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2話「名前を呼ばれるということ」
しおりを挟む起きている、という感覚が、まだ曖昧だ。
目は開いている。
たぶん。
でも、世界はいつも、少しだけ遠い。
音は聞こえるのに、意味になる前に溶けていく。
光は見えるのに、形になる前に滲む。
(……あれ)
何か、考えていた気がする。
大事なことだったような。
ちゃんと、つなげておかないといけないことだったような。
そう思った瞬間、
頭の中に、ふわっと白い綿が広がった。
(……え)
さっきまで、確かにあった。
でも、それがどこに行ったのか、分からない。
(……あれ……?)
探そうとして、
探す、という行為そのものが、よく分からなくなる。
その代わりに、
胸の奥が、もぞっとした。
理由は分からない。
でも、なんだか、落ち着かない。
「んー……」
声を出そうとしたつもりは、なかった。
なのに、口が勝手に動いて、
よく分からない音が漏れる。
「あら、起きたの?」
すぐに、上から声が降ってきた。
母親だ。
(……あ)
そうだ。
私は、赤ちゃんだった。
思い出した瞬間、
少しだけ安心して、
そして同時に、少しだけ、がっかりする。
(……そっか)
そっか、じゃない。
赤ちゃんなんだから、
考えが途切れるのも、
言葉が出ないのも、
当たり前なのに。
分かっているはずなのに、
その事実が、胸の奥で、ちくっと刺さる。
前世では、
考えが途切れることなんて、なかった。
眠くても、
辛くても、
頭だけは、無理やり動かしていた。
動かさないと“役に立たない人”になる気がして。
(……やめて)
その記憶に、引きずられそうになった瞬間、
身体が、勝手に重くなった。
まぶたが、ずしっと落ちる。
(……っ……、まだ……!)
まだ起きていたかった。
せっかく、起きていられる時間なのに。
せっかく、世界が見えているのに。
そう思った、はずなのに。
次の瞬間、
視界が暗くなり、
思考が、ぷつりと切れた。
***
「……よく寝るわね」
その声で、また、少しだけ意識が浮上する。
でも、完全には戻れない。
眠りと目覚めの間で、
ぷかぷか浮いている感じ。
「このくらいの子は、こんなものだ」
低い声。
父親だ。
(……だれ)
分かっているのに、
名前が、すぐに出てこない。
顔は、ぼんやりと覚えている。
大きくて、
近づくと、影になる人。
外の匂いを、連れてくる人。
(……ああ)
父親。
そこまで思い出したところで、
また、意識が、すーっと遠のきそうになる。
(……まって)
待って、という言葉が、
頭の中に浮かんだ瞬間、
身体が、じた、と動いた。
動いた、つもりだった。
実際には、
指が、少し、空を掴んだだけだったらしい。
「お?」
父親の声が、少し上ずる。
「今、動いたな」
(……うごいた)
うごいた、という感覚だけは、ある。
でも、
思ったほど、うまくはいかない。
もう一度、
今度こそ、ちゃんと。
そう思って、
腕に力を入れようとして。
(……?)
どこに、力を入れるんだっけ。
腕、という概念は、分かる。
でも、腕を“動かす”という感覚が、
頭と、身体で、噛み合わない。
結果、
なぜか、足の方が、ぴくっと動いた。
「……はは」
父親が、笑った。
「手じゃなくて、足だぞ」
(……しってる)
知ってる。
知ってるのに。
どうして、こう、
思った通りにならないんだろう。
悔しくて、
もう一度、何かしようとして。
次の瞬間、
その「悔しい」という感情が、
そのまま、涙になった。
ぽろ、と。
自分でも、驚く。
(……え)
泣くつもり、なかった。
ただ、
うまくできなくて、
もどかしくて、
それだけだったのに。
「ほら、泣くな」
父親の手が、慌てて私を包む。
抱き上げられて、
身体が、ふわっと浮いた。
その瞬間、
胸の奥のもやもやが、少しだけ溶ける。
(……ずるい)
抱っこは、ずるい。
こんなの、
落ち着かないわけがない。
父親の胸は、硬くて、
少し、土と鉄の匂いがして。
外で、働いてきた匂い。
(……いきてる)
そんな、当たり前のことを、
ぼんやりと思う。
前世では、
人の胸の音を、
こんな近くで聞くことなんて、なかった。
触れたら、
何かを求められる気がして。
(……いまは)
今は、何も求められない。
ただ、
ここにいるだけでいい。
その事実が、
また、眠気を連れてくる。
***
ある日、
母親と父親が、私を囲んで話をしていた。
声の調子が、いつもと少し違う。
(……なんだろ)
聞こうとして、
耳に意識を向けたところで、
ふあ、と、あくびが出た。
(……だめ)
だめだ。
今は、聞かないと。
そう思って、
必死に、目を開ける。
……開けている、はず。
視界は、揺れている。
「この子の、名前なんだけど」
母親の声。
(……なまえ)
その単語に、
一瞬だけ、頭が冴えた。
名前。
前世では、
名前を呼ばれるたびに、
背筋が、少しだけこわばっていた。
呼ばれる=期待される。
期待される=応えなければならない。
(……いやだ)
派手な名前は、嫌だ。
目立つのは、嫌だ。
そう思ったところで、
その“嫌だ”という感情が急にどうでもよくなる。
(……ねむ)
眠気が、
全部を押し流してくる。
「……どう思う?」
父親の声が、
遠くで、響く。
母親が、少し考えてから言った。
「……リィナ、は?」
その音が、不思議と耳に残った。
柔らかくて、
息を吐くみたいな名前。
「リィナ」
母親が、もう一度呼ぶ。
その瞬間、
何かに引っ張られるように、
私はその声の方を見た。
意識して見たわけじゃない。
ただ、音のする方に視線が
吸い寄せられただけ。
「あ……」
母親が、声を上げる。
「今、見たわよね」
「偶然だろ」
父親はそう言ったけれど、
母親は、嬉しそうだった。
「ねえ、リィナ」
その呼びかけに、
胸の奥が、きゅっとする。
(……わたし)
私、なんだ。
この音が。
そう思ったところで、
また、意識がふわっと揺れる。
(……つかれる)
名前をもらう、というだけで、
こんなに、疲れるとは思わなかった。
***
台所からいつもと違う匂いがしていた。
甘いような、香ばしいような。
(……なに)
気になって首を動かそうとして。
動かない。
(……あ)
そうだった。
首は、まだ、自由じゃない。
もどかしくて、
手を伸ばしたつもりが、
また、空を掴む。
「ほらほら、危ないわよ」
母親が、私を抱き直す。
鍋の中で、
何かが、ぐつぐつと音を立てている。
「今日は、市場に出てた豆が安くてね」
母親の声。
「助かるな……」
父親が、ほっとしたように言う。
(……たべもの)
そう認識した瞬間、
お腹が、きゅっと鳴った。
理由は、分からない。
でも、身体が欲しがっている。
前世の記憶が、
ふと、顔を出す。
(……だし)
出汁。
でも、その言葉が、
意味になる前に、
思考が、また、ほどける。
(……むり)
今は、無理だ。
考えるのは、
もっと、あと。
***
夜。
父親が疲れた顔で帰ってきた。
服の端に、
乾いた土と、金属の匂い。
「……市場、荒れてた」
その言葉の意味は、
完全には、分からない。
でも、
母親の表情が、少し曇る。
「怪我は?」
「大丈夫だ」
短いやり取り。
(……いやなこと)
それだけは、分かる。
父親が、私を見て言った。
「……守らないとな」
その声は、低くて、
でも、はっきりしていた。
(……まもる)
その言葉が、
胸の奥に、沈む。
前世では、
守られることなんて、なかった。
守られる価値が、
自分にはないと思っていた。
(……いまは)
今は、
守られている。
理由も、条件も、なく。
その安心感が、
一気に、眠気に変わる。
(……ねる)
抗う気力も、
もう、残っていない。
私は、父親の胸に顔をうずめて、
規則正しい音を聞きながら、
ゆっくりと、意識を手放した。
考えごとは、
また、途中で、終わったけれど。
それでも、いい。
今は、
それで、いい。
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