声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第四章

七十話 夢と記憶

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「え……」

 あまりの突然のことに、ぺたりと座り込みながら呆然とそれを見上げる。住宅街の中で他の家よりも少し大きい一軒家。ふらふらと彷徨わせた視線が表札を捉えた瞬間にぴたりと止まった。

「……さかなぎ…………えっ?」

 耳に届いた音に、俺はゆっくりと喉を押さえる。
 控えめな主張の喉仏にそっと指先を這わせながら、ほんの少し口を開いて「あ」と言ってみた。すると指先を通して喉が微かに震え、か細い声が小さく耳に届く。
 声が出ている――そう気がついた瞬間、歓喜よりもまず得体の知れない恐怖が足元から湧き上がってきた。

 頭の中で警鐘が鳴り響く。
 さっきまでの夢とは全く違う。早く目を覚ませと、そう頭の中ではわかっているのに夢は終わらない。兎に角ここから離れないと、と震える体を叱咤しながら立ちあがろうと地面に手をついた時だった。

「――弓月?」
「……っ!」

 頭上から降ってきた声に全身が固まる。まるで石にでもなったかのようだった。
 この声の人を俺はよく知っている。何度もう聞きたくないと思ったことだろう。全身から嫌な汗が吹き出しているのがわかる。声を聞いて脳裏に浮かぶのは、あの苦しくて痛くて辛い日々。

 俺は、ゆっくりと顔を上げた。
 そこにいたのはやっぱり兄だった。けれども俺が最後に見た兄よりも随分と幼い顔立ちをしているような気がする。

 兄が手を動かすのが見え、俺はぎゅっと目を瞑った。しかしいくら待っても想像していたような衝撃は一切なく、俺は恐る恐る瞼を開いていく。そんな開いた視界に映ったのはこちらに差し出された手の平だった。えっ、えっと思わずその手と見慣れた兄の顔を見比べてしまう。
 そんな不安げというよりも挙動不審な俺の様子に、中学の頃に着ていた制服に身を包んだ兄は不思議そうな表情を浮かべていた。待てども手を握らない俺に焦れたのか、ほら早くと差し出した手をぷらぷらと揺らしている。
 慌てて伸ばした腕はいつもよりも短くて細い。あんなにも不健康で白かったはずの手は、今はとても健康的な色をしていた。

「そんなとこで座ってたらまた母さんに怒られるぞ」
「あ……う、うん」

 そう言って重ねた手に力を込めた兄が思い切り腕を引いた。勢いよく引かれたためによろけた俺の身体を兄は優しく受け止める。

「あっ……ぶね……」
「あ、ごっ、ごめん!」
「ん?……いや、俺の方こそ勢いよく引きすぎた、ごめん」

 兄が眉尻を下げながらしおらしく謝った。
 ……これは一体どういうことなのだろう。目の前にいる兄は兄ではないのかという疑問が頭の中に浮かんで、消えていく。まるでシャボン玉のように、疑問は次々と浮かんでくるのにそれらは全てすぐにぱんっと弾けて消えてしまった。

 俺の知っている兄はこんな人だっただろうか。
 俺の知っている兄は俺に……俺に、なんだったっけ。

 繋がれた手を見下ろしながら、俺は首を傾げた。
 俺はこの温もりを知っている。けれどこんなにその手は小さかっただろうか。もっと大きくて、骨張っていて――そう、大人の男の人のような手だったはずだ。
 今繋いでいる手は子どもと大人の中間といった感じだ。子どもというには大きいが大人よりも小さく、そして子どもにしては少しゴツゴツとしているが大人よりも肉付きがいい。温もりもまだまだ子ども体温と言われるような温かさだった。

「え、あ……」
「……どうした?お前今日おかしいけど、なんかあった?」
「あ、いや……えっと……」
「……外だと話しづらいだろうし、家に帰ったら話そうか」

 重なった手がまた引かれる。今度は力の加減がしっかりとされていたのでよろけることもなかった。
 門がギィ……と音を立てながら内側に開く。引かれるがままに中へと入っていき、玄関から家の中へと入っていった。家の中に入るまではうるさく鳴り響いていた警鐘だったが、玄関扉が閉まった瞬間にぱたりと止んだ。
 
 しん、という静けさが耳を打つ。カチャンッと背後で鍵が閉まる音がした。まるでもう逃がさないとでもいうような音に、身体がビクッと跳ね上がる。

「ただいま」
「た……ただいま……?」
「なんで疑問系なんだよ」

 ここはお前の家でもあるだろと言われ、ぼんやりとと思った。そうだ、ここは兄の家であるのと同時に俺の家でもあるんだ。そう思うとなんだか不思議な気持ちになった。

 天井を見上げてみると、そこには凹凸の少ない白い壁紙が一面に貼られていた。それに激しい違和感を感じて、俺は首を傾げる。どうして違和感を感じるのかがわからない。だって
 靴を脱いで上り框に足を掛けて、また違和感。ここは二段だったような気がするけれど、でもそんな高かっただろうかと。

 なんだか頭の中がぐるぐると回っているような感覚に襲われ、俺はその場にしゃがみ込んだ。何かがおかしいと身体中が訴えかけてくるのに、その正体が分からなくて気持ちが悪い。
 幾つかの光景が古いフィルム映画のように頭の中を流れていく。知らない光景のはずなのによく知っているようなこの感覚は何なのだろう。

 俺は咄嗟に手を伸ばし――何かを掴んだ。
 しかし目の前を見ても何もない。さっきまで目の前にいたはずの兄もいなければ、周りの景色も黒く塗り潰されていた。

「……」

 口を開くが言葉が喉の奥につっかえてしまったかのように声が出なかった。

 ――ああ、
 そう思った瞬間、身体が謎の浮遊感に襲われる。何とも言えない心地にぎゅっと目を瞑っていると、いつの間にか浮遊感は綺麗さっぱり無くなっていた。

 

「――弓月!」
「……っ!?」

 再び瞼を押し上げる。すると慌てたような大きな声が耳のすぐ近くで聞こえ、身体がびくりと跳ね上がった。
 きょろきょろと目を動かす。何が起こったのかがわからなくて頭の中が混乱していた。

「よ、良かった……!呼び掛けても中々起きないから……はぁ……本当によかった……!」
「……?」

 どうやら俺は居間のソファーで眠っていたようだ。そう言えば今日は病院に検査に行って、帰ってきてすぐに暇だなぁってここに寝転んだんだったと思い出し、ふぅと息を吐き出す。

「随分魘されてたけど、大丈夫?……怖い夢だった?」

 そう聞かれ――俺は、首を傾げた。
 そういえば夢を見ていたような気がするのに内容が思い出せない。どんな夢だったっけと首を捻っていると、律樹さんが「まあ夢ってそんなものだよね」と苦笑を浮かべている。
 確かに見た夢の内容を覚えていることは少ない。内容をはっきり覚えていたり、覚えているうちにメモに残すという人もいるようだが、それはごく少数のことだ。
 今回の俺に関してで言えば、そもそも夢の内容どころか夢を見ていたかどうかさえも曖昧だった。なんだか覚えていないといけなかったような気がするんだけど……と顎に手を当てながら首を傾げていると、律樹さんが優しげな笑みを浮かべながら俺の目の前にしゃがみ込んだ。

「きっと疲れてたんだね。覚えていないってことはそれだけ熟睡したってことなんじゃないかな?」

 そう……かもしれない。
 多分そうなのだろうと自分を納得させるように心の中でそう呟きながらこくりと頷くと、律樹さんも同じように一つ頷いた。

「じゃあ、お風呂が沸いたから先にお風呂に入ろっか」

 差し出された手に手を重ねる。それに既視感を抱いたが、結局何だったのかもわからないままに俺は律樹さんとお風呂へと向かった。
 
 
 
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