この狐(こ)どこの子?

大月 けい

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第2章 捨てる狐あれば拾う人ありました。

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 ――そう思ったのだが。
 妙なところで神様は律儀だった。願いを聞くつもりがあるという事なのだろうか、命が尽きることはなかった。
 ただし、何もかも都合良くはいかない。
(――体が熱い)
 体が重く、指先一つ動かすのでさえ億劫になる。
 要するに風邪をひいた。
(――化け物のくせに情けない)
 身体だけは人一倍、否、人の数百倍元気な妖狐である。
 生まれてこの方、病気などというものと全く無縁だった。
 家を飛び足して心細くなっていた上に雨に濡れて体が冷え切っていた。当然だが化け物だって風邪ぐらいひく。
 風邪をひくと熱が出る。そんな事すら忘れ果てていた。
 怒り狂ってあたり散らしたせいでいつもフルチャージの気力が、すっぽりと抜け落ちていたらしい。
 体が熱くて、ふわふわする。
 息をしているはずなのに、取り込む量が足りない。
 腐っても妖狐である。気合で治せそうなものだが、残念ながらその気合がない。ぽっかり空いた心の隙間に病魔が忍び込むとは考えた事すらなかった。
 熱に浮かされて夢でも見たのか、幾度か誰かの冷たい手を感じた気がする。
「――――母様?」
 自分の声で目が覚めた。
 体が重く、熱い。びっくりするほど最悪な目覚めだ。
 最初に見えたのは見覚えのない白木の天井。
 ところどころ染みが浮いて人の顔のように見えて気持ち悪い。
 いつもと違う畳の香り。急に不安になって居心地が悪い。
 ぼんやりとする頭を動かして周囲を確認する。
 濡れたタオルが滑り落ちて目を見張る。
(――訳が分からない)
 そのまま上掛けを押しのけるようにしてのろのろと起き上がった。
(頭が、痛い)
 しかめっ面で見まわすとそこは見知らぬ和室だ。三方を障子に囲まれた明るく広々とした部屋。
 障子の向こうはしんと静まり、ほのかに明るい。床の間には高そうな花瓶。
 紅葉は和室に伸べられた布団の中にいた。
(ここは、どこ?)
 記憶を辿るが分からない。分かるのは見覚えのない場所だという事。
(まさか、うっかり死んだ!?)
 雨に打たれて風邪をひき、うっかり天に昇ってしまったのか。
(これが噂に聞く黄泉の国なのか?)
 ――な、訳がない。
行く当てもなく社の隅っこで雨宿りをしていた。 
 思考が落ち着いてくると次第に情けなくなる。
 親と喧嘩して売り言葉に買い言葉。婿殿は自分で探すと鼻息荒く家を飛び出して来たのだ。――当てもないのに。
 喧嘩したことは後悔するが、あいつとの結婚については後悔していない。
「母様、心配してるかな……」 
 一所懸命に引き留めようとした母の姿を思い出すと鼻の奥がつんと痛い。
 ポトリと、布団を握りしめた手に、雫が落ちた。
 何もかも決められるのが嫌で家を飛び出したのに、一人では何もできない。
(――情けない)
 一度、堰が切れれば止まらない。
 両手で顔を覆って声を殺して肩を揺らす。
 自己嫌悪で満タンだ。そのせいで背中で襖が開いたのすら気づかなかった。
 来るのはどうせ地獄の眷属。現れるのは鬼か閻魔か。
(釜茹でだろうが、串刺しだろうが好きに料理をしてちょうだい)
 顔を上げて確かめる事すら億劫だ。
「大丈夫!?」
 紅葉が泣いてると分かって、そいつはばたばたと忙しない足音を立てて枕元に駆け寄ってきた。
「どこか痛いの?」
 布団の端に手を突くとずいと身を乗り出して問いかける。
 ――――近い。
 あまりに唐突な登場。暑苦しいほど心配する顔に驚いて、涙が引っ込んだ。
 口元が引き笑いになった泣き顔という奇妙な表情。
 息がかかりそうなほどの距離で真っすぐに見られてこそばゆい。
 栗色の髪の青年。メガネをかけた少し幼い眉間を寄せた顔。
「あの……近い、です」
 紅葉が引きつった笑いを浮かべると我に返って慌てて体を引いた。
「よかったぁぁ」
 それからようやく肩の力を抜いて、ほうと息を吐く。
 暖かそうなセーターを着た青年に紅葉は目を丸くした。
 そのまま幾度か瞬きをする。
(……っていうか、……誰?)
「大丈夫? 熱は?」
 強張ったままの紅葉の額に冷たい手が触れる。
 それだけに鼓動が跳ね上がる。訳が分からん。
「――――!」
 縁日の金魚のように動く口からは言葉が出てこない。
「まだ、熱があるみたい」
 同じように自分の額に触れてから眉根を寄せ、紅葉が押しのけた布団を引き寄せる。
布団の中に押し戻されて様子を伺う。
「……どうして?」
 熱のせいか喉から出たのはかすれた声。
「もしかして家出? お家の人に連絡しようにも何も持ってなかったし、仕様がないからここに連れて来たんだ! おかしなことは何もしてないから安心して!」
 青年はあたふたと身振り手振りを交えて説明する。ちょこまかとした動きが小動物のようでかわいい。
 紅葉の表情が緩むのとは反対に青年の表情は苦い物へと変わる。
「あの日は雨が降っていて寒かったし風邪をひいちゃったみたいで三日も熱が下がらなくて、心配したよ」
 眉根を寄せるその面影にようやく気が付いた。
(――この子……?)
「お腹減ってない? おかゆとか、何か食べられそうかな?」
 枕に頭を落としたまま首を振る。そう、と小さく呟いて背筋を伸ばした。それから小言を並べる母親のように少し怖い顔になる。
「――何があったのかは知らないけど。お家の人にはちゃんと連絡しなきゃ駄目だよ。うちは部屋だけはたくさんあるから、しばらくゆっくりしていくのは構わないよ」
 いつか見た顔によく似たそれが屈託なく笑う。
 どうやら行き倒れの家出人と思われているらしい。
(いや。間違いではない。……こちらは正真正銘の家出人です)
 ただの家出人とは一味違う、なんと勘当されたてほやほやである。
 実家に連絡などできるはずもない。
「はぁ……」
 曖昧な返事で誤魔化す紅葉の額に絞った濡れタオルを乗せる。
 冷たくて気持ちがいい。
「僕は吉野夏樹。君の名前は?」
 当然の質問に固まった。
「――――紅葉」
 名前だけをぼそりと、小さく答えた。
(――覚えているのだろうか?)
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