続 水槽と鳥籠の違い

あさき のぞみ

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知りたくもない真実

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早川さんが転校してから、二ヶ月が過ぎた。
秋になり、文化祭の準備が始まった。俺は特に何の係にもなっていなかったが、クラスメイトの手伝いをしていた。
ある日の放課後、教材を取りに行くために廊下を歩いていた時だった。
女子トイレの前で、二人の女子が話しているのが聞こえた。
「ねえ、早川さんのこと、本当のこと知ってる?」
足が止まった。
「なに?家庭の事情じゃないの?」
「それ、表向きの理由だよ。本当は妊娠したんだって」
心臓が止まりそうになった。
「え、マジで?相手は?」
「大学生らしいよ。夏休み中に親にバレて、学校辞めることになったって」
「うわ、マジか。でも早川さん、真面目そうだったのに」
「真面目そうな子ほど、意外とそういうのあるんだよ」
二人の笑い声が聞こえた。
俺は、その場から動けなかった。
妊娠。
早川さんが。
頭が真っ白になった。
「でも、藤原くんと付き合ってたんじゃないの?」
「それは別でしょ。大学生の方が本命だったんじゃない?」
「藤原くん可哀想」
「まあね」
二人の声が遠ざかっていった。
俺は壁に手をついた。
息ができなかった。
早川さん。
妊娠。
大学生。
情報が頭の中で渦巻いた。
本当なのか。
ただの噂なのか。
わからない。
でも、あの「家庭の事情」という言葉の裏に、そういうことがあったのだとしたら。
早川さんが最後に言った言葉が蘇った。
「私、選び方を間違えた」
「もう遅いかもしれない」
あれは、そういう意味だったのか。
教室に戻れなかった。
そのままトイレに駆け込んで、個室に入った。
吐きそうだった。
でも、何も出てこなかった。
ただ、呼吸が荒くなった。
早川さん。
どうして。
何があったんだ。
しばらくして、落ち着いた。
個室を出て、手を洗った。
鏡を見た。
真っ青な顔をしていた。
これは、確かめないといけない。
でも、誰に聞けばいい。
藤原は、知っているんだろうか。
翌日、俺は藤原を屋上に呼び出した。
「また?なんだよ」
藤原は面倒くさそうに来た。
「早川さんのこと、聞きたいことがある」
「まだその話?もう終わったことだろ」
「終わってない」
俺の声が強かった。藤原が少し驚いた顔をした。
「早川さん、妊娠してたって本当?」
藤原の顔が凍りついた。
「……どこで聞いた」
「じゃあ、本当なんだ」
藤原は答えなかった。
「相手は大学生だって」
「そう聞いてる」
「そう、聞いてる?」
「ああ。俺も夏休み前に早川から聞いた」
藤原は柵に寄りかかった。
「告白したんだよ、俺。七月の最初に。そしたら、早川が泣き出して」
「泣いた?」
「うん。ごめんって。何度も何度も。私、付き合えないって」
藤原の声が震えていた。
「どうしたのって聞いたら、全部話してくれた」
「何を」
「大学生と付き合ってて、妊娠したって。親にはまだ言えてないって。どうしたらいいかわからないって」
藤原は空を見上げた。
「俺、何も言えなかった。ただ、早川が泣いてるのを見てただけ」
「それで?」
「それで、早川は言ったんだ。『藤原くんとは、友達でいたい』って」
友達。
「俺、断れなかった。好きな女に頼まれて、断れるわけないだろ」
藤原の声に、苦しみが滲んでいた。
「だから、付き合ってるふりした。周りには付き合ってるって言って。でも、本当は何もしてない」
「どうして」
「早川を守るため。妊娠してるのがバレたら、色々言われるだろ。でも、俺と付き合ってることにしとけば、少なくとも学校にいる間は変な目で見られない」
そういうことだったのか。
「でも、夏休み入ってすぐ、親にバレたらしい。それで全部終わった」
藤原は顔を伏せた。
「俺、何もできなかった。早川を守るって言ったのに、結局何もできなかった」
沈黙が流れた。
「なあ、中井。お前なら、どうした?」
答えられなかった。
俺なら。
俺だって、何もできなかった。
いや、もっと何もできなかった。
藤原は、せめて側にいようとした。
でも、俺は遠くから見ていただけだった。
「ごめん、変なこと聞いて」
藤原は屋上を出て行った。
俺は一人、残された。
風が冷たかった。
早川さん。
全部、知りたくなかった。
でも、知ってしまった。
早川さんが、どんな夏を過ごしたのか。
どんな選択をしたのか。
想像するだけで、胸が苦しくなった。
「もし私が困ってたら、助けてくれる?」
あの時、早川さんは助けを求めていたんだろうか。
でも、俺は気づかなかった。
気づいていても、何もできなかった。
その日の放課後、生物室に行った。
水槽の前に立つ。
金魚は、今日も泳いでいる。
何も知らずに。
幸せそうに。
「羨ましい」
呟いた。
知らない方が、楽だ。
外の世界なんて、知らない方がいい。
でも、知ってしまった。
もう、戻れない。
水槽に手を当てた。
「早川さん、元気でいてください」
小さく祈った。
届くはずもないけれど。
教室に戻る途中、購買でパンを買った。
レジで会計していると、後ろから声がした。
「あ、中井くん」
振り返ると、クラスの女子、山田さんだった。
「山田さん」
「早川さんと仲良かったよね」
「まあ、少し」
「私も図書委員で、よく一緒だったんだ。真面目で優しい子だった」
山田さんは少し寂しそうに笑った。
「元気でいてくれるといいね」
「うん」
それだけ言って、山田さんは去っていった。
みんな、早川さんのことを心配している。
でも、誰も本当のことは知らない。
噂だけが、一人歩きしている。
真実は、もっと複雑で。
もっと痛くて。
でも、誰も知らない方がいいのかもしれない。
その夜、ベッドで考えた。
早川さんは、今、どこにいるんだろう。
赤ちゃんは、産むんだろうか。
それとも。
考えたくなかった。
でも、考えてしまう。
スマホを見た。
早川さんの連絡先は、ない。
連絡の取りようがない。
ただ、祈ることしかできない。
無力だった。
本当に、何もできない。
それが、俺だった。
目を閉じた。
でも、眠れなかった。
早川さんの顔が、瞼の裏に浮かんでくる。
水槽の前で笑っていた顔。
「中井くんは鳥だと思うよ」
あの言葉。
でも、俺は飛べなかった。
早川さんも、飛べなかったんだろうか。
それとも、飛ぼうとして、落ちてしまったんだろうか。
わからない。
ただ、悲しかった。
やるせなかった。
朝になった。
また、学校が始まる。
いつもの日常が続いていく。
早川さんのいない日常が。
それが、現実だった。
受け入れるしかなかった。
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