声を失ったSubはDomの名を呼びたい

白井由貴

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第六章

百五十七話 かわいそうという言葉

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 意識が浮上する感覚と同時に閉じていた瞼をゆっくりと押し上げていく。しかし重い瞼はうまく上がってはくれず、視界は薄く狭い。それでも開いていないよりはましだと瞬きをすれば、初めよりも幾分か明るくなった。

 狭いながらも開いた視界にまず飛び込んできたのは白色の天井。視界いっぱいに広がるそれは見慣れたもので、俺は静かに息を吸い込んだ。僅かに香る清潔感漂う消毒液の匂いに、しばらくして俺は自分がいる場所を思い出した。
 
 そういえば俺は何をしていたんだっけ、と目が覚める前の記憶が曖昧なことに気づく。何をしていたのか、誰といたのかも思い出せない。けれど不思議なことに嘔吐したことだけはなんとなく覚えていた。饐えた臭いの中、寒い、苦しいともがいていたのが嘘のように、目が覚めた今は穏やかな気分だ。
 だがその反面、身体は鉛のように重く感じられた。指一本すらまともに動かせそうもない。初めの頃もこんなだったよなぁ、なんて内心自嘲を浮かべながらふうと息を吐き出した。

「っ……?」

 肺の辺りが微かに痛んだような気がした。しかしそれは一瞬で、今はもう呼吸をしても痛みは感じない。気のせいかとそっと目を閉じると同時にがらがらと音を立てながら病室の扉が開かれた。

(あれ……?ノック、されたっけ?)

 ここを訪れる人のほとんどは扉を開ける前に扉をノックする。それはいろんなことに敏感になっている俺に配慮してくれてのことだが、今はそれがなかった。

(誰だろ……?)

 なんの声掛けもないまま、その人は部屋に入って来た。
 こつ、こつとリノリウムの床を硬い靴底で蹴る音がする。足音は一歩、二歩と徐々に近づき、やがて俺のすぐそばで止まった。

 俺は目を閉じたまま相手が動くのを待った。しかしこつんという足音を最後に音は聞こえない。不安になった俺は様子を伺うためにほんの少しだけ瞼を押し上げた。

「……」

 薄らと開いた視界から見えたのは男性のようなシルエット。はっきりと見えているわけでもないのにどうして男性だとわかったのか。理由は簡単、体格や立ち姿が男性のそれだったからだ。肩幅といい、女性特有の柔らかさが全くないためすぐにわかった。
 
 けれどそれと同時に「誰?」という疑問が浮かぶ。俺の知っている人にこんなに体格のいい人はいない。
 もう十八とはいえまだまだ成長途中の壱弦は兎も角、律樹さんも保科さんも筋肉はあるが全体的に細身だ。それに多分この三人だったら部屋に入って来た時、もしくは俺の横に立った時点で何かしらのアクションを起こすだろう。だが今隣にいる人にその気配はない。

 口の中がカラカラに乾いている。口の中に僅かにあった唾液を飲み込んだが全く意味はなく、寧ろ余計に喉が渇いたような気がする。
 今にも閉じてしまいそうな瞼に力を込め、ほんの少し視界を広げてみた。身体が動かない代わりにゆっくりと視線を動かしてみると、さっきよりも少しだけ鮮明にその人の顔を見ることができた。

「……?」

 知らない人……のはずなのに、その顔にどこか見覚えのある気がした。徐々に記憶が戻っているとはいえそれも完全じゃない。だから他人の空似の可能性も十分にあり得るんだけど、でもやっぱり知っているような気もした。

 律樹さんとは違って染めた黒と金が混じったような明るい茶髪、それに黒っぽい吊り目気味の目。髪色や目の色は決して珍しいものではなく、それだけなら街を歩いていれば同じような人は何人もいるだろう。
 けれど俺が引っ掛かったのはそこじゃない。顔が――顔立ちや顔の雰囲気が俺の知っている誰かに似ている気がしたんだ。

(律樹さんじゃないし、壱弦や保科さんたちでもない……あとは……桃矢くん、も)

 違う、と心の中で言いかけた時だった。
 心臓がどくんと大きく跳ねる。なんで今まで思い出せなかったんだろう。この人の顔、よく見たら夢の中で見た『シュン』によく似ているんだ。

 ……いや、でもこの人は『シュン』じゃない、と思う。『シュン』は俺の兄と同じ歳だ。つまりは二十歳、ここまで大人になっているわけがない。目の前の人はどれだけ若く見積もっても律樹さんと同じくらいだ。だからこの人が『シュン』であるわけがない。
 そう頭ではわかっているのに、俺の心臓は徐々に鼓動を速めていく。
 
「坂薙、か……」

 シュンによく似たその人がぽつりと呟いた。記憶にある彼よりもずっと低い声だ。しかし条件反射か、その声に反応するように俺の身体が無意識にぴくりと震える。

「……こんなに近くにいたなんてな」

 それは一体どういう意味なんだろう。
 俺が近くにいて驚いているような、まるで探していたかのような口ぶりだ。

「かわいそうに」

 ぽつりと呟かれた言葉が俺の心に波紋を生んだ。それは小さな葉っぱから垂れた雫が溜まった水面に落ちるようだった。可哀想という、哀れみなのか嘲りなのかわからない言葉が心臓の辺りから徐々に全身へと広がっていく。

 ――『かわいそう』。
 
 その言葉がなぜか深く深く突き刺さった。この人がどういう意味や意図でその言葉を口にしたのかなんて俺にはわからない。けれどその言葉は刃となり、真っ直ぐに俺の胸へと突き立てられていた。鋭利な切先がぷつりと皮を破り、そして骨の合間をぬって肉を切り裂いていく。お世辞にも気分がいいとは言えない感覚だった。

 俺は、かわいそう……なのか。
 血の繋がった家族に愛されることなく、実の兄に暴行されたり監禁されていたことは確かに『かわいそう』なことなんだろう。けれどそれを律樹さんが助けてくれた。好きだと言ってくれて大切にしてくれて――ああ、でもそんな律樹さんを不幸にしてしまったのは……俺か。

 目尻から涙が溢れた。眉間を伝い、病院の白い枕へと染み込んでいく。きっと隣にいるその人にもそれがわかったのだろう。彼は小さく「ごめんな」と呟いた。
 
 
 
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