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第六章 決戦の地へ

重く歪な愛

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目を開いた僕は、胸の前で絡めていた両手をそっと離して、身体の力を抜いた。この地にしっかりと響くように、ゆっくりと確実に言葉を紡ぐ。


「___天地讃頌(てんちさんしょう)」

僕の声に呼応するように、どこからともなく白銀色の蝶の大群が一斉に羽ばたき、白色の花びらが吹き荒れるように宙を舞った。大地が小刻みに震えて、白銀色の植物のツタが次々と芽を出して伸びていく。

咆哮を上げてレイルを攻撃していたドラゴンの動きが、ピタリっと止まった。骨だけの痛々しいドラゴンの身体に、白銀色の蝶たちがそっと舞い降りる。蝶に魅入るように、ドラゴンはゆっくりと首を動かして目で追いかけていた。


「もう、痛い思いはしなくて良い……」

そう呟いた僕の意思を汲み取ったように、蝶たちが次々とドラゴンの身体に集まってくる。骨にへばりついた腐敗した血肉へ労わるように優しく舞い降りると、白銀色の鱗粉がはらはらと落ちた。腐敗の血を撫でるかのように零れた白銀色の粒子は、赤黒い血を春風に流すように優しく消し去った。


骨だけのドラゴンは、その大きく開いていた羽根を畳むと、地面に伏せ体勢を低くした。眠りにつくように巨体を丸めると、安堵のため息で鼻を鳴らす。

狂気と憎悪に落ち窪んでいた目が、ゆっくりと閉じられていく気配がした。


「……ごめんなさい。こんな世界に、連れてきてしまって……」

僕はゆっくりと、地面に腹をつけ伏せているドラゴンに近づいた。灰色の死んでいた大地は、柔らかい若葉が生えて僕の足を優しく包み込む。枯れた木々たちには鮮やかなは戻り、春風のような温かい風が心地よく吹き抜ける。

生命が溢れる穏やかな春の森で、力を抜いて微睡むドラゴン。その身体にあった傷跡もなくなり、目には翳りがなくなっている。


自然と、僕の身体はドラゴンの顔へと近づいていた。呼吸をするように上下する骨だけの背中を眺めながら、自分の背丈よりはるかに大きい鼻先に、そっと右手で触れる。
ドラゴンはくすぐったそうに、骨の身体を小さく震わせた。さらりとした肌触りの骨はもう、呪いの瘴気など全く感じない。


「……どうか、安らかにお眠りください。想いでの地へ、愛する者のもとへ帰れますように……」

あなたの来世が、幸福でありますように。

そう祈りを捧げて、僕はそっと、ドラゴンから手を離した。白銀色の花たちが、眠りにつくドラゴンを囲うように花を咲かせて、やがて骨だけの身体全体も覆いつくしていく。ドラゴンの身体が沢山の白銀色の花で見えなくなり、花の山が出来上がる。

白色の花びらが、吐息のように優しい風に舞った。先程まで眼の前にあったドラゴンの身体も、花びらに攫われて消えた。天高くまで舞い、風で遠くへと運ばれていく花を、僕はじっと見届けた。


「……サエ」

聞き慣れた愛しい人の声に、僕は振り返った。黒狼を横に連れて近づくレイルに、身をかがめるようにお願いする。


「……守ってくれて、ありがとう」

レイルにお礼を言いながら、僕はその逞しい身体を抱きしめて、血が流れているこめかみにそっと口付けた。白銀色の光がふわりと光ると、レイルの血もふわりと消えていく。怪我が完治したことを確認すると、レイルは僕の背中に腕を回して、力強く抱きしめた。


「……相変わらず、サエの治癒魔法は温かいな……。そして、清らかで美しい」

しばらくお互いの無事を確認するように抱きしめ合った僕たちは、ゆっくりと身体を離した。ここに来た目的を果たすために歩き出す。僕たちの周りを、白銀の蝶たちが舞い遊んでいる。

白色の小花たちが風にそよいで左右に揺れる中、不協和音のような不快な声が、僕の耳に届いた。


「ああ、これが聖魔法……。なんて神秘的で緻密……」

透明な湖の中心に、銀色の十字架が立っている。美しい湖に見合う、銀色のツタが絡み合った繊細な十字架には、黒色の人影が力なく磔にされていた。手足はツタに拘束され、少しでも動くことは許さないと言うように、宰相の細い身体を鎖が縛りあげる。


「この力も私が発現させたのだと思うと……。喜びで、身震いがする」

光の十字架に磔にされている宰相は、なお夢心地と言った恍惚とした表情を浮かべて、僕たちへねっとりとした視線を向けた。

もうその視線を怖いとは思わない。こんなやつの視線に恐れていた自分が、馬鹿らしく思える。


僕は、湖の上へそっと歩み出した。水面が透明な板のように僕の足を支えて、僕の歩みに合わせて小さな波紋を重ねていく。虹色の光が所々に瞬く様子は、穏やかな午後の陽だまりのようだった。

宰相が身を乗り出すように身じろぐと、銀色の鎖がさらにその身体に食い込んでいるのが見えた。痛みに顔を顰めながらも、その歪な口角を上げたままだった。その余裕の理由を、僕は知っている。


「……さあ、これから私をどうする?私は、分かっているぞ。お前に着けた首輪の呪いが、完全に解呪されていないことを」


僕の首輪に残った、最期の呪い。
それは、主人と奴隷が、一心同体であること。
主人が命を落とせば、隷属の首輪をつけた者も命を落とす呪いだ。

古の術具、『隷属の首輪』には一つ、欠点があった。
血の契約は確かに強力で恐ろしいのと同時に、その術者自体にも大きな対価を要求した。この場合は、僕が死んでも、宰相は命を落とすことになる。

そんな諸刃の剣とも言える術具を使用しても、宰相が余裕を見せているのは、暗殺者が僕のことを守っていたから。


レイルが、僕を大切に守り慈しんでいる姿を見ているからだろう。


「私を殺せば、そのガキも死ぬ!……私を殺せないだろう?……ふはっ、ふはははぁぁぁ!!……ぐはっ!……ははっ」

僕とレイルの後ろを、大人しく着いてきていた黒狼のエストが、低い唸り声を上げて水面を蹴った。磔にされた宰相の背後に回り込むと、うるさいとばかりに宰相の背中を鋭利な爪で裂く。鮮血が飛び散った水面は、その穢れた血に水面が汚れることさえ許さないとばかりに、血を一瞬で透明な水へと浄化していく。


宰相は、自分が死ぬことはないと、高を括っている。


僕のことをせせら笑う宰相の顔を、まじまじと見上げた。ぎらついた目と、僕の目が合う。目があった瞬間、宰相の顔が驚きの表情へと変わった。


僕は今、きっと穏やかに微笑んでいることだろう。

思えば、宰相の前で微笑んだことなど一度もない。自分に怯えた姿しか見せたことのない弱者が、余裕の笑みで微笑んでいる摩訶不思議さに心底驚いているようだ。
そんな様子も、僕にはどうでもよかった。


背中越しに、愛しい人が双剣を構えた気配がした。本当は気配を消すことも出来るのに、あえて僕に存在を分からせてくれる。不器用でも優しく、何よりも僕の愛を受け入れてくれた人。


宰相を見上げながら、僕はコートの懐に右手を差し込んだ。冷たく硬い感触を確かめると、その繊細な持ち手部分を握って、すらりと長い銀色のものを取り出した。この時のために、きっとセレーネは僕に託してくれたんだ。


宰相は意味が分からないと言った表情で、僕を見つめている。

繊細な彫刻の飾りには、深紅の宝石が嵌めこまれ光を瞬いている。僕は、その飾り部分を右手でぎゅっと握り、続いて左手もそれに重ねた。髪に挿す長い部分を、自分へと向けて逆手に持つ。鋭利な先が、僕の身体に向けられていることに気が付いた宰相の顔に、初めて焦りの色が見えた。


「待て、やめろ……」

宰相の制止の言葉は、僕には小さな虫の羽音に聞こえた。


愛しい者には手を下さない。そんな綺麗な恋愛物語をこの悪の元凶である宰相が信じていることに、心底可笑しくて。僕は心で冷笑した。


僕とレイルは、そんな美しい恋愛の感情など、持ち合わせていない。お互いの命を預けて、死さえも愛しい人の手にさしだして。

そんな歪で重く、暗い愛だ。


「……レイル」

レイルの存在を確認するように、僕は愛しい人の名を呼んだ。後ろで静かにレイルが頷いた気配がして、僕は嬉しくて自然と笑みが深くなる。

彼の名前を呼ぶと、どうしてこうも心が満たされるのだろう。


「やめろ……、やめろぉぉぉぉお!!!」

絶叫する宰相の醜悪な顔を見ても、もう何も心は動揺も喜びもしない。ただ穏やかに凪いでいた。

貴方に殺されるなら、僕は何も怖くない。


「___ 愛してる」

その一言を言い終わった直後、僕は勢いよくかんざしを自分の左胸に突き立てた。手に肉を刺した柔らかな感触がして、左胸に激痛が走る。左胸の心臓部分に突き立てたかんざしは、僕の中にあったセレーネの魂の膜を通り越して、僕の心臓を貫いた。

口から出た血飛沫が舞うのを捉えた瞬間、僕の背中にすっと冷たいものが入り込んできた。

さすが凄腕暗殺者。痛みなんて全く感じないほど、身体が柔らかいものだったと錯覚するほどにするりと僕の背中から身体を深々と刺した。その切っ先が、僕の身体の中で硬い何かをも貫いている。


心臓の近くで、パキっという小さな破壊音が響いた気がした。レイルの剣は、僕の中にあった呪いの宝珠『暗黒の種』を確かに貫いていた。

意識が遠のいていく。視界さえもぼやけた中で、磔の上から赤黒い血が流れ伝っているのが見えた。どうやら、あいつも僕と同じく命を落としたらしい。ざまあみろ、と朦朧とする意識で毒づいた。


レイルの剣が身体から引き抜かれた勢いで、僕の身体も後ろに傾いていく。よろめく背中を危なげなく受け止めたそのぬくもりに、僕は甘えるように力の入らない頭を預けた。胸に回された鍛えられた腕は、壊れ物を触るかのように優しく僕の身体を抱きしめる。


「サエ」

愛しい人に名前を呼ばれているのに、もう返事もできない。力の入らない僕の顎先を持つと、レイルは後ろから僕の唇に優しくキスを落とした。掠れていく視界に、陽に輝く銀色の髪と深紅の中に黄金が混じった至極の宝石が見えて、僕は満足だと目を閉じる。


「俺も、サエを愛してる」

レイルに耳元で呟かれて、僕の胸に愛しさが溢れてくる。僕だけに聞こえるように静かながらに真摯に呟かれた言葉は、派手さを好まない彼らしい伝え方だなと思った。

愛しい人の胸の中に抱かれながら、陽だまりの光を浴びる湖へ僕とレイルの身体は沈んでいった。




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