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第五章
百二十六話 もう一度
しおりを挟む「俺にはずっと……好きな奴がいる。だからお前の気持ちには答えられない」
壱弦がそう言いながら俺に視線を向ける。向けられた彼の目はやっぱり律樹さんの目とてもよく似ているように感じ、俺は心臓がある辺りの服を鷲掴んで握りしめながらそっと視線を逸らした。先程のように痛みはしなかったが、心臓の辺りがぎゅっと握り締められているようななんとも言えない心地だった。
「……ん……はっきり言って、くれて……あり、がと……」
桃矢くんの声は涙に濡れ、そして震えていた。告白の当事者たちではなく、ただ近くで聞いているだけの俺でさえ胸が締め付けられるように痛んだというのに、当の桃矢くんは何かが吹っ切れたように大粒の涙をこぼしながらも笑っている。
それから桃矢くんが落ち着くまで無言が続いた。啜り泣く声だけが聞こえる空間で、俺だけがなんだかわからない居心地の悪さを感じていたような気がする。
「ゆづき」
返してもらったスマホを手に持ち、何をするでもなくただぼうっとしていると、ようやく落ち着いたらしい桃矢くんが俺を呼んだ。たくさん泣いた所為で鼻声になってしまい、どこか舌足らずな呼び方だった。
俺はゆっくりと頭を上げ、テーブルを挟んだ向かい側に座る彼に視線を向ける。泣き腫らした赤い目が痛々しく、治ったはずの胸がまたつきりと痛んだ。
桃矢くんがテーブルに右手を付いてゆっくりと立ち上がる。さっきまでは同じくらいだった目線が、立ち上がったことによりぐんっと一気に高くなる。俺の目線よりも遥かに上になった彼の黒に近い焦茶色の瞳、それを追いかけるようにさらに顔を上に向けた。
桃矢くんが俺から視線を逸らしたかと思えば、身体が横を向いた。そのまま足を一歩二歩と動かしていく。そうして俺の座る位置の真横辺りまでやってきた彼はその場に両手両膝をつき、滑らかな動作で頭を下げた。
……初め、彼が何をしているのかわからなかった。突然のことに頭が混乱していたのかもしれない。けれど桃矢くんが口を開いた瞬間、ようやく彼が俺に向かって土下座をしているのだと理解した。
「ごめんなさい」
謝る声もやっぱり震えていた。そんな震えた謝る声を聞きながら、俺はぼんやりと自分に向けられた頭のてっぺんを見つめていた。時計回りに渦巻くつむじに視線を向けながら、俺は持っていたスマホをぎゅっと握りしめる。
「その……弓月が書いてくれた気持ち、全部読んだよ。こんな僕のために書いてくれて、ありがとう。……っ、その上でもう一度……僕に、謝らせて欲しい。……本当に、ごめんなさい」
彼が喋る度に微かに揺れるつむじに目を向けながら、告げられていく謝罪の言葉たちに俺はそっと溜息を吐いた。
「弓月は……僕と、また友達になりたいって書いてくれたけれど……どうか、僕を許さないでほしい。……だって僕は、許されないことを、した。僕は……僕の身勝手な嫉妬心で、弓月の心も体も傷つけたんだから」
告げられたその言葉に俺は目を見開いた。まさか「許すな」なんて言われると思っていなかったから。
頭の処理が追いついていないのか、なんと言えばいいのかがわからない。どうするのが正解なのかがわからなくて、俺はただただ呆然とつむじを見つめることしか出来なかった。
「……弓月は、優しすぎる。こんな僕を、許しちゃ駄目だ……再会してすぐに、コマンドを無理矢理使う奴なんて……許しちゃ、駄目なんだって……っ」
言葉を紡いでいくうちに、桃矢くんの声はだんだんと滲みを帯びていく。そして最後の方には嗚咽が混じっていた。くしゃりと歪んだ顔、潤んだ黒に近い焦茶色の瞳から溢れる大粒の涙たち。淡く色づいた唇が小刻みに震え、水をいっぱいにたたえた水面のように涙に瞳が揺らめいた。
俺はそんな桃矢くんの姿に何も言えないまま、大きな後悔を含んだその目から視線を逸らすように目を閉じる。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、あの頃の桃矢くんの姿。偶然にも兄とシュンによって痛めつけられる俺を見てしまった桃矢くんが俺にした数々の行為が、次々と思い出されていく。
桃矢くんはシュンに逆らうことが出来ないらしかった。過去二人に何があったのかは知らないが、少なくとも桃矢くんはシュンの言いなりになっていた。シュンに言われてSubである俺に無理やりコマンドを使ったり、暴力を振るったり――そして兄たちのように首を絞められたりもしたっけ。まあそのどれもが進んで行ったものではなく、行為自体も他二人よりも随分と軽いものではあったが、それでもあの頃は友達にされたということが何よりも辛かった。
Domである桃矢くんとSubである俺。
友達同士、たとえ互いに同意の上で遊びの延長でプレイすることもあまり良く思われないこの世の中だ。同意もなく、無理矢理コマンドを使用することは強姦と同じだと言われている。当然程度によっては警察に捕まることもあるだろう。現に俺に無理矢理コマンドを使用し続けた兄は今まさに警察のお世話になっている。
(でも……俺は……)
桃矢くんが俺の同意なしにコマンドを使用した時点で、確かに彼は一線を超えてしまったかもしれない。けれど、それでも今は、やっぱり桃矢くんともう一度友達になりたいと思う。
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