できない子に転生しましたが、家族と食卓があれば十分です ―人間不信だった私が、ゆっくり育つ異世界生活―

愛朱ひいろ

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3話「外は広くて、知らない匂いがする」

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今日は、いつもと違う。

そのことだけは、
ぼんやりした頭でもはっきり分かった。

空気が、違う。

家の中の空気は、
木と土と、人の匂いが混ざっていて、
どこか、丸い。

でも今、鼻に届く匂いは、
もっと雑多で、ざらざらしている。

(……そと)

そう思った瞬間、
胸の奥が、少しだけきゅっと縮んだ。

私は父親の腕の中にいた。

いつもより、しっかりと抱かれている。
片腕で支えられて、
もう一方の腕で、身体を囲われて。

(……ぎゅ)

安心する。

上下に、ゆらゆら揺れる。
一定のリズム。

(……あるいてる)

たぶん。

風が、少しだけ、冷たい。
思ったより、外は明るい。

視界が、白く滲んで、
形がうまく追えない。

その代わり、
音は、はっきりしていた。

人の声。
金属が触れ合う音。
何かを引きずる音。

(……うるさい)

前世の記憶が、
一瞬だけ、顔を出す。

駅前。
昼休み。
人の波。

(……にてる)

似ている、と思った途端、
理由の分からない不安が、胸に広がった。

「……ふぇ……」

自分でも驚くほど、
小さな声。

でも、父親はすぐに気づいた。

「どうした?」

歩く速度が、少し落ちる。

「眠いか?」

(……ちがう)

違う。

でも、説明できない。

説明しようとして、
言葉を探して。

その途中で、
まぶたが、重くなる。

(……だめ)

考えようとした途端に、
思考が、眠気に溶ける。

必死に、
父親の服を掴もうとして。

手は、また空を掴んだ。

代わりに、
指が、布に引っかかる。

「……お」

父親の声が、少し柔らかくなる。

「大丈夫だ」

その一言で、
胸の奥のざわざわが、少し引いた。

(……だいじょうぶ)

意味は、分からない。

でも、
この人がそう言うなら、
きっと、そうなんだ。

***

人が、多い。

視線、というものが、
肌に触れる感じ。

「赤ちゃん?」

「かわいいねえ」

知らない声。
知らない顔。

近い。

反射的に、
父親の方に、顔を押し付けた。

ぎゅっと。

「おっと」

父親が、体勢を変える。

「触らないでくれ」

穏やかだけど、
はっきりした声。

(……あ)

守って、くれてる。

その事実が、
胸に、じんわり広がる。

父親の腕の中は、
ちゃんと、安全だった。

***

しばらくすると、
匂いが、変わった。

甘い。
香ばしい。
油の匂い。

(……たべもの)

それだけで、
お腹が、きゅっと鳴る。

身体は、正直だ。

父親が、立ち止まった。

鍋の中で、
何かが、ぐつぐつしている。

(……あ)

前世の記憶が、
ふっと、浮かぶ。

こうすると、
美味しくなる、という感覚。

でも、
具体的な何かは、思い出せない。

(……なに)

確かめたくて、
手を伸ばした。

つもりだった。

実際には、
指が、ふらふらと、空を切る。

それでも、
諦めきれなくて、
もう一度。

(……とどけ)

届かない。

当たり前だ。

私は、赤ちゃんで、
抱っこされていて、
鍋は、遠い。

結果、
掴んでいたのは、
父親の服の紐だった。

「……?」

父親が、視線を落とす。

「それ、気になるか?」

(……ちがう)

違う。

そこじゃない。

悔しくて、
胸の奥が、きゅっとなる。

「はは」

父親が笑った。

「食いしん坊だな」

(……たべれない)

まだ、食べられない。

分かってる。

でも、
何か、したかった。

父親が、
私の頭を、そっと撫でる。

「もう少し、大きくなったらな」

(……おおきく)

大きくなったら。

今は、できない。

でも、
いつかは、できる。

その未来が、
ちゃんと用意されている感じがして。

悔しさが、
少しだけ、希望に変わった。

***

帰り道。

父親の歩くリズムが、
だんだん、心地よくなる。

外の音も、
もう気にならない。

(……つかれた)

頑張った。

知らない匂いを嗅いで、
知らない人を見て、
知らない感情を、たくさん感じた。

それだけで、
今日は、十分だ。

まぶたが、
ゆっくり、落ちていく。

最後に、
父親の胸の音を、確認して。

(……ここ)

ここが、
今の、私の世界。

その世界が、
ちゃんと、私を包んでいることを、
確かめながら。

私は、
また、眠りに落ちた。
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