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4話「できないけど、見ている」
しおりを挟む二歳になった。
正確には“二歳くらい”らしい。
この世界では、
誕生日を厳密に祝う習慣はないみたいで、
母親が「もうそのくらいね」と言った日から、
私は、二歳ということになっている。
(……あいまいだなあ)
そう思っても、
今の私はそれを指摘できるほど、
流暢には喋れない。
喋れないけど、
歩くことは、できるようになった。
私は歩ける。
それはもう間違いない。
家の中なら、
壁に手をつかなくても、
だいたい、目的地まで行ける。
……行ける、はずだ。
「りぃ、いく!」
そう宣言して、私は台所へ向かった。
母親は鍋の前。
父親は木の椅子に腰かけて、
何かを直している。
二人ともいる。
それだけで、なぜかやる気が出た。
一歩。
二歩。
(三歩……)
足がもつれる。
「――あ」
気づいた時には、前に倒れていた。
どて。
(……いた)
痛い、というよりもびっくりした。
「ほらほら」
母親がこちらを見る。
でも、すぐには来ない。
父親も立ち上がらない。
二人とも、私を見ている。
(……みてる)
最近、この時間が増えた。
すぐに助けられない。
でも、放ってもいない。
“自分でやってみなさい”という、
静かな時間。
(……たつ)
立ちたい。
台所に行きたい。
理由は、自分でもよく分からない。
ただ、二人のいる場所に自分も行きたい。
床に手をつく。
ぷに、と沈む。
(……やわらか)
自分の手なのに、頼りない。
頭では、手をついて、膝を立てて、
ちゃんと分かっている。
でも、力を入れると違うところが動く。
腕に力を入れたつもりが、
なぜか、お尻が浮いた。
結果。
また、どて。
今度は、少し泣きそうになった。
悔しい。
「ほら」
父親が立ち上がって、手を差し出す。
「一回、ここまで来い」
(……いっかい)
一回。
その言葉で、気持ちが少し軽くなる。
その手を掴んで、引っ張られて、
よろよろと立つ。
「できたね」
母親が笑う。
(……できた)
一人じゃないけど。
でも“できなかった”じゃない。
その違いは、今の私には十分だった。
***
台所は、まだ少し高い世界だ。
調理台の上は、ほとんど見えない。
でも、匂いは分かる。
今日は、いつもより香ばしい。
母親が、鍋をかき混ぜている。
父親は、その横で小さな袋を開けていた。
「これ、少し残ってた」
「助かるわ」
袋の中身は、茶色くて、細かい。
(……あ)
前世の記憶がぴくっと反応する。
名前は出てこない。
でも、知っている感じ。
父親が、鍋に入れる前に少しだけ匂いを嗅いだ。
「……うん、まだいける」
母親も、指先でつまんで同じように香りを確かめる。
(……そう)
そうやってから、使う。
その動作が、なぜか胸に残った。
私は、それをじっと見ていた。
(……やりたい)
同じことをしてみたい。
でも、背が足りない。
手も届かない。
「りぃ、だめよ」
母親が私の手を止める。
いつの間にか調理台に伸ばしていたらしい。
(……とどかない)
悔しい。
でも、それ以上に“知りたい”という気持ちが残った。
匂い。
色。
混ぜる動き。
全部、頭の中にゆっくりしまっていく。
今は、見ることしかできない。
でも、見る時間はある。
***
夕方。
食卓に湯気の立つ皿が並んだ。
私は、まだ大人と同じものは食べられない。
それでも、母親が小さな器に少しだけ取り分けてくれる。
「熱いから、ふーってしてね」
(……ふー)
口をすぼめて、息を吐く。
……うまくいかない。
思ったより、変な方向に息が出る。
「はは」
父親が笑う。
「今のは、ただの顔だな」
(……ちがう)
ちゃんとやろうとしてる。
でも、その悔しさより先に、
匂いが鼻に届いた。
(……おいしそう)
口に入れると、じんわり温かい。
いつもと少しだけ違う。
(……なに)
理由は、説明できない。
でも“さっきの茶色いの”だと、なんとなく分かる。
(……あれ)
あれを入れるとこうなる。
そのつながりが、幼い頭の中で、
ゆっくり結ばれていく。
私は、無意識に頷いていた。
「美味しい?」
母親が聞く。
私は言葉の代わりに、もう一口食べた。
それで十分だった。
***
夜。
布団の中で、今日のことをうまくまとめようとして。
途中で眠気に負けた。
(……まだ)
まだ、できないことだらけ。
歩くのも、
立つのも、
匂いを嗅ぐのも、
全部、うまくいかない。
でも。
見ている。
覚えている。
(……いつか)
いつか、自分の手で。
その“いつか”が、
ちゃんと続いている世界にいる。
それだけで、今日は十分だった。
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