声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第五章

百十一話 変わらない

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 律樹さんがお風呂場を出てすぐ、冷え切った身体を温めるように少し熱めのお湯を浴びる。冷たくなっていた足の爪先や手の指先が熱いお湯に触れ、まるで溶けていくようにじんじんとした。
 身体を洗い終えてお風呂を出ると、濡れた服を着替えた律樹さんが俺を待っていた。彼の手には緩く広げられたふわふわのバスタオル。そこにぽすんとダイブすると、律樹さんがそっとバスタオルごと俺を包み込むように抱きしめてくれた。そこに言葉はなかったが、壊れ物を扱うように俺のことを包み込んでくれるその温もりにほっと息がこぼれた。

 それから律樹さんが作ってくれたご飯を二人で食べた。相変わらず律樹さんのご飯は美味しくて、思わず頬が緩む。

「ごちそうさまでした」

 そんな挨拶の後、俺たちは食べ終えた食器を片付けた。二人で洗い物をして、それから居間へと戻る。
 示し合わせたように俺たちはソファーの座面に横並びに腰を下ろした。テーブルの上に置いていたスマホを手に取り、俺は俺が思い出したことや今の俺の考えや気持ちを全て文字に書き起こしていく。メッセージアプリ内に書き記した文字はかなり多く、一気に送ると読みにくいだろうと何度かに分けて律樹さんへと送信していった。隣に座る彼はというと、俺が送ったメッセージを真剣に読んでくれているようだ。その証拠に琥珀色の瞳がゆっくりと動いていた。
 そうして俺が全てを書き終え、彼が読み終えたのは夜も更けた頃だった。

 俺たちの間に沈黙が降りる。けれど嫌な沈黙ではなかった。嫌われたくなくて黙っていたことも、幻滅されたくなくて隠していたことも全部彼に話したからか、体は疲れていたが心や頭は今までにないくらいにすっきりとしていた。
 
 ちらりと隣に座る律樹さんを見遣ると、彼は眉間に皺を寄せながら何かを考えている様子だった。俺自身も未だに戸惑ったりすることがあるのだから、律樹さんが混乱するのも無理はない。俺は難しい顔で黙りこくる彼から顔を逸らし、肩にもたれかかりながら目を閉じた。
 濡れ鼠になっていた時とは違い、乾いたスウェットからは俺の大好きな香りがした。押し当てた頭を軽く動かすと、ふわりと落ち着く彼の香りが鼻腔をくすぐる。それがなんだか擽ったい気分だった。

「……ごめん」

 ずっと考えていたのだろう。絞り出された謝罪の言葉に俺はゆっくりと瞼を上げた。
 何に対する謝罪なのか、それがなんとなくわかった。……わかってしまった。だからこそ俺は頷くことも首を振ることもできず、ただじっとソファーの座面に無造作に置かれた自分の掌を見つめることしかできなかった。

 律樹さんはそれ以上何も言わなかった。ごめんという謝罪もそのほかの言葉も今は話すことができなくて、深いため息だけを吐き出したのだろう。俺も同じだ。発するべき言葉が見つからない。だからこそただぼんやりと掌を見つめていることしかできなかった。

 律樹さんは肩に凭れ掛かる俺の頭に頭を乗せた。俺の黒い髪と彼の栗色の髪が擦れてサラサラと音が鳴る。俺の見つめる先、無造作に置いた俺の手の上に律樹さんの手のひらが重なった。恐る恐るといった感じに乗せられたそれはほんの僅かに震えている。緊張か、はたまた違う感情か、それは俺にもわからない。

「……好きだよ」

 再び降りた沈黙を破ったのはやはり律樹さんだった。ぽつりと呟くようにこぼれたその声に、俺は重なった手のひらをきゅっと優しく握る。

「もし……いや、たとえどんな弓月だったとしても、俺の気持ちが変わることはない」

 目の前が僅かに揺らぐ。重なった手がじんわりと滲み、鼻の奥がつんとした。

「この先もずっと、俺は弓月を愛してる」

 重なった手が強く握りしめられ、俺の目から涙が溢れた。温かな雫が頬や顎を伝い、ぽとりと落ちていく。俺は視線を下げ、顔を俯かせた。

 涙は一度溢れると止まらないらしい。決壊したダムのように俺の目からは涙がとめどなく流れていく。けれど嫌な気はしなかった。なんだろう、まるで憑き物が落ちたみたいだ。

 律樹さんが俺をあの家から連れ出してくれたあの日、俺はこの人の優しい声と香りに安心した。あの時は意識もはっきりしていなくて夢と現実の区別すらついていなかったが、それでも彼の全てに安堵したのだ。
 それは今も同じだ。俺も、変わらない。律樹さんの声や香り、そして触れた温もりに俺はいつだって安心するんだ。

「……っ、……」
「泣いてる弓月も大好きだよ」

 律樹さんが俺の頭に頬を擦り寄せながら、甘く穏やかな声でそう言った。重なった手は一度解かれ、今度は指を絡めるように重ね合わされる。離さないとでもいうように強く絡み合った手に、おさまりかけていた涙がまた勢いを増した。
 ほんの少し恥ずかしくなった俺は律樹さんの肩に額を押し当ててぐりぐりと擦り付けた。着替えたばかりの服を汚すのも忍びなくて、擦り付けたのは濡れた目元や頬ではなく額だ。けれど律樹さんは涙を拭っているのだと思ったらしい。

「あんまり擦ると赤くなるよ」

 そう言って繋いでいる方とは反対の手を俺の頬に添え、手のひらで涙を拭いながら律樹さんはくすくすと笑う。その添えられた手のひらが思いの外あたたかくて、俺はまた涙を流していた。
 
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