死んで初めて分かったこと

ルーシャオ

文字の大きさ
3 / 8

第三話

しおりを挟む
 ロザリアに十歳以前の、故郷の記憶はほとんど残っていない。故郷ヴィリジアは貧しく寂しかったという肌感覚だけは、身に染みて覚えている。それだけだ。

 それは、栄華を誇るアルデラ王国王都での刺激的な毎日と、エアル王子に気に入られようと必死で身だしなみから礼儀作法まで学んだ日々がすっかり記憶を上書きし、その努力に報いるように与えられた恥辱と疎外がロザリアの感情や記憶の大半を削っていったからだ。

 しかし、それもすべて無駄だった。アルデラ王国で暮らした五年間、ロザリアはエアル王子や周囲の人々へ悲しみや怒りといった感情を持っても無駄だと諦め、歓心を買うどころか誰の助けも得られないと確信し、まるでいつ来るかも分からない死刑の日を待つ囚人のような気持ちで生きてきただけだった。

 それ以外に、何も考えられない。考えたところでつらくなるだけだと思い至った。

 そうして、せめて礼儀としてエアル王子へ最後の別れを告げてから、死んだつもりだったが——。

 どういうわけか、ロザリアは王城の薄暗い廊下にポツンと立っていた。

 廊下には誰もおらず、採光用の大窓からわずかな星明かりが差し込むのみで、火の点いた燭台は一つも見当たらない。

 徐々にロザリアの朦朧としていた思考は鮮明になっていき、ぼんやりとしていた感覚は冷たい空気に触れるようにはっきりとしてきた。

(ここは……王城よね?)

 あたりを見回せば、なんとなく見覚えのある廊下だった。

 ここはロザリアにあてがわれていた四階の部屋の前、扉の先には最後の記憶のとおりの部屋が残っているはずだ。

 ロザリアは部屋へ足を踏み入れるため、扉のノブに手を触れようとした。

 ところが、ロザリアの右手はするりと通り抜けてしまい、扉のノブを掴めない。

(触れない。ということは、私は……ベランダから落ちて死に、幽霊になったのかしら)

 幽霊ならば、モノに触れられないのも道理だ。そして、幽霊なら扉を開ける必要もなく、ロザリアはそのまま進んで扉を透過し、自分の部屋へ帰ってきた。

 よく考えると廊下の床はすり抜けないのだろうか、とロザリアは心配になったが、どうやら幽霊も壁は自由にすり抜けられないらしい。扉を透過できたのは、『』と認識しているから、かもしれない。

 そんな推測よりも、ロザリアはひとまず、からそのままに放置された部屋の、天蓋付きベッドに腰掛けた。

 王子の婚約者にしては簡素で、質素な部屋だ。クローゼットはなく、粗末な衣装掛けラックが一つ、古いドレッサーが一つ、天蓋付きベッドとスツールが一つずつ、それだけしかない。

 それもそのはずで、この部屋にエアル王子からの贈り物は一つとしてなく、王室から支給される生地やわずかな下賜金で身を整えなくてはならなかったロザリアは、倹約のためほとんど自分で服やドレスを直し、あるいは作っていた。

 もちろん出来栄えはよくないが、人前に出なくなってからはそれでも十分だった。身の回りの世話をする専属のメイドや教師を雇えればよかったが、余計なことをして反感を買いたくなかったのだ。

 ロザリアは何も変わらない部屋に安心を覚え、そして暗澹あんたんとした気持ちになった。

(誰一人として私がいなくなったって困らない。部屋はそのまま、いずれ片付けられて何もなくなり、新しい部屋の主人を迎えることでしょう。それとも、縁起が悪いからと放置されるのかしら。私にはもう関係のないことね)

 王城の人々がロザリアの部屋を放置している意図は分からないものの、どうせ大した意味はないだろう、とロザリアは見切りをつけた。いつだって、嫌われ者は避けられ、無視されるものだ。

 それよりもと、ベッドに背中から倒れ込み、ロザリアは未だこの世に留まる自分の今後について頭を悩ませる。

 人間が死ねば、霊魂は肉体から抜け出してこの世からあの世へ——つまり、冥府へと向かうものだ。しかし、なぜかロザリアは幽霊となって、まだ生前の場所でうろうろとしている。

 これではいけない、だけどどうすればいいのか。

(私は、このままあの世に行くことができないのかしら。早く行ってしまって、この世からいなくなりたいのに)

 ロザリアの脳裏には、ヴィリジアにいた家族の顔さえ浮かばない。十歳という子どもが、異国で孤独にも必死に生きてきたせいで、何もかも忘却の彼方へ押しやってしまったのだ。

 ロザリアの頭に思い浮かぶのは、一度見たら忘れないような好青年のエアル王子、何度か世話になったメイドやエアル王子の側近の顔、そのくらいだ。国王夫妻とも年に一度しか会わなかったため、ぼんやりとしか憶えていなかった。

 あれこれと悩んでいたロザリアは、ふと気配を感じて、ベッドから起き上がる。

 いつの間にか、ベッド脇のスツールにまんまるのお腹をした赤い蛇がいた。その蛇は小さな一対の蝙蝠の翼を持ち、首をもたげると同時にふよふよと空中に浮かぶ。

「やあ、ロザリア」

 やけに可愛らしい声で、まんまるの赤い蛇はロザリアの名を呼んだ。

 ロザリアは驚き、目を見開いてまじまじとまんまるの赤い蛇を見つめる。大きなネズミでも食べてしまったのかと思うほどその腹は丸いし、小さすぎる翼はきっとこの蛇の体を支えられないからただの飾りだろう。

 『翼ある蛇』といえば、超常的な存在としてよく知られている。蛇というだけでも長寿で、脱皮を繰り返す特徴的な生態から永遠と死を司ると看做されることも少なくないし、アルデラ王国でもヴィリジアでも生死を超越した存在として崇められている。

 そんなものがロザリアの眼前に現れて喋っているとなると——いや、幽霊になると奇妙なことがあるのかもしれない、と一旦冷静になって、ロザリアはまんまるの赤い蛇へ問いかけた。

「あなたは?」
「僕はサリーさ。冥府からの使者と思ってくれていい」

 案の定というべきか、まんまるの赤い蛇はこの世のものではなかった。あの世にある死者を統括する『冥府』からの使者、ということは、間違いなくロザリアが死んだのにこの世に留まっていることが関係している。

 急にロザリアは申し訳なくなり、まんまるの赤い蛇へ謝った。

「ああ……ごめんなさい、私は早くあの世へ行かなくてはならないのに、どうすればいいのか分からなくて」
「謝ることはない。君が原因じゃあないからね」

 細く二股に分かれた舌をちろちろと出して、まんまるの赤い蛇こと『サリー』はそう言った。不思議と蛇への恐怖はなく、むしろとぼけた愛らしい仕草のように見える。

 それはともかく、この状況について、冥府からの使者であるサリーはその原因を知っているはずだ。

 そう考えたロザリアは、親切にもおしゃべりなサリーの話へ耳を傾けた。

「君に対して、多大な未練を残している人間がいるのさ。そいつのせいで君はこの世に縛られたままだ。だから、それを解決してから君を冥府へ連れていきたいんだけど……僕一人では不案内だから、君にも協力してもらいたいんだ。頼めるかい?」

 そう言って可愛らしく首を傾げたサリーの言葉が正しければ、であるが、ロザリアとしては協力は願ってもない。

 他にやるべきこともなければ、どうすべきかも分からない以上、ロザリアは冥府からの使者を名乗るまんまるの赤い蛇サリーを信じるほかない。

 それに、死んだなら早くあの世に行かなければいけない理由もある。

「分かりました。私も、いつまでも霊魂のまま漂っていては悪霊になってしまいますから」
「うん、理解が早くて助かるよ。ひとまず、霊魂の君に繋がる因果の糸を巡っていこう」

 どうやら、ロザリアの知る——あの世へ行かず、この世に留まりつづけた死者の霊魂は悪霊になる、という俗信は本当だったようだ。

 ロザリアは悪霊になりたくもなければ、この世に留まりたくもない。一刻も早く、どうしようもなかったこの人生を忘れたいのだ。

 ふよふよと宙に浮かんで飛んでいくサリーに導かれ、ロザリアはためらいなく、かつての自分の部屋を後にした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私を捨てた元旦那様へ。私が第一王子様から求婚されたことを知って、今どんな気分ですか??

睡蓮
恋愛
リナレーはフォルン第二王子との婚約関係を結んでいた。しかしフォルンはある日、リナレーの事を一方的に婚約破棄することを決定する。その裏にあったのはシュヴァル第一王子への妬みであり、フォルンは婚約破棄をすることでシュバルの心を傷つけようと考えていた。しかし、リナレーはその後そのシュバル第一王子と良い雰囲気に包まれはじめ、一方のフォルンは次第に孤立していき、二人の事を妬まずにはいられない日々が続いていくことになるのだった…。

陶器の人形は夢を見る

透明
恋愛
愛人に夢中な王子に愛想をつかして婚約者の侯爵令嬢ソフィアは逃げ出すことを決めた。 王子と愛人はまだ知らない。 自分達に地獄が待っていることを・・・ あなたは私を『陶器の人形』と言うけど陶器の人形にだって感情はあるのよ。

マリアの幸せな結婚

月樹《つき》
恋愛
花屋の一人娘マリアとパン屋の次男のサルバトーレは子供の頃から仲良しの幼馴染で、将来はマリアの家にサルバトーレが婿に入ると思われていた。 週末は花屋『マルゲリータ』でマリアの父の手伝いをしていたサルバトーレは、お見舞いの花を届けに行った先で、男爵家の娘アンジェラに出会う。 病気がちであまり外出のできないアンジェラは、頻繁に花の注文をし、サルバトーレを呼び寄せた。 そのうちアンジェラはサルバトーレとの結婚を夢見るようになって…。 この作品は他サイトにも投稿しております。

選ばれなかった令嬢は、何も選ばずにすべてを手に入れる

ふわふわ
恋愛
婚約破棄された令嬢は、泣き叫ぶことも、復讐を誓うこともなかった。 ただ――何も選ばないことを選んだだけ。 王太子の婚約者という立場。 期待される役割。 戻るべき場所と、果たすべき義務。 そのすべてから静かに距離を置いた彼女は、 誰にも縋らず、誰も恨まず、 「選ばれない」まま生きる道を歩き始める。 すると不思議なことに、 彼女が手放した席は流れ始め、 戻らなかった場所は道となり、 選ばなかった未来は、彼女の背中を押していく――。 これは、 誰かに選ばれることで価値を証明しない、 静かで、確かな“ざまぁ”の物語。 何も選ばなかった令嬢が、 いつの間にかすべてを手に入れていた理由を、 あなたは最後まで見届けることになる。 ――選ばないことで、生きている。

『彼を解放して!』とおっしゃいましたが、何から解放されたいのですか?

シエル
恋愛
「彼を解放してください!」 友人たちと教室に戻ろうとしていると、突如、知らない令嬢に呼び止められました。 「どなたかしら?」 なぜ、先ほどから私が問いかける度に驚いているのでしょう? まるで「え!?私のこと知らないの!?」と言わんばかりですけれど、知りませんよ? どうやら、『彼』とは私の婚約者のことのようです。 「解放して」とおっしゃっいましたが、私の目には何かに囚われているようには見えないのですが? ※ 中世ヨーロッパモデルの架空の世界 ※ ご都合主義です。 ※ 誤字、脱字、文章がおかしい箇所は気付いた際に修正しております。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

双子の姉がなりすまして婚約者の寝てる部屋に忍び込んだ

海林檎
恋愛
昔から人のものを欲しがる癖のある双子姉が私の婚約者が寝泊まりしている部屋に忍びこんだらしい。 あぁ、大丈夫よ。 だって彼私の部屋にいるもん。 部屋からしばらくすると妹の叫び声が聞こえてきた。

処理中です...