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[クリス]
ピナーグレン §1
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王都を出て十日目。
グレコルを出発した。いよいよ復路だ。
初日はゆっくり移動し、夕方、宿場町ピナーグレンに入った。町で最も有名な宿が最初の滞在先だ。
ところが、俺は宿の受付で嘆いていた。
「なぜだ。ずっと順調だったのに……」
俺はどこで何をしくじったのだろうか――
朝、俺が買ったドレスに身を包んだリア様は、女神のごとく微笑んでいた。
大急ぎで用意した既製品ではあったが上出来だ。幸福感を味わいながら彼女の手を取り、ダイニングへ案内した。
ふと服を買った時のことを思い出す。採寸をした店員が「理想的な体型」だと絶賛していた。
確かに彼女の細い腰は見ているだけで抱き寄せたくなる……がっ! 朝っぱらからムラムラしている場合ではない。爽やかな朝に相応しい精神状態を保つため、俺は騎士の心得十か条を唱えて邪念を払った。
相変わらず使用人たちが失敗を繰り返していたものの、リア様は気づいている様子がない。高い皿を割ったメイドと楽しそうにホワホワ笑って話している。
「お前の釣ろうとしている魚は大変な大物だな。釣れそうなのか?」と、父が小声で言った。
「餌がわからないので、まだ自慢の竿を披露できていません」と答えた。朝っぱらから下品すぎる俺である。しかし、そんなバカ息子の一言で激ウケしている父も父だ。
リア様が持っていた花柄の大きな巾着袋のおかげで、出発の準備はすこぶる順調だった。
その正体は、古代魔法【亜空間収納】である。彼女が復活させた古代魔法は、転送だけではなかったのだ。
【亜空間収納】は二つの空間をつなぐ特殊な魔法で、発動には触媒が要る。彼女が言うには、「ただの出入り口なので、中に空間さえあればなんでもいい」とのことだ。
タヴァルコ市長夫人の前では紙の箱を使い、グレコル土産を入れて持ち運ぶのには花柄の袋を使った。すでに備蓄倉庫として使っていた亜空間倉庫に、街で手に入れた箱や袋を使って接続し、物を出し入れしていたのだ。
亜空間とは、同じ世界の中に存在していながら、あらゆる物理の法則が通用しない場所だ。仮に発見できたとしても、そこには時間の概念がないため、人が暮らすことはできない。
古代人はあえてそこに着目していた。入れた物をそのままの状態で永遠に保存できるのが最大の利点だ。
滅亡した古代王国が、亜空間に財宝を隠していた……などということも、あり得る話だ。
無欲な彼女は、宝物ではなく「食べ物」を保管していた。それも避難訓練のためだと言う。今回のことを教訓に、帰ったらお金も少し入れておくそうだ。
「袋なら畳んで持ち歩けることに気がつきまして。ほら、こんなふうに」
彼女は花柄のデカい巾着袋を開いて俺のほうへ向けた。
古代魔法の復活を喜ばしく思っていた俺は、興味津々でのぞき込んだのだが……
――き、気持ち悪りぃ。なんだこれは?
直径四十センチほどの袋の入り口で、黒い何かがグログロと渦を巻いている。伝説の古代魔法であることは間違いないのだろうが、「魔界への入り口だ」と言われても信じてしまいそうなほど不気味だった。これもかわいい彼女には似合わない魔法だ。
俺が返答に困っていると、「これは大昔に冒険者と名乗っていた人々が使っていた魔法では?」と、父が尋ねている。うまい返事だ。だてにトシを食っていない。
「まあ、そうなのですか? わたしも冒険者になれるでしょうか。うふふ」
「はははっ、公務が魔物退治になってしまいますな」
父が上手くやってくれたおかげで和やかな雰囲気だった。俺もこういう気の利いたことが言えるオッサンを目指したい。
しかし、よくアレンがあのような魔法を許したものだ。
彼は聖女限定のひどい潔癖症だ。彼女がグログロに手を突っ込む様子を見たら冷静ではいられないだろう。最初に自ら安全確認をし、そのうえで彼女に使わせたのかもしれない。
まるでクジラの口のように、花柄袋はなんでも飲み込んでいった。
「出し入れの時、ちょっとだけキモチワルイ感触がしますの。もう少し改良が必要ですわ」
彼女は細く白い手を躊躇なく黒の渦に突っ込み、前日に追加購入した土産物を次々と収納していく。俺が大量に買った服などもすべて収まったと、ばあやが興奮気味に言った。
荷馬車にリア様の荷物を積む必要がなくなり、宿泊のたびに積み降ろしをする手間も省ける。見た目の不気味さを除けば素晴らしい魔法だった。
彼女を馬車に乗せ、王都へ向けて出発した。
俺は馬車の扉側に護衛としてつき、父が選抜したクランツ領の若手騎士が六名、王都まで同行する。実力では聖騎士団の足元にも及ばないが、馬車を護ることぐらいはできるはずだ。
彼らには傭兵の格好をさせ、俺も山越え用の旅服を着た。リア様は平民服におさげ髪という可憐な町娘の出で立ちだ。尻に敷くために買ったピンクのクッションを抱っこし、聖女のオーラをかき消している。
彼女は騎士団員にも気さくに話しかけてくれた。
団員は皆、彼女の露店に連日並んでいた客だ。激うまサンドウィッチ屋の店主が聖女だったのだ。彼らの士気がウザいくらいに上がったことは言うまでもない。
道中の宿を確保するため、前日に騎士団の先発隊も出してあった。
準備の段階で、何か落ち度があったとは思えない。すべて順調だった。ところが、最初の宿泊先で冒頭の嘆きに至った。
問題は三つある。
まず、リア様が俺の「婚約者」ということになっていたこと。次に、部屋が二名一室で予約されていたこと。そして、宿泊客がいっぱいで部屋を変更できないことだ。
先発隊の勘違いか、それとも宿の手違いか、原因すらも釈然としない。
クソッタレな騎士団員が「若殿、好機です。がんばってください!」とぬかしやがった。
大ばか野郎がッ! そこらへんの町娘をナンパして宿に連れ込んでいるわけではないのだぞ!
グレコルを出発した。いよいよ復路だ。
初日はゆっくり移動し、夕方、宿場町ピナーグレンに入った。町で最も有名な宿が最初の滞在先だ。
ところが、俺は宿の受付で嘆いていた。
「なぜだ。ずっと順調だったのに……」
俺はどこで何をしくじったのだろうか――
朝、俺が買ったドレスに身を包んだリア様は、女神のごとく微笑んでいた。
大急ぎで用意した既製品ではあったが上出来だ。幸福感を味わいながら彼女の手を取り、ダイニングへ案内した。
ふと服を買った時のことを思い出す。採寸をした店員が「理想的な体型」だと絶賛していた。
確かに彼女の細い腰は見ているだけで抱き寄せたくなる……がっ! 朝っぱらからムラムラしている場合ではない。爽やかな朝に相応しい精神状態を保つため、俺は騎士の心得十か条を唱えて邪念を払った。
相変わらず使用人たちが失敗を繰り返していたものの、リア様は気づいている様子がない。高い皿を割ったメイドと楽しそうにホワホワ笑って話している。
「お前の釣ろうとしている魚は大変な大物だな。釣れそうなのか?」と、父が小声で言った。
「餌がわからないので、まだ自慢の竿を披露できていません」と答えた。朝っぱらから下品すぎる俺である。しかし、そんなバカ息子の一言で激ウケしている父も父だ。
リア様が持っていた花柄の大きな巾着袋のおかげで、出発の準備はすこぶる順調だった。
その正体は、古代魔法【亜空間収納】である。彼女が復活させた古代魔法は、転送だけではなかったのだ。
【亜空間収納】は二つの空間をつなぐ特殊な魔法で、発動には触媒が要る。彼女が言うには、「ただの出入り口なので、中に空間さえあればなんでもいい」とのことだ。
タヴァルコ市長夫人の前では紙の箱を使い、グレコル土産を入れて持ち運ぶのには花柄の袋を使った。すでに備蓄倉庫として使っていた亜空間倉庫に、街で手に入れた箱や袋を使って接続し、物を出し入れしていたのだ。
亜空間とは、同じ世界の中に存在していながら、あらゆる物理の法則が通用しない場所だ。仮に発見できたとしても、そこには時間の概念がないため、人が暮らすことはできない。
古代人はあえてそこに着目していた。入れた物をそのままの状態で永遠に保存できるのが最大の利点だ。
滅亡した古代王国が、亜空間に財宝を隠していた……などということも、あり得る話だ。
無欲な彼女は、宝物ではなく「食べ物」を保管していた。それも避難訓練のためだと言う。今回のことを教訓に、帰ったらお金も少し入れておくそうだ。
「袋なら畳んで持ち歩けることに気がつきまして。ほら、こんなふうに」
彼女は花柄のデカい巾着袋を開いて俺のほうへ向けた。
古代魔法の復活を喜ばしく思っていた俺は、興味津々でのぞき込んだのだが……
――き、気持ち悪りぃ。なんだこれは?
直径四十センチほどの袋の入り口で、黒い何かがグログロと渦を巻いている。伝説の古代魔法であることは間違いないのだろうが、「魔界への入り口だ」と言われても信じてしまいそうなほど不気味だった。これもかわいい彼女には似合わない魔法だ。
俺が返答に困っていると、「これは大昔に冒険者と名乗っていた人々が使っていた魔法では?」と、父が尋ねている。うまい返事だ。だてにトシを食っていない。
「まあ、そうなのですか? わたしも冒険者になれるでしょうか。うふふ」
「はははっ、公務が魔物退治になってしまいますな」
父が上手くやってくれたおかげで和やかな雰囲気だった。俺もこういう気の利いたことが言えるオッサンを目指したい。
しかし、よくアレンがあのような魔法を許したものだ。
彼は聖女限定のひどい潔癖症だ。彼女がグログロに手を突っ込む様子を見たら冷静ではいられないだろう。最初に自ら安全確認をし、そのうえで彼女に使わせたのかもしれない。
まるでクジラの口のように、花柄袋はなんでも飲み込んでいった。
「出し入れの時、ちょっとだけキモチワルイ感触がしますの。もう少し改良が必要ですわ」
彼女は細く白い手を躊躇なく黒の渦に突っ込み、前日に追加購入した土産物を次々と収納していく。俺が大量に買った服などもすべて収まったと、ばあやが興奮気味に言った。
荷馬車にリア様の荷物を積む必要がなくなり、宿泊のたびに積み降ろしをする手間も省ける。見た目の不気味さを除けば素晴らしい魔法だった。
彼女を馬車に乗せ、王都へ向けて出発した。
俺は馬車の扉側に護衛としてつき、父が選抜したクランツ領の若手騎士が六名、王都まで同行する。実力では聖騎士団の足元にも及ばないが、馬車を護ることぐらいはできるはずだ。
彼らには傭兵の格好をさせ、俺も山越え用の旅服を着た。リア様は平民服におさげ髪という可憐な町娘の出で立ちだ。尻に敷くために買ったピンクのクッションを抱っこし、聖女のオーラをかき消している。
彼女は騎士団員にも気さくに話しかけてくれた。
団員は皆、彼女の露店に連日並んでいた客だ。激うまサンドウィッチ屋の店主が聖女だったのだ。彼らの士気がウザいくらいに上がったことは言うまでもない。
道中の宿を確保するため、前日に騎士団の先発隊も出してあった。
準備の段階で、何か落ち度があったとは思えない。すべて順調だった。ところが、最初の宿泊先で冒頭の嘆きに至った。
問題は三つある。
まず、リア様が俺の「婚約者」ということになっていたこと。次に、部屋が二名一室で予約されていたこと。そして、宿泊客がいっぱいで部屋を変更できないことだ。
先発隊の勘違いか、それとも宿の手違いか、原因すらも釈然としない。
クソッタレな騎士団員が「若殿、好機です。がんばってください!」とぬかしやがった。
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