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最終幕
VS時間旅行者③
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悲鳴が上がったのは、ホテルの玄関を入ってすぐ目の前。一階の吹き抜けになったエントランスホールからだった。プールサイドを飛び出した坂本と櫻子の二人は、着替えもせずそのまま近くのエレベーターに飛び乗った。
十二階建てのホテルの屋上から、やきもきするようなスピードでエレベーターが下降して行く。途中、「六」の表示でエレベーターが止まると、扉が開き向こうから一人の男が乗ってきた。一切日焼けの痕のない、真っ白な肌にブラウンのスーツ姿の男……田中一耕助だった。田中一は何やら難しげな顔をしていたが、赤いワンピースとアロハシャツ姿の二人を見るなり、少し驚いたように目を丸くした。
「やあ、これはこれは坂本先生。お楽しみのようで何よりです」
「田中一さん!」
「やはりさっきの悲鳴、お聞きになりましたか」
坂本が黙って頷くと、田中一は素早く扉の中に滑り込んできて「閉」のボタンをプッシュした。
「急ぎましょう。なんだか嫌な予感がする……」
坂本が頷いた。櫻子は腰に付けっぱなしのままの浮き輪をぎゅっと握りしめた。エレベーターがガタンと振動し、緩やかに動き出した。
□□□
「……きゃああああああっ!!」
一階に辿り着き、扉が開いた後も悲鳴はまだエントランスホールに木霊していた。広々としたホールに大勢の宿泊客たちが集まり、蜂の巣を突いたような騒ぎが起きている。人々は中央にある受付カウンター付近に群がり、皆一様に恐怖と驚きの表情で天井を見上げていた。三人は人混みを掻き分け、ぎゅうぎゅうになったエントランスホールの中央を見上げた。
「!」
櫻子が目を見開いた。天井にぶら下がっていたのは……だらりと四肢を地面に向けて投げ出した、男の死体だった。
六階付近まで吹き抜けになっているエントランスホールの天井には、巨大なシャトルーズイエローのシャンデリアが備え付けられている。豪華絢爛に装飾されたその照明器具の横に……このホテルの従業員だろうか……タキシードを身にまとった若い男が、まるで糸の切れた操り人形のように首を垂れぶら下がっていた。上を見上げていた櫻子の視界にポタリ、ポタリと滴り落ちる光の粒が飛び込んできた。雨ではない。それは吊り下げられた男の口から滴り落ちる、赤黒い血であった。
「一体……!?」
櫻子の横で、坂本が息を飲んだ。
数十メートルの高さの天井に貼り付けられた死体に、手が届く者などおらず、集まった人々はただただ地上で狼狽えるのみだった。その中で一人、田中一耕助だけが冷静に踵を返し、乗ってきたエレベーターに向かって走り出した。彼の乗ったエレベーターの行き先表示が「六」を指すのを、櫻子は人混みの中から見ていた。
□□□
「……おそらくシャンデリアと同じ要領で、天井裏のワイヤーからぶら下げられていますね」
「ワイヤー?」
「ええ。見てください」
六階から戻ってくると、田中一はスマホで撮影した写真を坂本たちに見せてきた。
建物の形に合わせて、円を書くように並んだ宿泊部屋。その部屋の向かいの、穴の空いた中央のホール側に身を乗り出して撮影されたものだ。赤のジャージに着替えを済ませた櫻子が画面を覗き込む。液晶画面には、腰に鉄の紐のようなものが結びつけられ、それが天井に開けられた穴にまで続いている男の死体が写っていた。
「死体の男は、このホテルの従業員の佐々岡さんという方。今日は非番のはずで、仮眠室で寝ている予定だったそうですが、それよりも問題なのは……この見通しの良い『ドーナツホール』で一体どうやって……」
田中一は険しい顔をして一階からシャンデリアの近くの死体を見上げた。
警察が到着するまでそのままにしておいた方がいいだろうということで、死体はシャンデリアの横にぶら下がったままだ。それに一階に位置する巨大なエントランスホールは、六階の高さまで円柱型に伸びていて、ホテルはちょうど『ドーナツ』のような形をしている。『ドーナツ』の輪の内の部分に面した窓ガラスから、シャンデリア近くの死体まで少なくとも十メートル以上は距離がある。手を伸ばしても、誰にも届きそうにもなかった。ホールに吹き込む緩やかな風に揺られ、死体は集まった宿泊客の遥か上空でゆっくりと回転していた。
「『バウムクーヘン』でも良くない?」
「黙ってろ。今はそれどころじゃねぇんだよ」
「この佐々岡さんを最初に発見された方、いらっしゃいますか!?」
坂本と櫻子が『ドーナツ・バウムクーヘン論争』を始めるのを尻目に、田中一はホールに集まった客たちに向き直り、大きな声を上げた。ざわざわと大きくなる喧騒の中、一人の女性が集団の中からおずおずと手を伸ばした。このホテルの制服を身にまとった、受付嬢だった。
「私……確か、十六時半ごろ、上から水滴が落ちてくるのに気づいて……それで」
「なるほど、死体発見は十六時半過ぎですか。だけどこれだけ見通しの良いホールで、死体がぶら下がっていたのに誰も気づかなかったとは思えない。カメラをチェックしてもよろしいですか? 支配人は?」
「それが……カメラは一昨日から故障してて」
「いつ死体が出現したか、分からないということか……」
受付嬢の小声に、田中一は少し落胆した顔を見せた。その隣で坂本が目眩に襲われたような表情を浮かべた。
「どうした?」
「すごい……! あんなにテキパキと指示を出して、みんなの前で大きな声で堂々と……僕には出来ない……!」
「そこ??」
櫻子が首をかしげる隣で、坂本がキラキラと目を輝かせ尊敬の眼差しで田中一を仰いだ。田中一は口元に手をやり、何か考え込むように眉をひそめた。
「参ったな。これである程度、犯行時刻は絞れるか。だけど犯人は、一体いつどうやって死体をぶら下げたのか……」
「…………」
「まさか空を飛んで、死体を縛り付けましたって訳じゃないだろうし、ね」
そう呟いて、田中一は櫻子の方をちらりと見た。櫻子は黙ったまま田中一の緋色の目を見つめ返した。その時だった。
「誰か来てくれええええ!!」
「今度は何だ!?」
エントランスホールに、どこからかくぐもった叫び声が聞こえて来た。瞬時に反応したのは田中一、それから坂本だった。ホールの右奥の、声が響いて来た『関係者以外立ち入り禁止』の札が掛けられた扉に、二人は迷いなく突っ込んで行った。櫻子も人混みを離れ慌てて後を追った。
「坂本!」
「櫻子君! こっちだ!」
坂本は扉に『仮眠室』と書かれた部屋の廊下を走っていた。赤い絨毯が敷き詰められた長い廊下をひた走り、櫻子は坂本の背中に追いつくと、前方にいた田中一に視線をやった。田中一はすでに叫び声がする扉の前に立ち、取っ手に手をかけたところだった。
「オイ坂本……」
「何!?」
「いや、何かこれって……見覚えがないか……?」
「ダメだ! 開かない!!」
田中一がガチャガチャと取っ手を乱暴に捻りながら叫んだ。扉がうんともすんとも言わないことが分かると、彼はそのまま体当たりし始めた。
「田中一さん!」
坂本と櫻子がようやく追いついた時、田中一の何度目かの体当たりで、扉はメキメキと大きな音を立てて開いた。三人はそのまま雪崩れ込むように部屋の中へと飛び込んだ。
「これは……!」
「助けてくれええ! 俺じゃない、信じてくれ! 起きたら”こう”なってたんだ……!!」
田中一が息を飲んだ。部屋に突入した田中一の足元に、従業員らしき男が泣きながら縋り付いて来た。坂本と櫻子は、部屋に入った瞬間思わず鼻を摘んだ。窓一つない狭い仮眠室に、簡易ベッドが二つ……。櫻子は目を見開いた。その片方に、胸に深々とナイフが刺さった男の死体が横たわっていた。
十二階建てのホテルの屋上から、やきもきするようなスピードでエレベーターが下降して行く。途中、「六」の表示でエレベーターが止まると、扉が開き向こうから一人の男が乗ってきた。一切日焼けの痕のない、真っ白な肌にブラウンのスーツ姿の男……田中一耕助だった。田中一は何やら難しげな顔をしていたが、赤いワンピースとアロハシャツ姿の二人を見るなり、少し驚いたように目を丸くした。
「やあ、これはこれは坂本先生。お楽しみのようで何よりです」
「田中一さん!」
「やはりさっきの悲鳴、お聞きになりましたか」
坂本が黙って頷くと、田中一は素早く扉の中に滑り込んできて「閉」のボタンをプッシュした。
「急ぎましょう。なんだか嫌な予感がする……」
坂本が頷いた。櫻子は腰に付けっぱなしのままの浮き輪をぎゅっと握りしめた。エレベーターがガタンと振動し、緩やかに動き出した。
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「……きゃああああああっ!!」
一階に辿り着き、扉が開いた後も悲鳴はまだエントランスホールに木霊していた。広々としたホールに大勢の宿泊客たちが集まり、蜂の巣を突いたような騒ぎが起きている。人々は中央にある受付カウンター付近に群がり、皆一様に恐怖と驚きの表情で天井を見上げていた。三人は人混みを掻き分け、ぎゅうぎゅうになったエントランスホールの中央を見上げた。
「!」
櫻子が目を見開いた。天井にぶら下がっていたのは……だらりと四肢を地面に向けて投げ出した、男の死体だった。
六階付近まで吹き抜けになっているエントランスホールの天井には、巨大なシャトルーズイエローのシャンデリアが備え付けられている。豪華絢爛に装飾されたその照明器具の横に……このホテルの従業員だろうか……タキシードを身にまとった若い男が、まるで糸の切れた操り人形のように首を垂れぶら下がっていた。上を見上げていた櫻子の視界にポタリ、ポタリと滴り落ちる光の粒が飛び込んできた。雨ではない。それは吊り下げられた男の口から滴り落ちる、赤黒い血であった。
「一体……!?」
櫻子の横で、坂本が息を飲んだ。
数十メートルの高さの天井に貼り付けられた死体に、手が届く者などおらず、集まった人々はただただ地上で狼狽えるのみだった。その中で一人、田中一耕助だけが冷静に踵を返し、乗ってきたエレベーターに向かって走り出した。彼の乗ったエレベーターの行き先表示が「六」を指すのを、櫻子は人混みの中から見ていた。
□□□
「……おそらくシャンデリアと同じ要領で、天井裏のワイヤーからぶら下げられていますね」
「ワイヤー?」
「ええ。見てください」
六階から戻ってくると、田中一はスマホで撮影した写真を坂本たちに見せてきた。
建物の形に合わせて、円を書くように並んだ宿泊部屋。その部屋の向かいの、穴の空いた中央のホール側に身を乗り出して撮影されたものだ。赤のジャージに着替えを済ませた櫻子が画面を覗き込む。液晶画面には、腰に鉄の紐のようなものが結びつけられ、それが天井に開けられた穴にまで続いている男の死体が写っていた。
「死体の男は、このホテルの従業員の佐々岡さんという方。今日は非番のはずで、仮眠室で寝ている予定だったそうですが、それよりも問題なのは……この見通しの良い『ドーナツホール』で一体どうやって……」
田中一は険しい顔をして一階からシャンデリアの近くの死体を見上げた。
警察が到着するまでそのままにしておいた方がいいだろうということで、死体はシャンデリアの横にぶら下がったままだ。それに一階に位置する巨大なエントランスホールは、六階の高さまで円柱型に伸びていて、ホテルはちょうど『ドーナツ』のような形をしている。『ドーナツ』の輪の内の部分に面した窓ガラスから、シャンデリア近くの死体まで少なくとも十メートル以上は距離がある。手を伸ばしても、誰にも届きそうにもなかった。ホールに吹き込む緩やかな風に揺られ、死体は集まった宿泊客の遥か上空でゆっくりと回転していた。
「『バウムクーヘン』でも良くない?」
「黙ってろ。今はそれどころじゃねぇんだよ」
「この佐々岡さんを最初に発見された方、いらっしゃいますか!?」
坂本と櫻子が『ドーナツ・バウムクーヘン論争』を始めるのを尻目に、田中一はホールに集まった客たちに向き直り、大きな声を上げた。ざわざわと大きくなる喧騒の中、一人の女性が集団の中からおずおずと手を伸ばした。このホテルの制服を身にまとった、受付嬢だった。
「私……確か、十六時半ごろ、上から水滴が落ちてくるのに気づいて……それで」
「なるほど、死体発見は十六時半過ぎですか。だけどこれだけ見通しの良いホールで、死体がぶら下がっていたのに誰も気づかなかったとは思えない。カメラをチェックしてもよろしいですか? 支配人は?」
「それが……カメラは一昨日から故障してて」
「いつ死体が出現したか、分からないということか……」
受付嬢の小声に、田中一は少し落胆した顔を見せた。その隣で坂本が目眩に襲われたような表情を浮かべた。
「どうした?」
「すごい……! あんなにテキパキと指示を出して、みんなの前で大きな声で堂々と……僕には出来ない……!」
「そこ??」
櫻子が首をかしげる隣で、坂本がキラキラと目を輝かせ尊敬の眼差しで田中一を仰いだ。田中一は口元に手をやり、何か考え込むように眉をひそめた。
「参ったな。これである程度、犯行時刻は絞れるか。だけど犯人は、一体いつどうやって死体をぶら下げたのか……」
「…………」
「まさか空を飛んで、死体を縛り付けましたって訳じゃないだろうし、ね」
そう呟いて、田中一は櫻子の方をちらりと見た。櫻子は黙ったまま田中一の緋色の目を見つめ返した。その時だった。
「誰か来てくれええええ!!」
「今度は何だ!?」
エントランスホールに、どこからかくぐもった叫び声が聞こえて来た。瞬時に反応したのは田中一、それから坂本だった。ホールの右奥の、声が響いて来た『関係者以外立ち入り禁止』の札が掛けられた扉に、二人は迷いなく突っ込んで行った。櫻子も人混みを離れ慌てて後を追った。
「坂本!」
「櫻子君! こっちだ!」
坂本は扉に『仮眠室』と書かれた部屋の廊下を走っていた。赤い絨毯が敷き詰められた長い廊下をひた走り、櫻子は坂本の背中に追いつくと、前方にいた田中一に視線をやった。田中一はすでに叫び声がする扉の前に立ち、取っ手に手をかけたところだった。
「オイ坂本……」
「何!?」
「いや、何かこれって……見覚えがないか……?」
「ダメだ! 開かない!!」
田中一がガチャガチャと取っ手を乱暴に捻りながら叫んだ。扉がうんともすんとも言わないことが分かると、彼はそのまま体当たりし始めた。
「田中一さん!」
坂本と櫻子がようやく追いついた時、田中一の何度目かの体当たりで、扉はメキメキと大きな音を立てて開いた。三人はそのまま雪崩れ込むように部屋の中へと飛び込んだ。
「これは……!」
「助けてくれええ! 俺じゃない、信じてくれ! 起きたら”こう”なってたんだ……!!」
田中一が息を飲んだ。部屋に突入した田中一の足元に、従業員らしき男が泣きながら縋り付いて来た。坂本と櫻子は、部屋に入った瞬間思わず鼻を摘んだ。窓一つない狭い仮眠室に、簡易ベッドが二つ……。櫻子は目を見開いた。その片方に、胸に深々とナイフが刺さった男の死体が横たわっていた。
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