2 / 11
2話「名前を呼ばれるということ」
しおりを挟む起きている、という感覚が、まだ曖昧だ。
目は開いている。
たぶん。
でも、世界はいつも、少しだけ遠い。
音は聞こえるのに、意味になる前に溶けていく。
光は見えるのに、形になる前に滲む。
(……あれ)
何か、考えていた気がする。
大事なことだったような。
ちゃんと、つなげておかないといけないことだったような。
そう思った瞬間、
頭の中に、ふわっと白い綿が広がった。
(……え)
さっきまで、確かにあった。
でも、それがどこに行ったのか、分からない。
(……あれ……?)
探そうとして、
探す、という行為そのものが、よく分からなくなる。
その代わりに、
胸の奥が、もぞっとした。
理由は分からない。
でも、なんだか、落ち着かない。
「んー……」
声を出そうとしたつもりは、なかった。
なのに、口が勝手に動いて、
よく分からない音が漏れる。
「あら、起きたの?」
すぐに、上から声が降ってきた。
母親だ。
(……あ)
そうだ。
私は、赤ちゃんだった。
思い出した瞬間、
少しだけ安心して、
そして同時に、少しだけ、がっかりする。
(……そっか)
そっか、じゃない。
赤ちゃんなんだから、
考えが途切れるのも、
言葉が出ないのも、
当たり前なのに。
分かっているはずなのに、
その事実が、胸の奥で、ちくっと刺さる。
前世では、
考えが途切れることなんて、なかった。
眠くても、
辛くても、
頭だけは、無理やり動かしていた。
動かさないと“役に立たない人”になる気がして。
(……やめて)
その記憶に、引きずられそうになった瞬間、
身体が、勝手に重くなった。
まぶたが、ずしっと落ちる。
(……っ……、まだ……!)
まだ起きていたかった。
せっかく、起きていられる時間なのに。
せっかく、世界が見えているのに。
そう思った、はずなのに。
次の瞬間、
視界が暗くなり、
思考が、ぷつりと切れた。
***
「……よく寝るわね」
その声で、また、少しだけ意識が浮上する。
でも、完全には戻れない。
眠りと目覚めの間で、
ぷかぷか浮いている感じ。
「このくらいの子は、こんなものだ」
低い声。
父親だ。
(……だれ)
分かっているのに、
名前が、すぐに出てこない。
顔は、ぼんやりと覚えている。
大きくて、
近づくと、影になる人。
外の匂いを、連れてくる人。
(……ああ)
父親。
そこまで思い出したところで、
また、意識が、すーっと遠のきそうになる。
(……まって)
待って、という言葉が、
頭の中に浮かんだ瞬間、
身体が、じた、と動いた。
動いた、つもりだった。
実際には、
指が、少し、空を掴んだだけだったらしい。
「お?」
父親の声が、少し上ずる。
「今、動いたな」
(……うごいた)
うごいた、という感覚だけは、ある。
でも、
思ったほど、うまくはいかない。
もう一度、
今度こそ、ちゃんと。
そう思って、
腕に力を入れようとして。
(……?)
どこに、力を入れるんだっけ。
腕、という概念は、分かる。
でも、腕を“動かす”という感覚が、
頭と、身体で、噛み合わない。
結果、
なぜか、足の方が、ぴくっと動いた。
「……はは」
父親が、笑った。
「手じゃなくて、足だぞ」
(……しってる)
知ってる。
知ってるのに。
どうして、こう、
思った通りにならないんだろう。
悔しくて、
もう一度、何かしようとして。
次の瞬間、
その「悔しい」という感情が、
そのまま、涙になった。
ぽろ、と。
自分でも、驚く。
(……え)
泣くつもり、なかった。
ただ、
うまくできなくて、
もどかしくて、
それだけだったのに。
「ほら、泣くな」
父親の手が、慌てて私を包む。
抱き上げられて、
身体が、ふわっと浮いた。
その瞬間、
胸の奥のもやもやが、少しだけ溶ける。
(……ずるい)
抱っこは、ずるい。
こんなの、
落ち着かないわけがない。
父親の胸は、硬くて、
少し、土と鉄の匂いがして。
外で、働いてきた匂い。
(……いきてる)
そんな、当たり前のことを、
ぼんやりと思う。
前世では、
人の胸の音を、
こんな近くで聞くことなんて、なかった。
触れたら、
何かを求められる気がして。
(……いまは)
今は、何も求められない。
ただ、
ここにいるだけでいい。
その事実が、
また、眠気を連れてくる。
***
ある日、
母親と父親が、私を囲んで話をしていた。
声の調子が、いつもと少し違う。
(……なんだろ)
聞こうとして、
耳に意識を向けたところで、
ふあ、と、あくびが出た。
(……だめ)
だめだ。
今は、聞かないと。
そう思って、
必死に、目を開ける。
……開けている、はず。
視界は、揺れている。
「この子の、名前なんだけど」
母親の声。
(……なまえ)
その単語に、
一瞬だけ、頭が冴えた。
名前。
前世では、
名前を呼ばれるたびに、
背筋が、少しだけこわばっていた。
呼ばれる=期待される。
期待される=応えなければならない。
(……いやだ)
派手な名前は、嫌だ。
目立つのは、嫌だ。
そう思ったところで、
その“嫌だ”という感情が急にどうでもよくなる。
(……ねむ)
眠気が、
全部を押し流してくる。
「……どう思う?」
父親の声が、
遠くで、響く。
母親が、少し考えてから言った。
「……リィナ、は?」
その音が、不思議と耳に残った。
柔らかくて、
息を吐くみたいな名前。
「リィナ」
母親が、もう一度呼ぶ。
その瞬間、
何かに引っ張られるように、
私はその声の方を見た。
意識して見たわけじゃない。
ただ、音のする方に視線が
吸い寄せられただけ。
「あ……」
母親が、声を上げる。
「今、見たわよね」
「偶然だろ」
父親はそう言ったけれど、
母親は、嬉しそうだった。
「ねえ、リィナ」
その呼びかけに、
胸の奥が、きゅっとする。
(……わたし)
私、なんだ。
この音が。
そう思ったところで、
また、意識がふわっと揺れる。
(……つかれる)
名前をもらう、というだけで、
こんなに、疲れるとは思わなかった。
***
台所からいつもと違う匂いがしていた。
甘いような、香ばしいような。
(……なに)
気になって首を動かそうとして。
動かない。
(……あ)
そうだった。
首は、まだ、自由じゃない。
もどかしくて、
手を伸ばしたつもりが、
また、空を掴む。
「ほらほら、危ないわよ」
母親が、私を抱き直す。
鍋の中で、
何かが、ぐつぐつと音を立てている。
「今日は、市場に出てた豆が安くてね」
母親の声。
「助かるな……」
父親が、ほっとしたように言う。
(……たべもの)
そう認識した瞬間、
お腹が、きゅっと鳴った。
理由は、分からない。
でも、身体が欲しがっている。
前世の記憶が、
ふと、顔を出す。
(……だし)
出汁。
でも、その言葉が、
意味になる前に、
思考が、また、ほどける。
(……むり)
今は、無理だ。
考えるのは、
もっと、あと。
***
夜。
父親が疲れた顔で帰ってきた。
服の端に、
乾いた土と、金属の匂い。
「……市場、荒れてた」
その言葉の意味は、
完全には、分からない。
でも、
母親の表情が、少し曇る。
「怪我は?」
「大丈夫だ」
短いやり取り。
(……いやなこと)
それだけは、分かる。
父親が、私を見て言った。
「……守らないとな」
その声は、低くて、
でも、はっきりしていた。
(……まもる)
その言葉が、
胸の奥に、沈む。
前世では、
守られることなんて、なかった。
守られる価値が、
自分にはないと思っていた。
(……いまは)
今は、
守られている。
理由も、条件も、なく。
その安心感が、
一気に、眠気に変わる。
(……ねる)
抗う気力も、
もう、残っていない。
私は、父親の胸に顔をうずめて、
規則正しい音を聞きながら、
ゆっくりと、意識を手放した。
考えごとは、
また、途中で、終わったけれど。
それでも、いい。
今は、
それで、いい。
71
あなたにおすすめの小説
幻獣保護センター廃棄処理係の私、ボロ雑巾のような「ゴミ幻獣」をこっそり洗ってモフっていたら、実は世界を喰らう「終焉の獣」だった件について
いぬがみとうま🐾
ファンタジー
「魔力なしの穀潰し」――そう蔑まれ、幻獣保護センターの地下で廃棄幻獣の掃除に明け暮れる少女・ミヤコ。
実のところ、その施設は「価値のない命」を無慈悲に殺処分する地獄だった。
ある日、ミヤコの前に運ばれてきたのは、泥と油にまみれた「ボロ雑巾」のような正体不明の幻獣。
誰の目にもゴミとしか映らないその塊を、ミヤコは放っておけなかった。
「こんなに汚れたままなんて、かわいそう」
彼女が生活魔法を込めたブラシで丹念に汚れを落とした瞬間、世界を縛る最凶の封印が汚れと一緒に「流されてしまう。
現れたのは、月光を纏ったような美しい銀狼。
それは世界を喰らうと恐れられる伝説の災厄級幻獣『フェンリル・ヴォイド』だった……。
腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。
灯乃
ファンタジー
十二歳のときに母が病で亡くなった途端、父は後妻と一歳年下の妹を新たな『家族』として迎え入れた。
彼らの築く『家族』の輪から弾き出されたアニエスは、ある日義母の私室に呼び出され――。
タイトル通りのおっさんコメディーです。
転生能無し少女のゆるっとチートな異世界交流
犬社護
ファンタジー
10歳の祝福の儀で、イリア・ランスロット伯爵令嬢は、神様からギフトを貰えなかった。その日以降、家族から【能無し・役立たず】と罵られる日々が続くも、彼女はめげることなく、3年間懸命に努力し続ける。
しかし、13歳の誕生日を迎えても、取得魔法は1個、スキルに至ってはゼロという始末。
遂に我慢の限界を超えた家族から、王都追放処分を受けてしまう。
彼女は悲しみに暮れるも一念発起し、家族から最後の餞別として貰ったお金を使い、隣国行きの列車に乗るも、今度は山間部での落雷による脱線事故が起きてしまい、その衝撃で車外へ放り出され、列車もろとも崖下へと転落していく。
転落中、彼女は前世日本人-七瀬彩奈で、12歳で水難事故に巻き込まれ死んでしまったことを思い出し、現世13歳までの記憶が走馬灯として駆け巡りながら、絶望の淵に達したところで気絶してしまう。
そんな窮地のところをランクS冒険者ベイツに助けられると、神様からギフト《異世界交流》とスキル《アニマルセラピー》を貰っていることに気づかされ、そこから神鳥ルウリと知り合い、日本の家族とも交流できたことで、人生の転機を迎えることとなる。
人は、娯楽で癒されます。
動物や従魔たちには、何もありません。
私が異世界にいる家族と交流して、動物や従魔たちに癒しを与えましょう!
【第2部開始】ぬいぐるみばかり作っていたら実家を追い出された件〜だけど作ったぬいぐるみが意志を持ったので何も不自由してません〜
月森かれん
ファンタジー
中流貴族シーラ・カロンは、ある日勘当された。理由はぬいぐるみ作りしかしないから。
戸惑いながらも少量の荷物と作りかけのぬいぐるみ1つを持って家を出たシーラは1番近い町を目指すが、その日のうちに辿り着けず野宿をすることに。
暇だったので、ぬいぐるみを完成させようと意気込み、ついに夜更けに完成させる。
疲れから眠りこけていると聞き慣れない低い声。
なんと、ぬいぐるみが喋っていた。
しかもぬいぐるみには帰りたい場所があるようで……。
天真爛漫娘✕ワケアリぬいぐるみのドタバタ冒険ファンタジー。
※この作品は小説家になろう・ノベルアップ+にも掲載しています。
公爵令嬢やめて15年、噂の森でスローライフしてたら最強になりました!〜レベルカンストなので冒険に出る準備、なんて思ったけどハプニングだらけ〜
咲月ねむと
ファンタジー
息苦しい貴族社会から逃げ出して15年。
元公爵令嬢の私、リーナは「魔物の森」の奥で、相棒のもふもふフェンリルと気ままなスローライフを満喫していた。
そんなある日、ひょんなことから自分のレベルがカンストしていることに気づいてしまう。
「せっかくだし、冒険に出てみようかしら?」
軽い気持ちで始めた“冒険の準備”は、しかし、初日からハプニングの連続!
金策のために採った薬草は、国宝級の秘薬で鑑定士が気絶。
街でチンピラに絡まれれば、無自覚な威圧で撃退し、
初仕事では天災級の魔法でギルドの備品を物理的に破壊!
気づけばいきなり最高ランクの「Sランク冒険者」に認定され、
ボロボロの城壁を「日曜大工のノリ」で修理したら、神々しすぎる城塞が爆誕してしまった。
本人はいたって平和に、堅実に、お金を稼ぎたいだけなのに、規格外の生活魔法は今日も今日とて大暴走!
ついには帝国の精鋭部隊に追われる亡国の王子様まで保護してしまい、私の「冒険の準備」は、いつの間にか世界の運命を左右する壮大な旅へと変わってしまって……!?
これは、最強の力を持ってしまったおっとり元令嬢が、その力に全く気づかないまま、周囲に勘違いと畏怖と伝説を振りまいていく、勘違いスローライフ・コメディ!
本人はいつでも、至って真面目にお掃除とお料理をしたいだけなんです。信じてください!
追放された荷物持ちですが、実は滅んだ竜族の末裔でした。今さら戻れと言われても、もうスローライフ始めちゃったんで
ソラリアル
ファンタジー
目が覚めたら、俺は孤児だった。
家族も、家も、居場所もない。
そんな俺を拾ってくれたのは、
優しいSランク冒険者のパーティだった。
「荷物持ちでもいい、仲間になれ」
その言葉を信じて、
俺は必死に、置いていかれないようについていった。
自分には何もできないと思っていた。
それでも、少しでも役に立ちたくて、
誰にも迷惑をかけないようにと、
夜な夜な一人でダンジョンに潜り、力を磨いた。
仲間を護れるなら…
そう思って使った支援魔法や探知魔法も、
気づかれないよう、そっと重ねていただけだった。
だけどある日、告げられた。
『ここからは危険だ。荷物持ちは、もう必要ない』
それは、優しさからの判断だった。
俺も分かっていた。だから、何も言えなかった。
こうして俺は、静かにパーティを離れた。
これからは一人で、穏やかに生きていこう。
そう思っていたし、そのはずだった。
…だけど、ダンジョンの地下で古代竜の魂と出会って、
また少し、世界が騒がしくなってきたようです。
◇小説家になろう・カクヨムでも同時連載中です◇
大聖女の姉と大聖者の兄の元に生まれた良くも悪くも普通の姫君、二人の絞りカスだと影で嘲笑されていたが実は一番神に祝福された存在だと発覚する。
下菊みこと
ファンタジー
絞りカスと言われて傷付き続けた姫君、それでも姉と兄が好きらしい。
ティモールとマルタは父王に詰め寄られる。結界と祝福が弱まっていると。しかしそれは当然だった。本当に神から愛されているのは、大聖女のマルタでも大聖者のティモールでもなく、平凡な妹リリィなのだから。
小説家になろう様でも投稿しています。
異世界に転移したら、孤児院でごはん係になりました
雪月夜狐
ファンタジー
ある日突然、異世界に転移してしまったユウ。
気がつけば、そこは辺境にある小さな孤児院だった。
剣も魔法も使えないユウにできるのは、
子供たちのごはんを作り、洗濯をして、寝かしつけをすることだけ。
……のはずが、なぜか料理や家事といった
日常のことだけが、やたらとうまくいく。
無口な男の子、甘えん坊の女の子、元気いっぱいな年長組。
個性豊かな子供たちに囲まれて、
ユウは孤児院の「ごはん係」として、毎日を過ごしていく。
やがて、かつてこの孤児院で育った冒険者や商人たちも顔を出し、
孤児院は少しずつ、人が集まる場所になっていく。
戦わない、争わない。
ただ、ごはんを作って、今日をちゃんと暮らすだけ。
ほんわか天然な世話係と子供たちの日常を描く、
やさしい異世界孤児院ファンタジー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる