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第一章 後悔先に立たず?
しおりを挟む――あれは、いつの事だっただろうか。
たどるべき記憶が膨大過ぎて、たどり着くのに時間がかかる。
どこからか聞こえる小さな音。
さやと木の葉の擦れる涼やかな音に紛れ、鼻をすする音まで聞こえてくる。
――小さな子供が、泣いていた。
朱塗りの社の隅っこで一人きり、膝を抱えて丸めた背中を小さく震わせる。
木の葉をすり抜けた光が皆底のように地面で揺れて瞬く。
天に届きそうなほど高い。胴に注連縄をかけた樟のご神木。
不意に風もないのに沸き立つように枝葉が揺れ、ざわめく。
――魔が通る。
魔物が近づくとご神木が激しく揺れて危険を知らせるらしい。
(というかお稲荷様の眷属を魔物扱いっておかしくないっ!?)
『――人間を見たら逃げなさい。決して姿を見られてはいけない』
幼いころからそう母に言い聞かされてきた。それは妖狐の処世術のようなもの。人間は異形を排除しようとするから。近づいてはいけない。
「こんなところでどうしたの?」
思わず声をかけていた。
気配に気づかなかったのだろう、びくりと肩を揺らして顔を上げた。
さらりと風になびく栗色の髪とこぼれそうに見開いた深い黒の目。
紅葉と正反対のこんがり焼けた肌。やんちゃそうな顔立ちが印象的だ。
「置いてけぼりにされちゃったの?」
顔を背けて返事の代わりにふくれっ面になる。
「ちょっと転んだだけ」
視線を落として抱えた膝小僧が目に留まる。赤く血が滲む。
「痛そう」
そっと隣に腰を下ろし、膝を指さして紅葉が眉根を寄せる。
男の子は答えず、膝を抱え込んで背中を丸めた。
強がっているのが丸見えで思わず口元が緩む。
紅葉が膝に顔を寄せ、ふっと息を吹きかけて手のひらで撫でた。
「――血の道と其の血の道と復し父母の道」
血止めの呪歌だ。幼い時に母がよくこうしてくれた。
そっと手をどけると血が止まっていた。
それを見て目を丸くする。それから屈託ない笑顔で「ありがとう」と。
(今から思えば一目ぼれだったのかも)
人間はもっと恐ろしいものだと思っていた。
それから幾度かこの場所で会った。「いつかお嫁さんにする」というかわいらしい口約束を交わしたのはいつの事か。
子供の戯言と思わず苦く笑った。
(――そんな事、もう覚えてはいまい)
どうしてこのタイミングで思い出すのか。
一度思い出すと、あの子はどうしているのかと気になる。
「あの子に会えますように」
と、声に出しお稲荷様にお願いをしてみることにする。
(こちらはいつも使われてばかり、たまには自分の部下の願い事を聞いてくれてもよさそうなものだ)
雨宿りのつもりだったが、短い軒は用をなさない。
紅葉のブラウスもスカートもびしょ濡れになっていた。
降りしきる雨。空を仰いで目を伏せた。
冷たい雨は容赦なく体温を奪っていく。
これまで怒り狂っていて感じなかったが、冷静になって見るとこんな薄着では凍えそうに寒い。しかも雨に降られてびしょ濡れだ。
(濡れ鼠じゃなくて、濡れギツネ。……格好悪い)
歩き出そうとしてふわふわと足元の感覚が覚束ない。
立っているのもつらくて自分を抱くように腕を回してしゃがみ込んだ。
歯の根も合わないほど震えていた。
急な変化に驚いて周囲へ意識を向けることなどできなかった。
――まして近づいてくる人の気配など。
離れた場所から呼びかける声を聞いた気がする。
顔を上げ、ぐるりと世界が回るのを最後に、意識は深淵に飲み込まれた。
(これで、終わった……)
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