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第二章
三十一話 好き
しおりを挟む「弓月、Look(こっちを見て)」
律樹さんの優しくて低い声が耳に届く。俺は泣きそうになりながらもコマンド通りに顔を上げ、律樹さんを見上げた。
男同士の従兄弟から『キスしたい』だなんて言われた彼の顔がどれだけ嫌悪に歪んでいるのだろうかと考えて、半ば絶望しながら顔を上げたというのに、目の前の彼は頬を薄らと染めながら眉尻を下げて笑っているだけだった。そこには嫌悪もなにもない、あるのはほんの少しの照れだろうか。僅かに火照った頬と細められた瞳に胸が疼く。
「……そんな顔しないでよ」
「……っ」
「Come」
律樹さんが小さく手を広げながら俺を呼んだ。俺はゆっくりと立ち上がり、彼の方へと近づいていく。
「弓月……Sit」
「……?」
座るって……俺はどこに座ればいいんだろう?
このコマンドを使う時には、いつも律樹さんは必ず何処かしらを手のひらで叩いて示してくれる。なのに今日はソファーの座面に手を置いていない。あれ?と戸惑いながら首を傾げると、彼は優しげな笑みを浮かべながらもう一度コマンドを発した。
ぽんぽんと手のひらが示すのは律樹さんの膝。もしかして律樹さんの膝に座るんだろうかと頭で理解するより前に、身体は動き出していた。
コマンドに従っている身体はぎこちなくではあったが、律樹さんの膝の上に横向きに腰を下ろした。ソファーよりも固いけれども、ソファーにはない温もりが服越しに伝わってくる。心臓がドキドキし過ぎて痛い。さっきのような嫌な想像をしていた時のドキドキとは全く違う鼓動に、俺はきゅっと目を閉じた。
「それも可愛いんだけど、俺の膝を跨いで座ってほしいな」
「……っ」
俺の右耳に律樹さんの吐息がかかる。すぐ近くで発せられた言葉に身体がピクピクと震えた。
跨いでなんてそんな恥ずかしい態勢になるのは、なんて思っていても身体は素直に動く。律樹さんが発する言葉の一つ一つが俺にとってはコマンドだ。彼が少しでも言葉に力を込めれば、俺の身体はそのコマンドによって動き出す。
一度律樹さんの膝の上から降りると、今度は跨ぐようにして彼の膝の上に腰を下ろした。向かい合わせに座るこの体勢は想像以上に彼との距離が近い。
心臓がバックンバックンとうるさい。こんなに大きな音をさせていたらきっと律樹さんにも聞こえてしまう。目が羞恥に滲む。俺はその目でじっと琥珀色の瞳を見上げた。
「Goodboy」
その言葉が耳に届いた瞬間、足の先からふわふわとした感覚が全身へと回っていくのがわかった。お腹の奥がずくんと疼き、頭から足の先までふわふわとしている。
「ふふ……もうサブスペースに入っちゃったのかな?目がとろんとしてる」
律樹さんの声が耳のすぐ側で聞こえてくる。全身が温もりに包まれると同時に、ふわふわとした感覚が全身を支配した。胸に灯りが灯ったようにほわりとした熱が湧き、きゅっとなる。
抱きしめられた状態で頭に律樹さんの骨張った大きな手が触れる。それがとても気持ち良くて、俺はその手に頭を擦り寄せた。
「こっちの手、繋いでみようか」
頭を撫でてくれている方の手とは反対側の手が身体から離れ、俺の手を取った。俺の指先と律樹さんの指先が触れ、先から付け根へと指の間を滑るように移動していく。ゆっくりと擦れ合うところからむずむずとした気持ち良さが生まれ、俺は身体をもぞもぞと動かした。
「もう片方の手も出して」
言われるがままに繋がっている方の手とは反対の手をおずおずと差し出すと、頭に添えられていた手が離れていった。それに名残惜しさを感じつつ、しかし次に訪れるであろう感触に胸が期待に膨らむ。
先程と同じようにまずはお互いの指先が触れ合う。そうしてゆっくりゆっくりと指の間を滑るように彼の指が下へと移動していくのだ。背筋に甘い痺れが走り、無意識に開いた口から熱い吐息が溢れる。
相変わらず声は出ないが寧ろ今はその方が都合が良かった。だって声が出ていたらきっと変な声が出ていた気がするから。
「弓月」
「……?」
「Look」
「……っ」
熱を帯び、甘く蕩けるような琥珀色が俺を捉えて離さない。両手は指先を絡め合うように繋いだまま、俺と律樹さんは見つめ合う。
「……Kiss」
Kiss、それはキスをしてというコマンド――どこにしたらと問う前に、俺の身体は動いていた。
身体ごと顔を近づけていく。ドッドッとこれまで以上に心臓が忙しなく動いている。全身が溶けてしまいそうなほどに熱くて仕方がない。すぐ近くで律樹さんの呼吸音が聞こえてくるのが堪らなかった。鼻と鼻が近づき触れ合い、彼の吐息が口元に掛かる。あと少し、ちょっと動いただけでも触れ合いそうな距離だった。
俺はごくりと喉を鳴らし、目を伏せながらその形の良い唇に自分のそれを軽く押し付けた。
今までで一番ふわふわとした気分だった。
薄い唇を喰むように口を動かし、さらに押し付けていく。触れ合った箇所からくちゅと微かに音が鳴り、耳までもを犯していくようだった。
朝でもないのに俺の股間が緩く勃ち上がり、下着や部屋着を押し上げているのがわかった。繋いだ手に力を込めると、それに応えるようにぎゅっと握り返されて胸が熱くなる。
「……っ」
あまりに距離が近すぎて俺の好きな琥珀色はよく見えないけれど、さっきみたいに甘く蕩けていてくれたら嬉しいと思う。瞼を閉じ、夢中で彼の柔い唇を貪っていたが、彼の肩がぴくりと揺れたのを合図にそっと離れた。
名残惜しいとは思う。けれどそれ以上に律樹さんから与えられるコマンドが欲しいとも思う。この繋がれた指や手のひらがずっと離れなければ良い、触れた部分から溶けて一つになりたいと思ってしまう。
――もっともっと、繋がりたい。
俺は声もなくただ口を動かした。
こんなふわふわな幸せ状態の今だから言える二文字の言葉が、俺の口から無音ながらに溢れ出る。伝わらなくても良い、それでも良いからただ俺はそれを口にしたかった。
「え……あ……今、なんて……?」
もう一度口を形作る代わりに俺は微笑んだ。全身で律樹さんへの気持ちを表すかのように、手をぎゅっと握りしめながら目を細めて笑みを浮かべる。彼に見つめられるだけでも幸せだと思えるこの瞬間が、ずっと続けば良い。
律樹さんの顔が一気に朱を帯びる。いつも余裕があって穏やかで優しい彼が、俺を見ながら呆然としている様子が珍しいなと思った。
俺の中にまた気持ちが溢れてくる。足元から湧き上がり、どんどん身体の中を満たしていくこの気持ちは、きっと本当は同性で従兄弟の俺が抱いてはいけないものなんだろう。
けれどももう無理だ。いっぱいだ。
全身がその想いに満たされていく。溢れてしまうほどに、隙間なく満たされてしまっているんだ。
――俺は、律樹さんが……好きだ。
従兄弟としてでも、家族としてでもない。ただ一人の人間として彼のことが愛おしいと思う。俺の手を握り締めるごつごつした骨張った大きな手も俺を抱きしめてくれる腕も体も、俺のことを本当に大切にしてくれる彼自身も、言葉やコマンドを発するその穏やかで優しい声も、全部が大好きで愛おしい。
どうして自覚するのがこのタイミングだったのかはわからない。俺は多分今まで人を好きになったことがないから知らなかっただけで、もしかするとある日突然好きだという気持ちが溢れ出してしまうものなのかもしれない。
「弓月……もう一度、教えて」
真剣な琥珀色が僅かに揺れている。
それがどういった感情を含んでいるかなんてわからないけれど、少なくともそこに嫌悪らしきものは見られなかった。
『すき』
俺はゆっくりとそう唇を動かした。
すると俺の手を握っていた手がぴくりと動き、小さく震え出した。
「え、あ…………うそ……」
蚊の囁くような小さな声が耳に届く。その声は驚きに満ちていて、けれど嫌な感情は感じない。
俺は重なり合った手に力を込めた。
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