続 水槽と鳥籠の違い

あさき のぞみ

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教育実習という試練

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大学三年の春。
教育実習が始まった。
配属先は、市内の公立高校。偏差値は低めで、進学校ではない。
「まあ、色々大変だと思うけど、頑張ってね」
初日、指導教員の田村先生に言われた。50代くらいの女性教師で、疲れた目をしていた。
「生徒たちは素直よ。ただ、勉強には興味ないかな。あと、実習生には興味津々だから、変な期待させないようにね」
変な期待。
その意味が、教室に入った瞬間わかった。
「きゃー、実習生だ!」
「若い!何歳?」
「彼女いるの?」
女子生徒たちが一斉に騒ぎ出した。
教室の9割が女子だった。共学と聞いていたのに。
男子生徒は隅の方で、無関心そうにスマホをいじっている。
「静かに。中井先生の自己紹介を聞きましょう」
田村先生が諫めたが、教室はなかなか静まらなかった。
俺は黒板に名前を書いた。
手が震えていた。
「えー、中井です。大学三年で、教育実習に来ました。三週間、よろしくお願いします」
「短っ!」
「もっと喋ってよ!」
「趣味は?」
質問が飛んでくる。
田村先生が制止するが、生徒たちは止まらない。
前列に座っている女子生徒が、スカートを組み直した。
太ももが見えた。
目をそらした。
「先生、顔赤いよ!」
笑い声が上がる。
この三週間が地獄になる。
そう確信した。
授業が始まると、もっと酷かった。
数学の授業。
簡単な方程式を教えようとしたが、誰も聞いていない。
「じゃあ、この問題を解いてみて」
黒板に書いた。x + 5 = 12。
中一レベルの問題。
「わかんない」
即答したのは、教室の一番後ろ、窓際の席にいる女子生徒だった。
「わかんないって、まだ何も説明してないけど」
「だって、わかんないもん」
彼女は頬杖をついて、窓の外を見ていた。
名簿を見る。
渡瀬、と書いてあった。
「渡瀬さん、じゃあ説明するから聞いて」
「聞いてもわかんないって」
周りの生徒がくすくす笑った。
渡瀬は笑わなかった。
ただ、虚無的な目で窓の外を見続けていた。
身長は低めだったけど、体のラインははっきりしていた。
制服のシャツが、胸のあたりで張っている。
スカートも、異様に短い。
太ももがほとんど見えている。
目をそらした。
でも、また見てしまう。
渡瀬が、こちらを見た。
目が合った。
渡瀬は、何も言わずに視線を戻した。
授業は、グダグダのまま終わった。
職員室に戻ると、田村先生が言った。
「初日お疲れ様。まあ、最初はあんなもんだから」
「すみません、全然うまくいかなくて」
「大丈夫。みんなそう。それより、気をつけてね」
「何をですか」
「生徒との距離感。特に女子生徒。あの子たち、面白半分で色々やってくるから」
田村先生は真剣な顔をしていた。
「変に優しくしすぎても、冷たくしすぎてもダメ。難しいけど、そこは気をつけて」
「はい」
「特に、渡瀬には」
「渡瀬さん?」
「ああ。あの子、色々あってね。家庭環境も良くないし。学校にはちゃんと来てるだけマシなのよ」
「勉強は……」
「もう、諦めてる。本人も、周りも。卒業できればいいかなって感じ」
田村先生は溜息をついた。
「でも、優しくしすぎないでね。あの子、寂しがり屋だから。すぐに懐いちゃうの」
「わかりました」
でも、その忠告は、もう遅かった。
次の日の休み時間。
渡瀬は、一人で教室の隅にいた。
他の女子生徒たちが固まって喋っている中、ぽつんと。
スマホをいじっているようだった。
「渡瀬さん」
思わず声をかけていた。
渡瀬は面倒くさそうに顔を上げた。
「なに」
「昨日の問題、わかった?」
「わかるわけないじゃん」
「じゃあ、ちょっと教えようか」
「いらない」
「でも」
「いらないって言ってんじゃん」
渡瀬の声が強くなった。
周りの生徒が、こちらを見た。
「先生ってさ、いい人ぶってんの?それとも本当に馬鹿なの?」
「え?」
「私みたいなやつに構っても無駄だって。どうせ、卒業したらフリーターか風俗でしょ。勉強なんて意味ないし」
渡瀬は立ち上がった。
スカートから、太ももが見えた。
豊かな胸が、制服のシャツを押し上げている。
「先生、私のこと見てるよね。エッチな目で」
「見てない」
「嘘。男ってみんなそう。私のこと、頭悪い女だと思って、体だけ見てる」
「そんなこと」
「じゃあなんで話しかけてきたの?成績優秀な子には話しかけないくせに」
言葉に詰まった。
確かに、渡瀬にだけ声をかけていた。
「私ね、先生みたいな人、一番嫌い」
渡瀬は教室を出て行った。
俺は、その場に立ち尽くした。
周りの視線が痛かった。
「先生、渡瀬に嫌われちゃったね」
誰かが笑った。
その日の夜、アパートで一人考えた。
渡瀬は、俺を見抜いていた。
綺麗事を言いながら、結局体を見ていた俺を。
救いたいふりをして、何もできない俺を。
まいに呆れられたのと、同じだ。
女子高生に見透かされるのも、同じだ。
俺は、何も変わっていない。
でも、渡瀬の目が忘れられなかった。
虚無的な目。
諦めた目。
でも、どこか俺に似ている気がした。
諦めているのに、諦めきれない。
そんな目。
翌日、渡瀬は学校に来なかった。
「渡瀬、休みですか?」
田村先生に聞くと、肩をすかめた。
「さあ。連絡もないし。まあ、いつものことよ」
いつものこと。
その言葉が、重かった。
昼休みになって、渡瀬が来た。
いつもより短いスカートを履いていた。
明らかに、短すぎる。
校則違反のレベルだ。
渡瀬は教室に入ってきて、俺を見た。
目が合った。
渡瀬は、少し笑った。
挑発的な笑み。
そして、わざとらしく、俺の前を通り過ぎた。
スカートが揺れる。
太ももが、ほとんど全部見えている。
周りの男子生徒たちの視線が集まる。
渡瀬は気にしていない。
むしろ、それを楽しんでいるように見えた。
午後の授業。
渡瀬は、ずっと俺を見ていた。
ノートも取らず、ただ見つめている。
周りの生徒が気づいている。
くすくす笑う声。
「渡瀬、先生のこと好きなんじゃない?」
「キモ」
「でも先生、まんざらでもなさそう」
俺は黒板に向かった。
背中に、渡瀬の視線を感じる。
授業が終わって、職員室に戻ろうとした時。
「先生」
渡瀬が呼び止めた。
「昨日はごめんね。ちょっとイライラしてて」
「いや、別に」
「先生、優しいね」
渡瀬は一歩近づいてきた。
廊下には他にも生徒がいる。
何人かが、こちらを見ていた。
「あのさ、先生。インスタやってる?」
「え、まあ」
「DM教えて。勉強わかんないとこ、聞きたいから」
勉強。
その言葉が嘘だとわかった。
でも、断る理由もない。
いや、断るべきなのか。
「でも、LINEとかの方が……」
「インスタがいい。先生のアカウント、知りたいし」
渡瀬はスマホを取り出した。
画面を見せてくる。
「ほら、ここに入力して」
断れなかった。
アカウント名を入力する。
渡瀬は満足そうに笑った。
「ありがと。じゃあね、先生」
渡瀬は廊下を歩いていった。
異様に短いスカートが、揺れる。
男子生徒たちの視線が集まる。
渡瀬は気にしていない。
俺は、その後ろ姿を見送った。
これは、まずい。
そう思った。
でも、もう遅かった。
田村先生の警告を思い出した。
「生徒との距離感。特に女子生徒」
「変に優しくしすぎても、冷たくしすぎてもダメ」
でも、どうすればいい。
もう、線を越えてしまった気がした。
その日の夜。
午後11時。
DMが来た。
「先生、起きてる?」
画面を見つめた。
返信すべきか、無視すべきか。
でも、無視したら、また何か言われる。
学校で。
「起きてるけど」
送信した。
すぐに返信が来た。
「暇?」
「まあ」
「私も暇。誰とも話したくないけど、先生となら話せる気がする」
なんだそれは。
でも、返信してしまう。
「そう?」
「うん。先生ってさ、私のこと見下してないでしょ」
「見下すとかない」
「嘘。みんな見下してる。成績悪いし、家も貧乏だし。でも先生は、違う気がする」
違わない。
俺も、他のみんなと同じだ。
渡瀬を見下している。
いや、見下しているのか。
それとも、別の何かなのか。
「先生、彼女いる?」
話題が変わった。
「いない」
「やっぱり。童貞?」
心臓が跳ねた。
「なんでそんなこと聞くの」
「だって、わかるもん。先生、女の子慣れしてないし」
図星だった。
まいのことが頭をよぎった。
あれは、違う。
金を払って、機械的に処理されただけ。
「私でよければ、教えてあげよっか?色々」
その言葉の意味が、わからないはずがなかった。
「冗談だよ。先生、真面目すぎ」
スタンプが送られてきた。
笑っている顔。
「じゃあ、おやすみ」
それきり、返信は来なかった。
俺は、スマホを握りしめた。
これは、完全にまずい。
田村先生の言葉を思い出す。
「生徒との距離感。特に女子生徒」
でも、どうすればいい。
無視すれば、また教室で何か言われる。
返信すれば、どんどん深みにはまる。
どうすればいい。
答えは出なかった。
ベッドに横になった。
でも、眠れなかった。
渡瀬のメッセージが、頭から離れなかった。
「私でよければ、教えてあげよっか?」
その言葉の意味。
体が、反応していた。
最低だ。
自分でも思う。
でも、止められない。
早川さんの顔が浮かんだ。
藤原の顔が浮かんだ。
あいつらと、同じ過ちを犯そうとしている。
いや、もう犯している。
DMを交換した時点で。
線を越えている。
でも、止められない。
渡瀬の虚無的な目が、頭から離れなかった。
あの目。
俺と同じ。
何も持っていない。
誰にも必要とされていない。
そんな目。
だから、惹かれるのか。
それとも。
わからなかった。
ただ、眠れなかった。
朝になった。
また、学校に行かなければならない。
渡瀬に会わなければならない。
どんな顔をすればいいのか。
わからなかった。
でも、行かなければならない。
それが、現実だった。
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