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本編
14.大人しく閉じ込められているような女じゃないから
しおりを挟む「死臭がすごい……」
マーカムの自宅を囲む塀の傍で、フレッドが呟いた。
「死臭って……動物の? それとも……人間の……?」
「たぶん、動物のものだと思いますけど」
「じゃあ、博士が在宅してるかどうかはわかる?」
「……すみません、ちょっと……」
この悪臭ではよくわからないとフレッドが言う。建物の裏手に回ったとき、エミリアの鼻にも腐敗臭が届いた。思わず顔を顰め、スカーフで口元と鼻を覆う。
マーカムの自宅は住宅街のはずれ、さらに周囲の民家から少し離れた場所に建っており、多少の物音や悪臭が気づかれることはなさそうだった。
外から確認できる範囲では、明かりが灯っておらず中に人がいる様子は窺えない。裏門には木の扉がついていたが鍵はかかっていなかった。それが軋まないようにそっと開け、二人で敷地の中へ入る。
建物の裏口の傍にはゴミ箱と思しき木箱が置いてあったが、そこからひどい臭いが漂っていた。フレッドは木箱のふたを開け──そして顔を背けながらすぐにそれを閉めた。
「な、何……? 何が入ってたの……?」
小声でそう訊ねたが、フレッドは首を振る。
「見ないほうがいいです……あっ、エミリアさん」
せめて何が入っているのか教えてほしいものである。そんな勿体ぶったことを言われては見てみたくなるだけだ。フレッドの制止を聞かずにエミリアは木箱のふたを開け、ランプで照らしながら中を覗き込んだ。白っぽいものが折り重なるように入っている。
「何……これ……?」
「……たぶん、骨です」
「……!!」
エミリアはいったん蓋を閉めたが、思い直してもう一度覗き込んだ。
「……人間のじゃないわよね……やっぱり、狼の……?」
「ええ、おそらくは」
マーカムが狼の何を研究しているのか知らないが、ずいぶんな扱いだと思った。彼が人狼であるならば、なおさら。
建物の裏口の鍵は、エミリアが複製した鍵の一つで開けた。
中は真っ暗だ。フレッドのほうは目が見えているようだがエミリアはそうではない。ランプの灯りを極限まで絞って、彼の後に続く。
一階はキッチン、リビング、そして客間と寝室。テーブルにグラスや雑誌が置きっぱなしになっていたりはしたが、それ以外は散らかっているという感じではない。ごく普通の民家だ。
だが二階に繋がる階段の前にやってきたとき、フレッドが「どこかで嗅いだ匂いがする……」と呟いた。彼は鼻をくんくんとさせながら周囲を見まわし、ある一点で視線を留めた。彼に倣ってエミリアもそちらを見る。そしてぎくりとした。
階段の下にキャビネットが置いてある。普通はそこに花瓶なんかを飾るのだろう。だが、花瓶の代わりに大きな鉤爪が鎮座していた。
手首に装着する武器だ。鉄製の手甲から、長い爪が伸びている。それは大型の獣の爪のように厚みがあって、でも、先は鋭く加工されている。
「な、何……これ……?」
エミリアは鉤爪にランプを近づけた。
「この爪から……ジーン・オルコットの血の匂いがします……博士の匂いも……いろいろ、混じってる……」
ほぼ同時にフレッドが呟く。
エミリアは彼を振り返り、それからもう一度鉤爪を照らした。
メラニー・トレンチの殺害現場に残された爪痕を思い起こす。これを手に装着して、振り下ろしたら……あの位置に、ああいう痕がつくのではないだろうか。
「え……これが、凶器ってこと……?」
四足歩行の獣の爪痕にしては不自然な位置だった。これで殺人を犯していたというのならば、いずれの死体にも牙の痕がなかったことに説明がつく。でも、人狼なのになぜ、自前の爪を使わないのか。もしかして、博士は人狼ではない……? ……だとしたらエミリアのフェロモンに反応したのは、どういうことなのだろう?
「え……? え……?」
「俺も、混乱してます。けど……連続殺人に博士が関わっているのは間違いないでしょう」
「うん……これ、証拠になるよね」
これが凶器なのだとしたら「人狼の存在を立証」する必要がない。大きな収穫だ。エミリアは鉤爪をスカーフで包み、持ってきたカバンの中に入れた。
ぴちゃん、ぴちゃん……と、地下のほうから水の滴る音がする。だがフレッドは階段の上に顔を向けた。
「嗅いだ覚えのある匂いが、二階のほうから漂ってきます。俺は行ってみますけど……」
「私も行く」
「はい。でも、エミリアさん。気を付けてください。これはちょっと……ただ事ではない」
「うん」
エミリアが頷くと、フレッドは階段をのぼりはじめる。
階段をのぼり切った正面は壁が窪んでいて小さなアルコーブとなっており、本来は絵画や花瓶が飾られるスペースのようだった。けれども。
フレッドはキャビネットに置かれた黒っぽい布をそっと手に取った。
「色々な人の血が染み込んでる……」
布を広げていくと、それは外套だった。
マーカムはこの外套を羽織り、あの爪を装着して殺人を犯していたのだろうか。
これも証拠になるかもしれない。エミリアはそれをフレッドから受け取り、カバンの中へ突っ込む。
フレッドは二階の奥に目をやった。
「何か……匂いがしませんか? お香みたいな……」
「そう? 私には悪臭しかわからないけど」
エミリアは悪臭以外の香りを期待して鼻をひくひくさせたが、フレッドの言うような匂いは嗅ぎ取れなかった。
「けっこう、強い香りだと思うんですけど……匂いませんか」
「うん、全然わからない。いい香りなの?」
「ええ。悪臭と混ざらなければ、いい香りなんだと思います」
「それって……あの奥の部屋にものすごく臭う何かが置いてあったりするんじゃない? で、消臭のためにお香を焚いているとか……?」
人間の死体でもあれば捜査は劇的に進むのだが、裏口のゴミ箱の中身から察するに、おそらくは狼の死体なのだと思う。
「いちおう、確かめてみましょう」
フレッドがそう言って奥の部屋へ向かう。
「ああ……お香の匂いが強くなってきます。エミリアさん、あなたから香るフェロモンに、ちょっとだけ似てる匂いです」
「そうなの? 全然わかんないや……」
悪臭でエミリアの鼻がマヒしているのか、普通の人間には嗅ぎ取れないだけなのか、それはわからない。だがフレッドは香りにおおいに反応している。
そして奥の部屋の前に辿り着くと、彼はゆっくりと扉を開けた。
「うわ、やっぱりこの部屋から匂ってます。むせ返るような……」
少し煙たいと感じるだけで、エミリアには何もわからなかった。部屋に何があるのかを確かめるべく、ランプの灯りを大きくしたところで、フレッドががくりと膝をついた。
「えっ? どうしたの? だ、大丈夫?」
「エ……ミリアさん……逃げてください……これ……まずい……」
「な、何!?」
彼はこれ以上香りを吸い込むまいとしたのか、腕で鼻を覆う。しかし遅かったようだ。
「これ……たぶん、俺にしか……エミリアさん、逃げて……逃げ…………」
言い終わらないうちにフレッドは床に突っ伏してしまう。
「え、ね、ねえ、フレッド!?」
返事はない。彼の意識はないようだ。
──これ……たぶん、俺にしか……
ひょっとして、人狼にしか効かない何かだったのだろうか?
だとしたら、罠を張られていたのかもしれない。フレッドを連れてここから脱出しなくては。
フレッドの腕を自分の肩に回すことができれば、引き摺って歩けるかもしれない。そう考えて彼の身体を起こそうと試みたとき、側頭部に衝撃が走った。
エミリアは頭を押さえてしゃがみ込んだが、瞬きする毎に目がチカチカして、自分は殴られたのだと悟る。
「もしかして、僕の家の鍵、盗んで複製しました?」
頭上でマーカムの声がした。
「盗んだ後、自分の匂いがしないように細工したでしょう? だから、誰かが鍵に触れたことはわかったんです。エミリアさんか、フレッド君だったらいいな~って、思ってたんですよね」
「え、な……あんた……」
「これはね、僕が狼を捕まえるときに使うお香です。マタタビが猫に効くみたいに、イヌ科の動物に効果のあるものを作りたかったんですよね」
エミリアは座り込んだままマーカムを睨みつけたが、彼はなんでも無さそうに部屋の中を突っ切り、奥の棚に置いてあった香炉を持ち上げる。
「それで、研究したんです。二十種類以上の薬草を粉にして、練ったものなんですが……すごいですよ。狼のねぐらの近くで焚くと、面白いくらいバタバタ倒れていくんですから。なるほど、フレッド君にもばっちり効くようだ」
そうやって狼を捕らえ、ゴミ箱の中に入っていた骨のような状態にしているというのだろうか。マーカムは満足そうに香炉に鼻を近づける。
彼には香りの効果はないようだ。ということは人狼ではない。
けれどもエミリアのフェロモンには気づいていた。ということは人狼である。
いったい、どういうことなのだろう……。
マーカムの正体について考えを巡らせていると、彼はエミリアの腕を捻りあげる。
「痛っ……!!」
「フレッド君を連れてきてくれてありがとうございます。もう君に用はありません……と言いたいところですが、彼が僕の言うことを聞いてくれなかった場合、必要になるかな……」
「痛い、痛いってば……! 放してよ!!」
マーカムは見かけによらず力が強い。頭を殴られてふらついている状態のエミリアは、簡単に引きずられて行ってしまう。
彼は地下まで降りると、頑丈な扉を開け、その中にエミリアを放り込んだ。
「あっ……」
勢いで床に手をつき、頭の痛みを堪えていると、外側から鍵のしまる音がした。
地下室の中は、これまで以上にひどい臭いがした。ぴちゃん、ぴちゃんと水の滴る音も近くで聞こえる。
エミリアはたすき掛けにしていたカバンの中を探る。ランプは二階に置いてきてしまったが、予備のロウソクを入れていたはずだ。エミリアは手探りでマッチとロウソクを取り出すと、それに火を付け、周囲を照らした。
そして息をのんだ。
首を切られた狼の死体が、いくつもぶら下がっていたからだ。血抜きをしている途中とみられ、滴り落ちた血は床に置かれた盥の中に溜まって、それも溢れはじめている。
聞こえていたのは水の滴る音ではなく、血の滴る音だったのだ。
「な、なによこれ……」
あまりに残酷な光景からエミリアは目を逸らし、マーカムの言葉を思い起こした。
──フレッド君を連れてきてくれてありがとうございます。
マーカムについては未だ謎が多い。
わかっていることと言えば、彼が連続殺人事件の凶器を持っていたこと。
エミリアのフェロモンに反応したこと。けれども狼に効くとされるお香は効かないこと。
そして彼の目的は、フレッドだったこと──。
きっと、マーカムはフレッドをここにおびき寄せたかったのだ。あのとき、机の上にこれ見よがしにカバンを置いていたのは、エミリアに鍵を盗ませたかったのかもしれない。自分はまんまとそれに引っかかってしまった……。
また、こちらの興味を引くような証拠品を点々と配置したのも、香を焚いた部屋に誘い込みたかったからに違いない。
マーカムはフレッドに何をするつもりなのだろう。エミリアはもう一度吊るされた狼を見た。
まさか、こんな風にされてしまうのだろうか……?
「……っ……」
声にならない悲鳴を飲み込み、首を振る。
どうしよう。自分と関わったせいで、フレッドがどんどん危険な目に遭っていく。
「ああ……」
申し訳なくて泣きそうになったが、そうしてしまったらもう二度と立ちあがれない気がする。
エミリアはズキズキ痛む頭を押さえながら、地下室の中を観察した。
そして石の床には、部屋の隅に向かって緩い緩い傾斜がついていることに気づく。いちばん低くなっている場所には金網が被せてあり、下水に繋がっているようだ。
床の掃除をするときに水をぶちまければ、血や汚れは自然と低いところに集まって、下水に流れていくようになっているのだろう。
エミリアはポケットに手を入れ、コインを取り出す。そのコインを使って金網を留めていたネジを外した。
中を覗き込むと、いっそうひどい臭いが立ちこめてきて、エミリアはむせた。だが、以前フレッドがこの家の間取り図を見せてくれたから、この下水がどこにどう繋がっているのかだいたい見当がつく。だから覚悟を決めた。
そうだ。自分は大人しく閉じ込められているような女ではないのだ。いつでも。どんなときでも。
証拠品の一つの外套は濡れるとまずい。それをカバンの中から取り出し、中身を鉤爪だけにする。そして大きく頷き、エミリアは下水に飛び込んだ。
応援ありがとうございます!
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