続 水槽と鳥籠の違い

あさき のぞみ

文字の大きさ
6 / 14

二年後の再会

しおりを挟む
大学二年になるという春。彼女はいなかった。
一年間、大学に通った。授業に出て、レポートを書いて、試験を受けて。それだけの日々だった。
サークルにも入らなかった。バイトもしていない。
友達と呼べる人も、いなかった。
高校の時と、何も変わらなかった。
いや、むしろ悪くなった気がした。
高校では、少なくとも田中がいた。藤原がいた。早川さんがいた。
でも、大学には誰もいない。
ただ、大勢の知らない人の中に、俺がいるだけ。
透明人間として。
四月の初め。新入生の入学式があった。
俺は、教育学部の事務室に書類を提出するために、たまたま大学にいた。
キャンパスは新入生で溢れていた。
真新しいスーツを着た学生たち。
希望に満ちた顔。
俺も、一年前はあんな顔をしていたんだろうか。
記憶にない。
事務室からの帰り道、人混みを抜けようとした時だった。
見覚えのある姿が目に入った。
小柄な女性。
短い髪。
歩き方。
「早川さん……?」
思わず声が出ていた。
その女性が振り返った。
早川さんだった。
「中井くん?」
お互い、驚いて立ち尽くした。
周りの喧騒が、急に遠くなった。
「久しぶり……」
「うん、二年ぶり?」
早川さんは、少し微笑んだ。
高校の時より、痩せていた。髪も短くなって、雰囲気も変わっていた。
でも、目は同じだった。
静かな、でも何かを抱えているような目。
「中井くん、ここの大学だったんだ」
「うん。教育学部」
「すごい、教師になるの?」
「わかんない。まだ」
沈黙が流れた。
周りの新入生たちが、はしゃぎながら通り過ぎていく。
「早川さんも、ここに?」
「うん。今日から。文学部」
「そうなんだ」
また沈黙。
何を話せばいいのか、わからなかった。
二年前のこと。
妊娠のこと。
転校のこと。
全部、聞きたいけど、聞けなかった。
「ねえ、ちょっと時間ある?」
早川さんから言ってくれた。
「うん、ある」
「じゃあ、どこか座って話さない?学食とか」
二人で学食に向かった。
入学式の準備で忙しく動き回る新入生の間を抜けて、人気のない隅のテーブルに座った。
「通信で高校卒業したんだ。去年の三月に」
早川さんは淡々と話し始めた。
「それで、今年からここ。推薦で入れてもらった」
「そうなんだ」
「ずっと勉強してた。家でひたすら。外にもあまり出なくて。でも、やることがあって良かった。何もしないでいたら、きっと壊れてたと思う」
早川さんの声は、落ち着いていた。
でも、どこか遠い感じがした。
「中井くんは、聞いてるよね。私のこと」
心臓が跳ねた。
「噂、くらいは」
「やっぱり。そうだよね、広まるよね」
早川さんは小さく笑った。
悲しそうな笑顔だった。
「本当のことを話してもいい?」
「いいけど、無理しなくても」
「ううん。中井くんになら、話せる気がする」
早川さんは一度深呼吸をした。
「相手は、大学生なんかじゃなかった」
「え?」
「藤原くんだった」
頭が真っ白になった。
「藤原……?」
「うん。付き合ってたの、本当に。噂じゃなくて」
早川さんは俯いた。
「五月くらいから。藤原くんがすごく優しくて、私、初めて誰かに必要とされてる気がして」
「そう、なんだ」
「でも、無知だった。二人とも。避妊とか、ちゃんと考えてなくて」
早川さんの声が震えた。
「六月の終わりに気づいた。生理が来なくて。怖くて、でも誰にも相談できなくて」
「藤原には?」
「言った。七月の最初に。そしたら、藤原くん、真っ青になって」
早川さんは手を組んだ。
「でも、一緒に考えようって言ってくれた。逃げなかった」
藤原が。
「親に言おうって。二人で責任取ろうって。藤原くん、そう言ってくれたの」
俺の知ってる話と、違った。
「でも、藤原くんの親が反対した。まだ高校生だ、人生終わるぞって。すごい怒られたらしい」
「それで?」
「藤原くん、怖くなったんだと思う。私も怖かった。どうしたらいいかわからなくて」
早川さんは涙を堪えているようだった。
「それで、藤原くんが嘘をついた。相手は大学生だって。私のことを守るためじゃなくて、自分を守るために」
「そんな……」
「お盆前に、私の親にバレた。病院に連れて行かれて。全部わかって」
早川さんは俯いた。
「親は、相手は誰だって聞いてきた。でも、私、言えなかった。藤原くんのこと」
「どうして?」
「だって、藤原くんの人生も終わっちゃうから。私だけでいい。私が全部背負えばいいって思った」
早川さんは泣いていた。
静かに。
声を殺して。
「だから、適当に嘘ついた。大学生と遊んでて、名前も知らないって」
「早川さん……」
「子供は産んだ。女の子。今、施設にいる」
俺は、何も言えなかった。
「特別養子縁組の手続きをしてる。もうすぐ、別の家族のもとに行く」
「会いに行ったりは」
「行かない。行けない。それが、私ができる唯一のことだから」
沈黙が降りた。
周りの新入生たちの笑い声が、遠くに聞こえた。
「私、やり直したいんだ」
早川さんは顔を上げた。
目が赤かった。
「もう一回、ちゃんと勉強して、ちゃんと生きたい。あの時の私は、何も知らなかった。馬鹿だった。でも、今は違う」
「うん」
「だから、普通に接して。同じ大学の先輩として。昔のこと、全部忘れてとは言わない。でも、それに囚われないで」
俺は頷いた。
「わかった。というか、わからないけど、そうする」
早川さんは、初めて本当に笑った。
「ありがとう。中井くんは、優しいね」
「そんなことない」
「優しいよ。あの時も、今も」
あの時。
水槽の前で話した、あの時。
「ただ見てるだけで、何もしないけど。それでもいいの。それが、中井くんだから」
その言葉が、胸に刺さった。
見てるだけで、何もしない。
それが、俺だ。
早川さんは立ち上がった。
「じゃあ、入学式行ってくる。また、キャンパスで会ったら声かけてね」
「ああ」
早川さんは新入生の群れの中に消えていった。
俺は一人、学食に残された。
頭の中で、情報が整理できなかった。
藤原が、父親だった。
藤原が、嘘をついた。
早川さんが、一人で全部背負った。
子供が、産まれた。
全部、知らなかった。
いや、知っていたけど、知らなかった。
真実は、もっと複雑だった。
卒業アルバムの×印を思い出した。
藤原の顔に描いた、×。
あれは、正しかったのか。
間違っていたのか。
わからない。
でも、消せない。
もう、消せない。
スマホを見た。
藤原の連絡先は、残っている。
でも、連絡する気にはなれなかった。
何を言えばいい。
何も、言えない。
立ち上がった。
アパートに帰ろう。
一人で、考えよう。
キャンパスを歩いていると、新入生たちが楽しそうに写真を撮っていた。
新しい人生の始まり。
早川さんも、そうなんだろう。
やり直し。
でも、俺は。
俺は何も変わっていない。
二年前と、同じ。
ただ、見ているだけ。
何もできない。
透明人間。
それが、俺だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...