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第30話 路地裏での一件

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(撒けたかな‥‥‥‥)

 聖花が来た道を振り返った。一種の願望のようなものを胸に抱いて。
 アデルから遠く離れたその場所は、彼女に安心感を与えるのには十分だったのだ。

 しかし、それに反して、聖花のいる先へと向かってくる人物がいた。‥‥‥‥‥護衛騎士だ。


(嘘でしょ!?)

 聖花が目を見開く。安心が焦りに変わった瞬間だった。

 護衛騎士は明らかに彼女の存在に気付いており、迷うことなく前へ前へと進んでいる。人混みさえなければすぐ聖花に届きそうな距離だ。
 加えて、彼は人を押し退けながら聖花の方へと迫ってきており、徐々にそれも狭まっている。
 きっと聖花が振り返らずとも、護衛騎士の存在に後から気が付いたことであろう。

 どちらにせよ、これでは最終的に追い付かれるのには変わりない。人の流れから外れて走るにしても、体力のない『カナデ』では限界がある。
 加えて、相手は男の騎士である。まず、体格差的にも逃げ切ることは不可能だ。

 だが、聖花もここで諦めるわけにはいかない。
 もしここで捕まったら、すぐ強制送還させられることだろう。そうしたら、次に街へと行く時、監視の目が厳しくなる。
 最悪の場合、二度と街へ行かせてくれないかもしれない。

 聖花は人の流れに乗りながらも頭を必死に振り絞った。どうしたら追手から逃げきれるかを。

 けれど生憎、一向に策が思い付かない。
 何せ、手持ちにまともな武器や防具になる物がない上に、応戦するにしても聖花ではどうにもならないからだ。

 そうしている間にも、追手は問答無用で聖花の方へと向かってくる。当然、そこには恩情も何もない。


ーー追いつかれる。

 聖花がそう直感した時、誰かに手を引かれた。
 意識する間もなく、そばの路地裏へと引きずり込まれる。一瞬の出来事だった。

‥‥そうして、聖花は転がり込むようにして路地裏に入った。
 が、身体が何故か痛くない。それどころか、聖花には温かみさえ感じられた。

 状況が未だに理解できず、聖花はすっかり気が動転している様子だ。


「だ‥‥」

 やっと思考が追い付いて来たのか、聖花が何かを言おうとする。聖花を抱きかかえるようにしている人物に向かって。

 “誰?”と。

 しかし、それは叶わなかった。彼女が言い終わる前に口を塞がれてしまったからだ。


「静かに」

 聖花の耳元で声がする。男性の声にしては少し明るめで、やけに落ち着いた声だ。

 聖花は逃げることも考えたが、状況が状況なので、今は大人しく彼に従うことにした。静かに時が過ぎるのを待つ。

 暫くして、彼女の追手は困惑気味に路地裏の側を通り過ぎた。目の前で突如として消えた聖花を探して。
 無論、直ぐ側にいる聖花たちの存在には気が付かない。地べたに座り込んでいるからだ。

 それを確認するや否や、の手が聖花の口からそっと離れた。
 聖花の身体を拘束する力も緩み、半ば抑え込まれていた身動きも取れるようになった。

 早速、顔を上の方へと向けてみる。すると、運が良いのか悪いのか、がちょうど彼女の方を見た。
 トパーズのような深みのある瞳に、オレンジ色の髪が特徴的だ。影のある路地裏でもよく分かる。


「こんにちは?」

 ふと、が聖花に声をかけた。面白いものを見つけた子供のようなような笑顔で。

 ハッとした聖花が彼の拘束からスルリと抜け出そうとするも、再び力を入れられたのか、の元から離れられない。未だに密着した状態だ。

 どうして、と聖花が聞く前にが大通りを指差す。
 首をそちらに向け直すと、現場から少し離れた所に護衛騎士が彷徨っているのが聖花の目に映った。
 どうやら戻ってきたようだ。

 追手は此処らに聖花が潜んでいる、と確信した様子でキョロキョロと辺りを見回している。
 このまま隠れていてもいつかは見つかりそうだ。だが‥‥、


「今」

 追手が聖花たちのいる方向と逆側を見たのを見計らって、が聖花の手を取り立ち上がった。
 聖花はに再び強引に引っ張られて、路地裏の更に奥へと曲がる。


「‥‥‥ねえ」

「うん?」

「貴女は、誰なの?」

 息を整え、落ち着いて来たところで、やっと聖花が尋ねた。
 折角助けて貰った訳なので、のしたことについては何も言及しないでないでおく。

 は悪戯っぽく笑みを浮かべて聖花を見た。


「‥‥‥気になる?」

「えぇ」

 聖花が頷く。

 それを受け、は少し考える仕草を見せた。が、すぐに思い付いたように、


「そうだなぁ‥‥‥。当ててみてよ」

 と言い放った。とんだ茶番である。
 
 聖花も呆気に取られるとともに、まともに取り合う気がない恩人の様子に苛立ちを覚えた。


「こんな時にふざけないで」

「酷いなぁ、助けたのに。僕はふざけてなんかいないよ?」

「‥‥‥‥‥もういい。助けてくれてありがとう」

 尚も態度を改めようとしない恩人を見て、聖花は遂にカッとなった。

 その場から離れようとする。もう話すことなどない、と言わんばかりの感謝の言葉を吐き捨てて。
 

「リリス。リリス・ティーザー。それが僕の名前」

 聖花の背後からリリスの声だけが嫌に聞こえる。女性のような名前だ。

 聖花は思わず振り返った。
 ”ティーザー“と言えば、この国では侯爵家以外に存在しない。聖花が国のことを勉強した時に知った。
 
 リリスの様子を見ても、とても嘘を言っているようには見えない。むしろ嘘だったら良かったのに、と聖花は思った。


「何故、侯爵家の者がここに?」

 色々と思うところはあったが、聖花の口から飛び出した言葉はそれだ。聖花の脱獄の件で捕らえに来たのかもしれない、とも思ったからだ。

 逸る気持ちを抑え、リリスをじっと見る。彼の言葉を静かに待った。


「ナイショ」

 けれども、やはりリリスは答えない。教える気はなさそうだ。


「また会うことがあったら話しかけてよ。
 そしたら、その時考えてあげる」

「待っ」

「バイバイ」

 ほんの一瞬の出来事だった。

 聖花の制止も聴かずに、その言葉を残してリリスは陽炎のように消えた。無邪気に微笑んで。
 辺りに残った少しの風が聖花の髪をなびかせた。

 これで、聖花にとっては二度目の口約束となった。約束と言えるのか定かではないが。

 暫く虚空を見つめた後、灰色の地面に何かが落ちているのを聖花は見つけた。
 地面の色にそぐわない、真っ黒な艶のある小石だ。先程までリリスが立っていた所に置かれていた。
 いつもなら気にもとめないかもしれない。が、


「何これ‥‥?」

 聖花は不審に思ってそれを拾い上げた。
 どうせ聖花の服などは既に汚れているも同然だ。それが汚いかどうかは今更気にしない。

 聖花は無意識に、それを擦れた鞄の横ポケットに入れた。
 後で調べてもらおうと思って。
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