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第六章
百六十話 雨音の記憶③(律樹視点)
俺の手を引く祖父の手は微かに震えている。
俺に傘を差し出したせいで祖父も俺と同じく濡れてしまっている。もうすでに濡れ鼠な俺なんかに傘なんて差さなければいいのに、それでも祖父は自分が濡れるのも構わずに俺に刺し続けた。
玄関の引き戸を開けて家の中に入ると、そこには不安そうな表情の姉と祖母がいた。髪から滴る雫が玄関土間に落ちていく。夏だから寒いわけではなかったが、肌に張り付く布が少し気持ち悪かった。
それから数日が経った。
あれから俺たちは何事もなかったかのように日常を過ごしている。あの日のことは触れてはいけないような気がして、何も聞けていない。俺も姉も何も知らないままだ。
今日は久々に晴れということもあり、俺と姉さんはこの数日間を取り戻すかの如く外で遊んでいる。初めは祖父母の畑の手伝いをしていたが、それも飽きてしまった今は山に虫取りに来ている。……とは言っても張り切っているのは姉だけで、虫に対して興味のない俺はその辺に座ってただぼんやりと空を見上げていた。
「律樹!こっちこっち!」
「んー……」
「もう、律樹ってば!聞いてる⁈」
「うわっ!びっ……くりした……」
背中をドンッと強く押され、耐えきれなかった体が前に倒れる。既の所で手を出したおかげで転ぶことは避けられたが、未だ心臓はばっくんばっくんと大きく音を立てていた。
「あ、ごめん」
謝りつつも、姉さんには悪びれた様子はない。ちょっと加減を間違えちゃった、くらいの気持ちだろう。
そんな姉の姿に、俺は深く息を吐き出した。
その日は結局何も捕まえることができなかった。
雨でぬかるんだ道を、空っぽの虫籠と虫取り網を持ちながら進んでいく。そうして祖父母の家に着いた時にはサンダルを履いていた足はどろどろに汚れていた。
「ただいまー!」
「ただいま」
外の水道である程度泥を落とした後、そう言いながらガラガラと引き戸を開けた。玄関脇に空っぽの虫籠とほとんど使わなかった虫取り網を置いて上り框に腰掛ける。
「あれ?お客さんかな?」
靴箱の上に置かれたタオルを手に取って濡れた足を拭っていると、隣で同じように乾いたタオルで足を拭いていた姉さんがそう声を上げた。お客さん?と脱いだばかりのサンダルの横を見れば、そこにあったのは見慣れない女性物の靴と小さな子どもの靴が二足。
「律樹?……えっ、ちょっと待ってよ!律樹!」
上り框に足をかけ、気付いた時には駆け出していた。ひんやりしたフローリングの床の上をバタバタと足音を立てながら裸足で掛けていく。背中に掛かる姉さんの声に反応する余裕もない。ただ俺の頭の中を占めるのは大きな二つの黒色だけだった。
「……!」
普段は開いている応接間の扉が閉まっている。それに気付いた瞬間、それまで忙しなく動いていた足がぴたりと止まった。
俺の中の何かがここだと言っている。
その感覚に従い、俺は応接間の扉を無遠慮にバンッと勢いよく開けた。
「……っ!」
あの日からずっと消えなかった。
こぼれ落ちんばかりに見開かれた大きな黒色の瞳に一瞬で目が奪われる。祖父が慌てたような声を上げるが、俺はそれを無視してずんずんと室内に入っていき、その目の持ち主の前で立ち止まった。
真っ黒な髪に真っ黒な瞳、そしてそれらとは対照的な病的なまでに真っ白な肌。俺なんかよりもずっと小さな体を丸めながらじっと俺を見つめるその黒色から目が離せない。
「……?」
応接間に沈黙が降りる。誰も何も喋らず、ぴくりとも動かない。もしかすると突飛な俺の行動に驚いていたのかもしれない。しかしその沈黙を破ったのは、後から俺を追いかけてきた六花姉さんだった。
「もっ、律樹ってば!何急に、走り出してっ……あっ!やっぱりお客さんいるじゃん!もうっ!」
「り……六花、律樹……あんたたち……」
「げっ、母さん……律樹!逃げるわよっ!」
きょろきょろと周囲を見回した六花姉さんが母さんを視界に入れた瞬間、俺の手首を掴んだ。早く逃げるわよと引っ張る姉さんに俺は頭を横に降る。
「何言ってんの、早く逃げないと……」
「いやだ!」
俺が叫ぶと同時に、姉さんの動きがぴたりと止まる。普段我儘も言わない、声も荒げない俺が大きな声を上げて拒絶をしたことに驚いたんだろう。
驚きのあまり緩んだ手から抜け出し、俺は応接間に隙間なく敷かれた濃い赤色の絨毯の上を裸足でゆっくりと歩いていく。そして丸まるように体育座りをしている小さな子どもの前でしゃがみ込んだ。
「……ねえ、名前は?」
「……?」
吸い込まれるような大きな黒色と視線を合わせながらそう問う。しかし返事はない。ただ不思議そうに俺を見上げているだけだ。
見たところ一歳半から二歳くらいだろうか。自分の名前が言える年齢ではないかもしれないが、何かしらの反応は返してもらえると思っていた俺は首を傾げた。
「……そっちは?」
「……そーいちろ」
「そういちろう?」
同じように隣に座っていた男の子に声をかけると、こっちからは返事が返ってきた。どうやら「そういちろう」というらしい。何歳かと聞けば彼は小さな紅葉のような手をじっと見つめた後、五本の指を立ててこちらに示してきた。なるほど、「そういちろう」は五歳なのか。
じゃあ、と再び隣に視線を移すとその小さな肩がびくりと跳ねた。戸惑うように黒い瞳が揺れ、隣のそういちろうに助けを求めるように視線が動く。それを正しく読み取ったのか、そういちろうは隣の小さな子どもを指差しながらぼそりと呟いた。
「これ、そーいちろのおとーと」
「名前は?」
「んーとね……ゆづき?」
「ゆづき?」
そう聞き返すとこくりと頷きが返ってきた。
そういちろうとゆづき――二人の小さな兄弟はなんでそんなことを聞くのかと不思議そうだ。
俺は後ろで立ち尽くしている姉の方を振り返った。目があった姉さんは目をぱちくりさせた後、いいこと思いついたとでも言うようににやりと笑みを浮かべる。
「ねえねえ、お母さん!この子達と遊んでもいい?」
「えっ……?」
普段快活な母が戸惑うような声を上げ、視線を彷徨わせた。そして縋るように祖父の方を伺い見たのだが、祖父も祖父で困惑しているのか眉間に皺を寄せて口を引き結んでいた。
再び室内に降りた沈黙を破ったのは、それまで黙りを決め込んでいた祖母だった。
「……六花、律樹。この子達と遊んでやってくれるかい?ばあちゃん達は少し大事な話をしないといけないんだ」
「うん!まかせて!」
ばあちゃんの一言に六花姉さんの表情がぱあっと明るくなる。鏡はないので確認はできないが、きっと俺の顔も同じようになっていただろう。
俺たちは顔を見合わせたあと、その小さな手に自分たちのそれを重ね、再び静まり返った応接間からそっと抜け出した。
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