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図書館試験Ⅰ
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魔窟は涼しく、夏は快適だった。ひるがえって冬は、地獄のように寒かった。
獣たちは互いに身を寄せあって寒さを凌いだ。ヘイルータンは夏のあいだに狩ったイノシシやクマの毛皮をなめしたものを着込んだ。
クマの毛布は温かくて、ときおりカタツムリやミミズが、服のなかに忍び込んできた。ネコやテンが忍び込んでくることもあった。毛のある獣たちの感触は、ヘイルータンにとっても心地良かった。
そうして3度目の春をむかえることになった。
「それでは行って参ります」
図書館の入館試験の日となった。早く来て欲しいようで、いつまでも来て欲しくないという相反する気持ちがあった。
ヘイルータンがどう思おうと、日はのぼり月は沈んで、その日はやって来た。
「オヌシならば問題はない。行ってくるが良い。そしてワシの弟子として、大魔導師さまの鼻を明かしてやれ」
「はい。ダアゴ爺」
ダアゴがヘイルータンへかける期待は、並のものではなかった。
今の大魔導師は、ダアゴとの政争に勝ってその座を手に入れた。そしてダアゴのことを図書館から放逐した人物である。
ダアゴはその人物のもとに、みずから命名した愛弟子を送ろうというのだ。「大魔導師さまの鼻を明かしてやれ」という言葉には、深い意味が込められているのだと、ヘイルータンは察知していた。
「図書館の入館試験は1ヶ月間続けて行われる。合格すれば、しばらく戻っては来れなくなるじゃろう。オヌシとはしばしのお別れじゃな」
完全なトカゲになったダアゴは、その黒々とした目に涙を浮かべていた。
「今までオレのことを育ててくれたことに感謝します。ダアゴ爺。それにほかのみなさんも」
洞窟のなかでは、獣たちがヘイルータンを囲むようにしていた。
偉大な料理人であったサソリもいたし、世の中を震撼させた大盗賊のヘビもいた。世の女性たちを虜にしてきたカエルもいたし、世界中の言語をおぼえている亀もいた。猿がいて、コウモリがいて、ネコがいた。
みんな各々が、名残惜しげに声をかけてくれた。
「見送りにはテンを行かせる。あやつは警護としても優秀じゃからな。気負うことはないぞ。もし落ちたときは、ここでまた一緒に暮らせば良い」
大魔導師さまの鼻を明かしてやれというダアゴの言葉も本心だろうが、その言葉もまた偽らざる本心だろう。
「それでは」
と、ヘイルータンは一礼して、洞窟を出た。
まだ朝が早く、日がのぼっていなかった。わずかに冷気をはらんだ朝の空気を、目いっぱい吸い込んだ。
「準備できたのかい。ヘイルータン」
「うん。待ってくれてたの?」
「私はあんまりシンミリしたのが好きじゃないんでね。荷物はそれだけで良いのか?」
「うん」
ダアゴからもらった金貨と、半年前に買った『新解ルーン文字』だけ持って行くことにした。べつに試験ギリギリまで勉強しようという魂胆ではない。この本から発する羊皮紙とインクの匂いが好きだった。もし緊張が強くなったら、この本に鼻をうずめようという考えだった。
「どんな試験なのかは知らないけど、きっとヘイルータンなら大丈夫だろう。問題はそこじゃない。あの赤髪の大司書を見ても動転せずにいられるか――ってことだ」
「たぶん大丈夫だよ」
テンから殺気のコントロールについて教わった。もし憎悪に駆られても、上手くしずめられる自信はある。自信があっても、こればかりは実際に会ってみなければ、わからないことだった。
「ゼッタイに受かれよ」
「うん。わかってるよ」
ダアゴは落ちても良いという考えを示してくれたが、テンはそんな甘えは許さなかった。
テンは人間に戻りたいという気持ちが強いのだろう。
「よし。なら出発だ」
と、テンはヘイルータンの胸ぐらに潜りこんできた。
獣道を下りきり、森を抜けた。
森の木々が、風もないのにザワめいていた。まるでヘイルータンのことを見送ってくれるかのようだった。ヘイルータンは森に向かって一礼した。
「なにしてるんだよ。さっさと行こうぜ」
と、テンが急かした。
「わかってるよ」
半年前にいちど訪れた書架下街。そのときはおおいに賑わっていた。あの日の賑わいがウソであったかのように、静まり返っていた。
人の数は多い。杖をついて歩く老人から、親子連れの姿まであった。みんな青い顔をして図書館へ向かって行進していた。
まるで地獄へ向かうかのような行列を前に、ヘイルータンは立ちすくんだ。
「このときばかりは、書架下街も大人しくなるのさ。受験生のほかには誰も立ち入らないからな」
「あんなオジイサンも受験するの?」
ヘイルータンの記憶のなかにいる人間だったころのダアゴよりも、さらに年老いているように見えた。
「ああ。年齢制限はないからね。この試験に一生を費やすヤツだっているんだ。結局、なれないヤツばっかりだけどな」
「……」
ヘイルータンは杖を使って行進する老人を見つめた。腰が異様に曲がっているのは、ずっと机に向かっていたからだろう。
人間の一生をかけるほどの価値が、この試験にはあるのだろうか……と考えた。
(たかが試験じゃないか)
そんなものに人生を賭けてどうするというのだろうか。今からでも引き返したほうが良い。その老人を説得したい気持ちに駆られた。
老人に引き返せと言うのは、何よりの侮辱になってしまうことだとわかっていた。だって一生を費やしてきたんだから。
人間の一生を費やさなくてはならない入館試験というものが憎らしくなってきた。
「ヘイルータンは、ここにいる連中の誰よりも、ルーン文字を勉強した時間がすくない。ハッキリ言って付け焼刃だ」
「うん」
「それでも合格するんだぜ。もう3年は、私は待ちたくないからね。私のことをさっさと人にカラダに戻してくれよ」
「やれるだけやってみるよ」
図書館へと向かう行列のなかには、若い女性もいた。
女性たちが、ヘイルータンのことを見てクスクスと笑っていた。どうして笑われているのかわからなくて、ヘイルータンは赤面をおぼえた。
きっと自分のカラダからは、森や土の臭いがするのだ。そう思うと、いたたまれなくなってきた。
「なあ、テン。オレ。臭いかな?」
「臭い? なに言ってんだよ。君からは伽羅の香りがするんだ。カラダを洗わなくたって良い匂いだよ」
「洗ってるって」
浴場はなかったけれど、毎日ちゃんと川でカラダを洗っている。
どうして自分のカラダから、伽羅の香りがするのだろうか。
手の甲に鼻を押し当ててみたけれど、自分がどんな臭いを発しているのかは、ヤッパリわからなかった。
「あの女たちが笑ってるのが気になってるのかい?」
「うん」
「君があんまりにも美しいからさ。男のくせにね」
「は? へ?」
「気づいてないのかい。君は男のくせに、良い匂いがするし、肌もスベスベしてるんだよ。そのうち毛が生えてくるのかと思うと、私は胸が張り裂けそうだよ」
「カラカわないでよ」
「カラカってるわけじゃないよ。だけど、だからこそ私は君を選んだのさ。大魔導師は面食いだそうだからね。それに長髪の者を好むんだそうだぜ」
「ふぅん」
と、照れ隠しに素っ気なく応じた。
ヘイルータンは今まで、自分の容貌を気にかけたことはなかった。異性のいない洞窟で育ったせいもあるのかもしれない。
「伽羅の香りと白檀の香りがするヤツは、美しい悪女だって言い伝えが私の祖国にあった。なのに君と来たら、男のくせにこんな匂いがしやがる」
本気で言っているのか、それともヘイルータンの緊張を解きほぐそうとしているのか、人の心を読むことに長けているヘイルータンにも判別がつかなかった。
図書館の前についた。
半年前に来たときは、これほど図書館に近づいたことはなかった。図書館の周りには、ヘイルータンの背丈よりもすこし高いぐらいの石塀ができていた。
塀の向こうには図書館が生えている。人の建てたものとは思えないのだ。大地から生えているようにしか見えない。図書館を見上げると、そのまま後ろにひっくり返ってしまいそうだった。
「さあ。私が付いて来れるのは、ここまでだよ」 とテンが、ヘイルータンの胸のなかから跳びだしていった。
「テン……」
洞窟でダアゴたちと別れたときには、それほど悲しくなかったのに、テンとの別れかと思うと急に心細くなってきた。
魔窟で過ごした3年の月日が、めくらめく勢いでよみがえってきた。ホントウならばイデルの村で焼け死んでいた自分に、幸せな時間を与えてくれた獣たちに感謝した。
仮にイデルの村が無事であったならば、自分は一介の農夫の息子として人生をマットウしていたはずだ。図書館なんかとは縁のない人生だったはずだ。図書館に挑むチャンスをくれたことにも感謝した。
「そんな顔をするなよ。朗報を待ってるぜ」
「うん」
「じゃあね。私は魔術師に見つかると、いろいろとメンドウだからね。健闘を祈る」
別れを惜しむ暇もなく、テンは雑踏の足元をすり抜けて行った。
周りには夫の合格を祈る妻や、子供の成功を祈る母や父の姿があった。
なんて罪深い試験なんだろうか――と暗澹とした気持ちになった。
獣たちは互いに身を寄せあって寒さを凌いだ。ヘイルータンは夏のあいだに狩ったイノシシやクマの毛皮をなめしたものを着込んだ。
クマの毛布は温かくて、ときおりカタツムリやミミズが、服のなかに忍び込んできた。ネコやテンが忍び込んでくることもあった。毛のある獣たちの感触は、ヘイルータンにとっても心地良かった。
そうして3度目の春をむかえることになった。
「それでは行って参ります」
図書館の入館試験の日となった。早く来て欲しいようで、いつまでも来て欲しくないという相反する気持ちがあった。
ヘイルータンがどう思おうと、日はのぼり月は沈んで、その日はやって来た。
「オヌシならば問題はない。行ってくるが良い。そしてワシの弟子として、大魔導師さまの鼻を明かしてやれ」
「はい。ダアゴ爺」
ダアゴがヘイルータンへかける期待は、並のものではなかった。
今の大魔導師は、ダアゴとの政争に勝ってその座を手に入れた。そしてダアゴのことを図書館から放逐した人物である。
ダアゴはその人物のもとに、みずから命名した愛弟子を送ろうというのだ。「大魔導師さまの鼻を明かしてやれ」という言葉には、深い意味が込められているのだと、ヘイルータンは察知していた。
「図書館の入館試験は1ヶ月間続けて行われる。合格すれば、しばらく戻っては来れなくなるじゃろう。オヌシとはしばしのお別れじゃな」
完全なトカゲになったダアゴは、その黒々とした目に涙を浮かべていた。
「今までオレのことを育ててくれたことに感謝します。ダアゴ爺。それにほかのみなさんも」
洞窟のなかでは、獣たちがヘイルータンを囲むようにしていた。
偉大な料理人であったサソリもいたし、世の中を震撼させた大盗賊のヘビもいた。世の女性たちを虜にしてきたカエルもいたし、世界中の言語をおぼえている亀もいた。猿がいて、コウモリがいて、ネコがいた。
みんな各々が、名残惜しげに声をかけてくれた。
「見送りにはテンを行かせる。あやつは警護としても優秀じゃからな。気負うことはないぞ。もし落ちたときは、ここでまた一緒に暮らせば良い」
大魔導師さまの鼻を明かしてやれというダアゴの言葉も本心だろうが、その言葉もまた偽らざる本心だろう。
「それでは」
と、ヘイルータンは一礼して、洞窟を出た。
まだ朝が早く、日がのぼっていなかった。わずかに冷気をはらんだ朝の空気を、目いっぱい吸い込んだ。
「準備できたのかい。ヘイルータン」
「うん。待ってくれてたの?」
「私はあんまりシンミリしたのが好きじゃないんでね。荷物はそれだけで良いのか?」
「うん」
ダアゴからもらった金貨と、半年前に買った『新解ルーン文字』だけ持って行くことにした。べつに試験ギリギリまで勉強しようという魂胆ではない。この本から発する羊皮紙とインクの匂いが好きだった。もし緊張が強くなったら、この本に鼻をうずめようという考えだった。
「どんな試験なのかは知らないけど、きっとヘイルータンなら大丈夫だろう。問題はそこじゃない。あの赤髪の大司書を見ても動転せずにいられるか――ってことだ」
「たぶん大丈夫だよ」
テンから殺気のコントロールについて教わった。もし憎悪に駆られても、上手くしずめられる自信はある。自信があっても、こればかりは実際に会ってみなければ、わからないことだった。
「ゼッタイに受かれよ」
「うん。わかってるよ」
ダアゴは落ちても良いという考えを示してくれたが、テンはそんな甘えは許さなかった。
テンは人間に戻りたいという気持ちが強いのだろう。
「よし。なら出発だ」
と、テンはヘイルータンの胸ぐらに潜りこんできた。
獣道を下りきり、森を抜けた。
森の木々が、風もないのにザワめいていた。まるでヘイルータンのことを見送ってくれるかのようだった。ヘイルータンは森に向かって一礼した。
「なにしてるんだよ。さっさと行こうぜ」
と、テンが急かした。
「わかってるよ」
半年前にいちど訪れた書架下街。そのときはおおいに賑わっていた。あの日の賑わいがウソであったかのように、静まり返っていた。
人の数は多い。杖をついて歩く老人から、親子連れの姿まであった。みんな青い顔をして図書館へ向かって行進していた。
まるで地獄へ向かうかのような行列を前に、ヘイルータンは立ちすくんだ。
「このときばかりは、書架下街も大人しくなるのさ。受験生のほかには誰も立ち入らないからな」
「あんなオジイサンも受験するの?」
ヘイルータンの記憶のなかにいる人間だったころのダアゴよりも、さらに年老いているように見えた。
「ああ。年齢制限はないからね。この試験に一生を費やすヤツだっているんだ。結局、なれないヤツばっかりだけどな」
「……」
ヘイルータンは杖を使って行進する老人を見つめた。腰が異様に曲がっているのは、ずっと机に向かっていたからだろう。
人間の一生をかけるほどの価値が、この試験にはあるのだろうか……と考えた。
(たかが試験じゃないか)
そんなものに人生を賭けてどうするというのだろうか。今からでも引き返したほうが良い。その老人を説得したい気持ちに駆られた。
老人に引き返せと言うのは、何よりの侮辱になってしまうことだとわかっていた。だって一生を費やしてきたんだから。
人間の一生を費やさなくてはならない入館試験というものが憎らしくなってきた。
「ヘイルータンは、ここにいる連中の誰よりも、ルーン文字を勉強した時間がすくない。ハッキリ言って付け焼刃だ」
「うん」
「それでも合格するんだぜ。もう3年は、私は待ちたくないからね。私のことをさっさと人にカラダに戻してくれよ」
「やれるだけやってみるよ」
図書館へと向かう行列のなかには、若い女性もいた。
女性たちが、ヘイルータンのことを見てクスクスと笑っていた。どうして笑われているのかわからなくて、ヘイルータンは赤面をおぼえた。
きっと自分のカラダからは、森や土の臭いがするのだ。そう思うと、いたたまれなくなってきた。
「なあ、テン。オレ。臭いかな?」
「臭い? なに言ってんだよ。君からは伽羅の香りがするんだ。カラダを洗わなくたって良い匂いだよ」
「洗ってるって」
浴場はなかったけれど、毎日ちゃんと川でカラダを洗っている。
どうして自分のカラダから、伽羅の香りがするのだろうか。
手の甲に鼻を押し当ててみたけれど、自分がどんな臭いを発しているのかは、ヤッパリわからなかった。
「あの女たちが笑ってるのが気になってるのかい?」
「うん」
「君があんまりにも美しいからさ。男のくせにね」
「は? へ?」
「気づいてないのかい。君は男のくせに、良い匂いがするし、肌もスベスベしてるんだよ。そのうち毛が生えてくるのかと思うと、私は胸が張り裂けそうだよ」
「カラカわないでよ」
「カラカってるわけじゃないよ。だけど、だからこそ私は君を選んだのさ。大魔導師は面食いだそうだからね。それに長髪の者を好むんだそうだぜ」
「ふぅん」
と、照れ隠しに素っ気なく応じた。
ヘイルータンは今まで、自分の容貌を気にかけたことはなかった。異性のいない洞窟で育ったせいもあるのかもしれない。
「伽羅の香りと白檀の香りがするヤツは、美しい悪女だって言い伝えが私の祖国にあった。なのに君と来たら、男のくせにこんな匂いがしやがる」
本気で言っているのか、それともヘイルータンの緊張を解きほぐそうとしているのか、人の心を読むことに長けているヘイルータンにも判別がつかなかった。
図書館の前についた。
半年前に来たときは、これほど図書館に近づいたことはなかった。図書館の周りには、ヘイルータンの背丈よりもすこし高いぐらいの石塀ができていた。
塀の向こうには図書館が生えている。人の建てたものとは思えないのだ。大地から生えているようにしか見えない。図書館を見上げると、そのまま後ろにひっくり返ってしまいそうだった。
「さあ。私が付いて来れるのは、ここまでだよ」 とテンが、ヘイルータンの胸のなかから跳びだしていった。
「テン……」
洞窟でダアゴたちと別れたときには、それほど悲しくなかったのに、テンとの別れかと思うと急に心細くなってきた。
魔窟で過ごした3年の月日が、めくらめく勢いでよみがえってきた。ホントウならばイデルの村で焼け死んでいた自分に、幸せな時間を与えてくれた獣たちに感謝した。
仮にイデルの村が無事であったならば、自分は一介の農夫の息子として人生をマットウしていたはずだ。図書館なんかとは縁のない人生だったはずだ。図書館に挑むチャンスをくれたことにも感謝した。
「そんな顔をするなよ。朗報を待ってるぜ」
「うん」
「じゃあね。私は魔術師に見つかると、いろいろとメンドウだからね。健闘を祈る」
別れを惜しむ暇もなく、テンは雑踏の足元をすり抜けて行った。
周りには夫の合格を祈る妻や、子供の成功を祈る母や父の姿があった。
なんて罪深い試験なんだろうか――と暗澹とした気持ちになった。
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