続 水槽と鳥籠の違い

あさき のぞみ

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崩壊

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そして俺が気付いた時には、藤原と早川さんが一緒にいる場面を何度も目にするようになっていた。
最初は偶然だと思った。廊下で話しているのを見かける。昼休み、図書室の前で二人でいるのを見る。放課後、校門で並んで歩いているのを見る。
「やっぱり付き合ってんじゃね?」
田中が確信したように言った。クラスでも、そういう噂が流れ始めていた。
俺は何も言えなかった。ただ、遠くから見ているだけだった。
早川さんは相変わらず、朝は窓際で本を読んでいる。でも、以前より表情が暗く見えた。笑顔が減った。
藤原も変わった。いつもの明るさが、どこか作り物めいていた。
六月の終わり、期末テストが終わった日。俺は久しぶりに生物室に行った。
水槽の前に立つ。金魚は相変わらず泳いでいる。何も知らずに。
「中井くん」
背後から声がした。早川さんだった。
「久しぶり。最近来なかったね」
「うん、まあ」
早川さんは俺の隣に立った。一緒に水槽を見る。
沈黙が流れた。以前は心地よかった沈黙が、今は重く感じられた。
「ねえ、中井くん」
「うん?」
「私、間違えたかもしれない」
「え?」
早川さんは水槽を見つめたまま続けた。
「自分で選べるって言ったでしょ。水槽に入るか、鳥籠に入るか、外に出るか」
「うん」
「私、選んだつもりだったんだけど。でも、選び方を間違えた」
早川さんの声が震えていた。
「早川さん……」
「ごめん。変なこと言って」
早川さんは笑おうとした。でも、笑えていなかった。
「何かあったら、言って。俺にできることがあれば」
「ありがとう。でも、もう遅いかもしれない」
「遅いって」
「なんでもない。忘れて」
早川さんは図書室に戻ろうとした。
「待って」
俺は思わず早川さんの腕を掴んでいた。
早川さんが振り返る。驚いた顔。
「中井くん……」
「藤原と、何かあったの?」
早川さんの顔が強張った。
「どうして藤原くんの名前が」
「だって、最近よく一緒にいるから」
「見てたんだ」
「うん」
早川さんは俯いた。
「やっぱり、バレてるんだ」
「バレてるって」
「私と藤原くん、付き合ってるの」
その言葉が、胸に突き刺さった。
わかっていた。でも、本人の口から聞くのは違った。
「そう、なんだ」
「うん。でも……」
早川さんは言葉を詰まらせた。
「でも?」
「なんでもない。ごめんね、変なこと言って」
早川さんは俺の手を振りほどいて、出て行った。
俺は一人、生物室に残された。
胸が痛かった。
好きだったんだと、改めて気づいた。
早川さんのことが、好きだった。
でも、遅かった。
夏休みが始まった。
俺は家で、ほとんど一人で過ごした。父さんは相変わらずほとんど帰ってこない。
ネットを見て、ゲームをして、時々コンビニに行く。それだけの毎日。
SNSを見ると、クラスメイトたちが楽しそうに遊んでいる写真が流れてくる。
田中も、藤原も、みんな。
早川さんのアカウントは見つけられなかった。やっていないのかもしれない。
八月の半ば。
田中からLINEが来た。
「中井、聞いた?早川さんのこと」
心臓が跳ねた。
「何?」
「学校辞めるらしいよ。家庭の事情で」
画面を見つめた。文字が滲んで見えた。
「マジで?」
「うん。噂だけど、まあ本当だと思う。夏休み明けにはもういないって」
「そうなんだ」
「残念だよな。美人だったのに」
田中の言葉が、遠くに聞こえた。
俺は早川さんに連絡を取ろうとした。でも、連絡先を知らなかった。
LINEも、電話番号も、何も。
ただ、学校で顔を合わせていただけの関係。
何もできなかった。
夏休みが終わった。
二学期の始業式。
担任が朝のホームルームで告げた。
「早川さんは、家庭の事情で転校することになりました」
転校。その言葉が、教室に響いた。
何人かが「え?」と声を上げた。でも、すぐに日常に戻った。
窓際の席は空いていた。
誰も座っていない。
早川さんがいた場所。
俺は、その席を見つめた。
「なあ、早川って藤原と付き合ってたんだよな」
誰かが言った。
「らしいね。でも藤原、何も言わないよな」
「そりゃそうだろ。彼女が転校したとか、普通に言いづらいし」
藤原は教室の後ろで、いつものように笑っていた。
でも、俺には見えた。
その笑顔が、作り物だということが。
昼休み、俺は藤原を屋上に呼び出した。
「なんだよ、急に」
藤原はいつもの調子で来た。
「早川さんのこと」
藤原の表情が変わった。
「何?」
「本当に、家庭の事情なの?」
「……知らない」
「知らないって」
「本当に知らないんだよ」
藤原は壁に背を預けた。
「夏休みの最初に連絡取れなくなって。ブロックされてた。それで終わり」
「どうして」
「知るかよ。俺が聞きたいわ」
藤原の声に、苛立ちが混じっていた。
「なあ、中井。お前、早川のこと好きだったんだろ」
否定できなかった。
「図書室の前とか、生物室とか。お前、いっつも早川見てたじゃん」
「見てた」
「だろうな。俺もお前のこと、見てたから」
藤原は空を見上げた。
「お前に取られるんじゃないかって、ビビってた」
「え?」
「だって、早川、お前とは普通に話してたじゃん。俺が話しかけても、最初はずっと避けられてたのに」
初めて聞く話だった。
「だから必死だったんだよ。早川を振り向かせるために。いろいろ考えて、やっと付き合えて」
「それで?」
「それで、終わり。夏休み入ってすぐ、連絡取れなくなった」
藤原は笑った。自嘲気味に。
「お前、羨ましいよ。何もしてないから、何も失ってない」
その言葉が、胸に刺さった。
「俺は、失った。好きだった女に、捨てられた」
藤原は屋上を出て行った。
俺は一人、残された。
風が吹いていた。
九月の風。
夏の終わりを告げる風。
早川さんは、どこにいるんだろう。
何があったんだろう。
わからない。
何も。
その日の放課後、俺は生物室に行った。
水槽は、まだそこにあった。
金魚も、泳いでいた。
でも、もう何も感じなかった。
早川さんはいない。
藤原も、変わってしまった。
全部、終わった。
水槽に手を当てた。
冷たいガラスの感触。
「早川さん……」
小さく呟いた。
でも、届くはずもない。
教室に戻ると、窓際の席に、別の生徒が座っていた。
まるで、最初からいなかったみたいに。
早川さんの痕跡は、何も残っていなかった。
俺の記憶の中だけ。
水槽の前で話した、あの日々だけ。
その夜、家で一人、考えた。
藤原の言葉が頭から離れなかった。
「お前、羨ましいよ。何もしてないから、何も失ってない」
本当にそうだろうか。
俺は、何も失っていないのか。
いや、違う。
最初から、何も持っていなかった。
だから、失いようがなかっただけ。
それは、幸せなことなんだろうか。
不幸なことなんだろうか。
わからなかった。
ベッドに横になった。
天井を見つめた。
早川さんの顔が浮かんでくる。
「中井くんは鳥だと思うよ」
あの言葉。
でも、俺は飛べなかった。
早川さんを助けることも、できなかった。
ただ、見ていただけ。
いつものように。
何もできない。
透明人間。
涙が出た。
止まらなかった。
こんなに泣いたのは、母さんが出て行った時以来だった。
でも、誰も見ていない。
誰も知らない。
俺の涙も、俺の痛みも。
全部、透明。
朝になった。
目が腫れていた。
学校に行った。
いつものように。
誰も気づかなかった。
俺が泣いていたことも。
俺が早川さんを好きだったことも。
全部、透明。
それでいい。
そう思うことにした。
でも、心のどこかで。
もっと早く、声をかけていれば。
もっと勇気を出していれば。
そう思わずにはいられなかった。
水槽の金魚は、外の世界を知らない。
でも、俺は知ってしまった。
失うということを。
届かないということを。
透明であるということを。
それが、水槽の外の世界だった。
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