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第六章
百五十五話 気のせい
しおりを挟む「あれ?坂薙くん?」
あと少しでナースステーション――今は看護師詰所だとかスタッフステーションというらしい――に到着するというところで、俺は不思議そうな声に呼び止められた。聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのは俺が想像していた通りの人だった。この入院中、何かとお世話になっている宮本さんという看護師さんだ。
宮本さんは俺が話せないことを知っている。声が出なくなった理由や経緯まで知っているのかはわからないが、仕事の関係上竹中先生から何かを聞いていてもおかしくはないだろう。
これはつい昨日聞いたことなんだが、宮本さんには俺と同じ歳の妹さんがいるらしい。宮本さん自身は律樹さんよりも三つほど歳が上のようなので歳は離れているのだが、姉妹仲はいいようだ。そんな妹と同じ歳の俺が放って置けなくて、つい心配になって構ってしまうのだと宮本さんは笑っていた。
「君がここにくるなんて珍しいね。どうかしたの?」
横並びになって少し歩くと、すぐに目的の場所に辿り着いた。宮本さんは不思議そうな声色で俺に問いかけながら、詰所内へと入っていく。そして彼女の机らしいところから取ってきたメモ用紙とペンを俺に差し出してきた。それを受け取って、まあ……というふうに曖昧に笑いながらさらさらと文字を書き連ねていく。
『ノックされたので出てみたんですけど誰もいなくて』
「ノックって……坂薙くんの病室の?」
メモ用紙に書いた文字を読んだ宮本さんは、そう言いながら怪訝そうな表情で首を傾げた。俺がそれにこくりと頷くと同時に宮本さんが「おかしいなぁ」と心底不思議だというようにさらに首を傾げる。
「この時間は誰も行かないはずなんだけど……あ、そういえばいつもお見舞いに来てくれている二人は?」
『今頃りつきさんのところへお見舞いに行っているはずです』
「なるほど、来た後だったのね」
俺がよくお世話になっているということは、当然毎日のようにお見舞いに来てくれるあの二人のことも知っているということだ。俺のところに来た後は必ず律樹さんのところに寄ることも知っているため話が早い。
「うーん……少しだけ待っててくれるかしら?他の人にも聞いてみましょうか」
宮本さんの提案にお願いしますと頭を下げると、彼女はちょっと待っててねと笑った。良かったらと勧められたパイプ椅子に有難く腰掛けると同時に、彼女は詰所の中へと再び戻っていった。
そうしてしばらくして宮本さんが申し訳なさそうな表情を浮かべながら詰所の中から戻ってきた。その表情から察するに、どうやら俺のところに来た人はこの中にはいないみたいだ。
ここの人たちじゃなかったら一体誰が……?と込み上げてくる不安に自然と眉尻が下がる。
「ここにいるスタッフは誰も病室には行ってないって。もしかしたら今は出払っているスタッフの可能性もあるけれど……坂薙くん、心当たりはない?」
心当たりと言われ、そういえば一つあったなと思い出す。俺は再度ボールペンを持ち直し、さらさらとメモ用紙の端の方に今思い出したことを簡潔に書き記した。
『明日プレイ専門のDomのスタッフさんが来るって』
「Domスタッフ?……ああ、そう言えば軽く説明だけでもって竹中先生が言っていたわね。もしかして……」
「……?」
初めは怪訝そうだった宮本さんの表情がぱっと閃いたようなものになる。そうかと思えばすぐ近くにあったノートパソコンを操作し出した。
突然の行動についていけず、頭上にいくつもの疑問符を浮かべる俺に、宮本さんはまた「ちょっと待ってね」と笑った。
カタカタと忙しなくキーボードを打つ音とマウスのクリック音が聞こえてくる。じっとその様子を見つめながら大人しく待っていると、しばらくしてやっぱりという声と共に音がぴたりと止んだ。
「今この病棟に第二性治療専門のスタッフの方が来ているんだけど、どうやら顔見せだけでもしようと坂薙くんの病室に行ったみたいね。ノックしても反応がなかったから不在だと思ったみたいよ」
竹中先生から話はいってるはずなんだけど忘れてたのかしらと首を傾げる宮本さんを横目に、俺はほっと息を吐き出した。
心のどこかでまた兄だったら、なんて思っていた。前回の件で兄は遠くに収容されたとは聞いていたが、多分俺はどこかでその言葉を信じきれていなかったんだと思う。けれど今は宮本さんの言葉にあれは本当だったんだろうな、なんて思い始めている自分がいた。それと同時に、さっきまで心の奥底から湧きあがりかけていた恐怖心が、波のようにすうと引いていく。
……良かった、本当に良かった。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう、宮本さんが俺の肩をぽんと優しく叩きながら「大丈夫よ」と声をかけてくれた。俺はその言葉に小さく頷きながら、気の抜けたような顔でへらりと笑った。
それから少し話をした後、宮本さんに病室まで送り届けてもらった。その後すぐに運ばれてきた夕食を頂き、歯磨きをしたりシャワーを浴びてから俺は眠りについた。多分不安が解消されたからだろう、いつもよりも早く、そして深い眠りにつくことができたような気がする。
そうして一度も夜中に目が覚めることもなく無事に朝を迎えた俺は、少しドキドキしながらその時を待っていた。
――コンコン。
病室の扉がノックされる。昨日と同じように思えるかもしれないが、昨日とは違ってノックの後すぐに扉が開いた。ガラガラと音を立てながら引き戸が開いていく様子に、心臓がほんの少し速くなる。
「さっきぶりだね、調子はどう?」
扉から現れたのは俺の予想とは違い、午後の診察ぶりの竹中先生だった。にこにことした人好きのする笑みを浮かべながら先生は一歩、また一歩と部屋に入ってくる。そうしてベッドのすぐ近くまで来た時、俺の顔を見ながら「顔色は悪くないね」と笑みを浮かべながらこくりと頷いた。
竹中先生がゆっくりと出入り口である扉を振り返り、どうぞと声を掛ける。すると開いた扉から入ってきたのは二人の男性だった。初老の男性が一人、そしてもう一人は律樹さんと同じくらいの年頃の若い男性だ。
人の良さそうな穏やかな笑みを浮かべた初老の男性が、俺と目があったと同時にこんにちはと頭を下げた。それにつられて俺もぺこりと頭を下げる。
「弓月くん、この方達が昨日言っていたスタッフさんたちだよ。今日は軽い内容の紹介と顔合わせだけで実際にはしないから安心してね。……お願いします」
「ええ、わかりました。……初めまして、坂薙さん。私たちは治療のためのプレイを行う専門のスタッフです。私の名前は渡、こちらは玄野と申します。今日は説明だけですが、よろしくお願いしますね」
「よろしくお願いします」
応えるようにぺこりと頭を下げると、初老の男性――渡さんは目元を和らげながら穏やかに笑った。ちらりと若い男性スタッフ――玄野さんに視線を移せば、こちらも人好きのしそうな爽やかな笑みを浮かべている。
それにしても、どうしてだろうか。俺はこの人を見たことがあるような気がした。……とはいっても、まあ俺の勘違いなのかもしれないけれど。
学校か?……ううん、もしこの人が俺の想像通り律樹さんと同じくらいの歳だとすれば、俺とは歳が六つは離れていることになるのだから中学や高校は一緒になることはないだろう。じゃあやっぱり俺の勘違いなんだろうなと思いながら玄野さんを見ると、俺の視線に気がついたのか、にこりと笑みを返されてしまった。
「どうかしましたか?」
そう聞かれ、咄嗟に「何もないです」と口を動かしながら頭を横に振る。すると玄野さんはふふっと笑みを浮かべ、手に持っていた数枚の紙を俺に手渡したのだった。
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