昨今の聖女は魔法なんか使わないと言うけれど

睦月はむ

文字の大きさ
360 / 392
[クリス]

ピナーグレン §2

しおりを挟む
 ぱたん……と、部屋の扉が軽い音を立てて閉まった。
 リア様の花の香りが、ふわり、ふわりと漂い、俺の鼻をくすぐる。まるで高貴な白バラと、摘んだばかりのジャスミンを合わせたような、優雅な甘さと清廉さが部屋の空気を一変させた。キョロキョロと部屋を見回す彼女の胸の下で、おさげ髪の先っぽが揺れている。
 聖女になって以来、彼女は薄着になった。護符で気温を調整しているとはいえ、神力のせいで暑いらしい。以前よりも襟元が広く開いたドレスを着ていることが増えた。きめ細やかで、触れたら手に吸いつきそうな白い肌が、窓から差し込む夕陽を受けて真珠のように……って、おおおい! 俺は何を考えている!
 ――ふ、ふたりきり、だと?
 俺は猛烈に動揺していた。心臓が喉元で激しく脈打ち、手のひらにはじんわりと汗がにじんだ。
 食事で外に出ている間はいい。しかし、問題はその後だ。いくらなんでも朝まで二人きりはマズイだろう。
 この状況に喜んだ俺の下半身が、理性から外れて単独行動をしようとソワソワしている。
 ばーかーやろおぉ。勝手な行動は許さんぞ! ちょん切られたくなければ言うことを聞きやがれ!

「あっ!」と、リア様が声を上げた。
「ハいっ?!」
 くそ……声が裏返った。
「わたし、このソファなら余裕で寝られます。大丈夫ですわ、くまんつ様」と、にこやかな表情で彼女は言った。
 ――違う。俺が大丈夫じゃないんだ……泣。
 彼女がソファなんぞに寝ていたら、俺は何をするかわからない。しかし、彼女にだけは嫌われたくない。
「俺がソファで寝ますから、心配は要りません」と、必死で冷静を装った。
 紳士でいなくてはならない。絶対にボロを出してはいけない。彼女にだけは、絶対に、絶対に、粗相をしてはならない。
「でも、サイズの問題と言いますか。ベッドはくまんつ様サイ……ずぁッ!」
「えっ!?」
 話しながらトコトコ歩いていた彼女が、何も障害物がない場所でつまずいた(なぜだ!?)
「コケた」という表現がピッタリだった。バンザイのポーズでスコーン!と勢いよく飛んでいこうとしている。
 まずい! 聖女にケガをさせたら終わる!!
 かつてパトラという名の王国が、聖女を傷つけたことが原因で滅亡しているのだ。
 俺は瞬時に飛び出した。次の瞬間、ドーンという衝撃音とともに鈍い痛みが背中に走る。床に落ちたものの受け身は取れており、たいしたことはなかった。
「大丈夫か!」と、彼女の様子を確認した。
「は、はい。すみませんっ」
 彼女は見るからに動揺していた。
 改めて「痛いところは?」と尋ねたが、彼女は大丈夫だと答えた。俺がクッション代わりになり、なんともなかったようだ。
「あの……わたしは何につまずいたのでしょうか?」と、彼女は目をぱちくりさせている。
 むしろ俺がそれを聞きたかったのだが、本人もなぜ転んだのか心当たりがないようだ。
 はぁ~~~……それにしても、肝が冷える。
 アレンの奴は側仕えとして毎日これをやっているのだ。さぞかし大変だろう。
 ヴィルは「ちょっとの段差なのに、アレンはすぐに抱いて運ぶんだ」などと文句を言っていたが、何もないところでコケる彼女を見たら、すべての行程を抱いて運びたい心境にもなる。むしろ「一人で歩かせて、アレンはえらいな」と褒めてやったほうがいい。

 ふと見ると、リア様が真っ赤になっていた。
 どうしたのだろう? ……って、俺のせいだ!
 俺が下敷きになる形で彼女を抱き留めており、密着状態のまま床に転がっていた。
「も、申し訳ないッ!」
「とんでもないです。わたしがボーっとしていたせいで……っ」
 慌てて手を離したが、すぐに後悔した。
 もっと神経を研ぎ澄ませ、彼女の感触を手に焼きつけておけば良かった。かあー、もったいねぇー! しかし、腹に当たっていた柔らかな感触は、もしや……と、つい口元が緩む。
 彼女の顔が赤い。耳も赤いし、うなじもピンクだ。
 そんな風にしていると「嫌ではないのかも」とか「ちょっと押せばイイ関係になれてしまうのでは」と、男は都合良く解釈してしまう。特に俺は。
 いいのだろうか。これは、攻め込んでもヨシという合図なのだろうか。このまま後ろから抱き締め、唇を奪い、あんなことやこんなことを……って、できるかボケぇ~~!
 ヤバいヤバいヤバい、落ち着け俺! 彼女を見てはダメだ!
 婚約者のヴィルすら我慢をしている状況だ。俺にそんなことをする資格があるはずもない。ここで聖女を手籠めにでもしたら、兄弟でやらかしてクランツ家はお終いだ。
 没落を通り越して滅亡だーー! 滅亡だー! めつぼーだー!(ええい、山びこだクソッタレ!)
「はあぁ~。死ぬ……」
 俺は両手で顔を覆った。かつて、これほどまで己の欲に危機感を抱いたことがあっただろうか。

 偉そうなことを言ってはいけないのだが、食べてもよいものしか目の前にない生活をしてきた。
 大きな声では言えないが、リア様と出会う前の俺はあまり品行方正ではなかった。
 社交の場に出れば、必ず金と権力目当ての者がわんさと近寄ってくる。紳士のたしなみとして、淑女に恥をかかせてはいけないし、言い寄ってくる女性たちを無下に断ることができず、こちらの都合で利用させてもらうこともあった。
 恋というものは小説の中にあるもので、俺とは関係のないものだった。誰かに恋をして求婚をするなど想像したこともなく、いつか王家が戦略的な婚姻でも提案してきたなら、それを受け入れればいいかぁ程度の感覚だ。
 彼女にまつわるすべてが、俺の想定外だった。
 このまま一晩、自分から彼女を護りきれる自信がない。
 彼女の部屋の外に交代で護衛を立たせることにしたが、むしろ俺がその役目を担ったほうがいいだろう。俺から彼女を護る方法は、もはやそれしかない。明日の昼間、荷馬車で少し仮眠を取ろう。それが崖っぷちクランツ家にとっては最善の策だ。
 アレンがおかしなメガネをかけ続けている理由は、おそらくこれだ。あの魔道具のメガネは、自分自身から彼女を護るために違いない。
 常々、あいつにだけは負けられねぇと思っているが……ごめん、今日だけは俺の負けでいいから、メガネを貸してくれ!

 心の中で弱音を吐きまくっていると、急に外が騒がしくなった。扉の向こうから聞き覚えのある底抜けに陽気な声が響いている。
「いやー、羊くんかわいかったなぁー」
「マジうまそかったなー」
「うまそう言うなし」
「やっぱ今宵は羊けぇ?」
「名物はすべて食うしかなくねぇ? 昨日のキノコ鍋も美味かったしさぁ」
「食い倒れぢゃああ!」
「イエェェェア!」
「フッフゥーー!」
 ――あいつらだ……!
 スウィーツ愛好会の女学生四人組が同じ宿にいた。リア様も声で気づいたようだ。彼女はピコンと飛び上がり、扉へ向かって走って行く。
 平民服を着た彼女は普段よりも機敏だ。その動きはほとんど「うさぎさん」である。
 カチャリと音を立てて扉が開いた。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)

かのん
恋愛
 気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。  わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・  これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。 あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ! 本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。 完結しておりますので、安心してお読みください。

存在感のない聖女が姿を消した後 [完]

風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは 永く仕えた国を捨てた。 何故って? それは新たに現れた聖女が ヒロインだったから。 ディアターナは いつの日からか新聖女と比べられ 人々の心が離れていった事を悟った。 もう私の役目は終わったわ… 神託を受けたディアターナは 手紙を残して消えた。 残された国は天災に見舞われ てしまった。 しかし聖女は戻る事はなかった。 ディアターナは西帝国にて 初代聖女のコリーアンナに出会い 運命を切り開いて 自分自身の幸せをみつけるのだった。

異世界に行った、そのあとで。

神宮寺あおい@1/23先視の王女の謀発売
恋愛
新海なつめ三十五歳。 ある日見ず知らずの女子高校生の異世界転移に巻き込まれ、気づけばトルス国へ。 当然彼らが求めているのは聖女である女子高校生だけ。 おまけのような状態で現れたなつめに対しての扱いは散々な中、宰相の協力によって職と居場所を手に入れる。 いたって普通に過ごしていたら、いつのまにか聖女である女子高校生だけでなく王太子や高位貴族の子息たちがこぞって悩み相談をしにくるように。 『私はカウンセラーでも保健室の先生でもありません!』 そう思いつつも生来のお人好しの性格からみんなの悩みごとの相談にのっているうちに、いつの間にか年下の美丈夫に好かれるようになる。 そして、気づけば異世界で求婚されるという本人大混乱の事態に!

花嫁召喚 〜異世界で始まる一妻多夫の婚活記〜

文月・F・アキオ
恋愛
婚活に行き詰まっていた桜井美琴(23)は、ある日突然異世界へ召喚される。そこは女性が複数の夫を迎える“一妻多夫制”の国。 花嫁として召喚された美琴は、生きるために結婚しなければならなかった。 堅実な兵士、まとめ上手な書記官、温和な医師、おしゃべりな商人、寡黙な狩人、心優しい吟遊詩人、几帳面な官僚――多彩な男性たちとの出会いが、美琴の未来を大きく動かしていく。 帰れない現実と新たな絆の狭間で、彼女が選ぶ道とは? 異世界婚活ファンタジー、開幕。

聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい

金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。 私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。 勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。 なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。 ※小説家になろうさんにも投稿しています。

【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです

白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。 ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。 「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」 ある日、アリシアは見てしまう。 夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを! 「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」 「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」 夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。 自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。 ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。 ※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。

妹に傷物と言いふらされ、父に勘当された伯爵令嬢は男子寮の寮母となる~そしたら上位貴族のイケメンに囲まれた!?~

サイコちゃん
恋愛
伯爵令嬢ヴィオレットは魔女の剣によって下腹部に傷を受けた。すると妹ルージュが“姉は子供を産めない体になった”と嘘を言いふらす。その所為でヴィオレットは婚約者から婚約破棄され、父からは娼館行きを言い渡される。あまりの仕打ちに父と妹の秘密を暴露すると、彼女は勘当されてしまう。そしてヴィオレットは母から託された古い屋敷へ行くのだが、そこで出会った美貌の双子からここを男子寮とするように頼まれる。寮母となったヴィオレットが上位貴族の令息達と暮らしていると、ルージュが現れてこう言った。「私のために家柄の良い美青年を集めて下さいましたのね、お姉様?」しかし令息達が性悪妹を歓迎するはずがなかった――

転生先は男女比50:1の世界!?

4036(シクミロ)
恋愛
男女比50:1の世界に転生した少女。 「まさか、男女比がおかしな世界とは・・・」 デブで自己中心的な女性が多い世界で、ひとり異質な少女は・・ どうなる!?学園生活!!

処理中です...