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第五話
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ロザリアは、星夜の王宮庭園にいた。
花々は眠り、虫の鳴き声とフクロウの不気味な地鳴きもあって、夜は王宮庭園に近づく者などいない。毎夜毎夜四階から眺めていても、誰一人として立ち入らなかったと知っているロザリアは、今にも泣き出しそうな顔でやってきた。
そのロザリアを追いかけて、少し遅れてサリーもやってくる。まんまるの赤い蛇は、その体躯どおりそれほど速く飛べないらしく、ロザリアへ追いついたころにはフラフラよたよたと疲れ切っている様子だった。
「待ってよ、ロザリア」
「サリー……」
「はあ、疲れた。ほら、あったよ。因果の糸から未練の気持ちが」
サリーは、蛇の口から綿毛のような光を吐き出した。
ロザリアはそばに浮かぶその光を見つめていると、不意に頭の中へ声が響いた。
『なぜ、こんなことになってしまったのだろう。なぜ、殿下と姫をお支えできなかったのか』
それは先ほど聞いたのと同じ、リーガン卿の声だった。
しかし、その悲痛さと深刻さは、まるで先ほどとは異なる。
「これが、リーガン卿の持っていた未練だよ。糸を梳いて集めてきたんだ」
一仕事終えたらしきサリーへ、ロザリアは両手を伸ばして抱える。疲れ切ったサリーを放っておくのは忍びなくなり、つい両手で抱えてしまった。
サリーもまんざらではないらしく、抵抗はしない。むしろ、ロザリアの腕の中で力を抜き、一息ついている。
リーガン卿はやはりというべきか、今の状況を悔いていた。エアル王子と——なぜだかロザリアも一緒に、支えられなかったと未練を残しているようだった。
ただ、ロザリアはそれをこう解釈した。
「……リーガン卿は、何よりもエアル王子が大事で、そのためなら命さえ投げ打ってしまうほどの方だった。だから、私を恨んでおられるのでしょう」
リーガン卿がロザリアへ、お前が死ななければ、と恨みを持つことは別段おかしいことではない。エアル王子の素晴らしい価値をもっとも身近で知る人物であり、その反面、役立たずのロザリアを疎んでいたことだって十分考えられる。
とはいえ、疎んでいたとしても最後までロザリアを利用するつもりはあったのかもしれない。だから突然死なれて困った——エアル王子の評判にも影を落としてしまった、ということだろう。
そうロザリアはそう考えたのに、サリーはあっさりと否定した。
「うーん、これは違うね」
「え?」
「後悔の念、それに無力感。そういう感情ばっかりだよ」
綿毛のようにふわりと、リーガン卿の未練の光は上昇し、小さくなっていく。それを見つめるサリーは、どういうものかすっかり分かっているようだ。
「未練というのはね、死者に対する生者の呪いなんだ。死者が未練を残すんじゃなくて、生者が死者への未練を生む。ときには、『無念にも死者がこう思っただろう』なんて想像までしてしまって、迷惑にも架空の感情を作り出すことさえあるんだ」
光はどんどんと失われていき、やがて夜の闇に溶けた。まるで、リーガン卿の未練も失われてしまったかのように。
冥府からの使者を自認するサリーの説明を聞いても、ロザリアはいまいち半信半疑だった。不思議なことばかり起きても、嫌なことも同時に起きてしまってすんなりとは頭に入ってこない。
ただ、サリーの左手薬指の先から伸びていた太い糸の一つは、消え失せていた。サリーが糸紡ぎ櫛 で梳いて、未練をすっかり掃除してしまったかのようで——どうあれ順調に、事は前へ進んでいる。
サリーに促され、ロザリアはしぶしぶ王城内へ戻った。
細々とした糸たちと、もう一本の綱のような太い因果の糸を消すために、糸の先にいる人物を探さなくてはならない。
サリーを抱っこしたままロザリアは王城の廊下を歩くが、何となく雰囲気がいつもと違うことにやっと気付いた。
王城四階と違い、一階や二階は昼夜問わず人々が出入りし、忙しなく働いているはずだ。しかし、その熱気は感じられず、どこか空気に辛気くささが漂っている。
そんなとき、サリーは通りすがりのメイドと衛兵を尻尾の先で指し示した。すかさず木製の大きな糸紡ぎ櫛をポンと取り出し、ロザリアの指先から伸びる淡く光る因果の糸へ当てる。
「ちょうどいい、あそこのメイドと衛兵にも糸が伸びている。これも覗いちゃえ」
サリーが首を懸命に動かして、細い因果の糸を糸紡ぎ櫛で梳く。
ごく小さな光の粒が、一つ、二つと糸からこぼれ落ち、消えていく。ロザリアは、その光の粒からこんな声を聞いた。
『せっかく殿下が戻ってきたというのに、どうしてこうなってしまったんだ。我が国はこれからどうなってしまうのだろう』
『お祝いだと思って準備していたのに、同僚たちは過労で次々と倒れてしまうし……病気だったらどうしよう、怖いわ』
メイドと衛兵の抱えていた小さな不安と恐怖は、ロザリアへの未練——ロザリアの死に関係あるものだ。
だとすれば、彼らはこう思っている。
「不安だらけだね。彼らは、きっと君が呪いをかけたとでも思っているんじゃない?」
「そんなこと、できるはずがないのに」
「そう、ただの思い込みさ。迷惑だよね、本当に」
糸紡ぎ櫛は因果の糸を梳いて解いて、なくしてしまった。彼らの不安や恐怖もいずれなくなるだろう。
何度かそんなことを繰り返していると、ロザリアの指先に残るのは一本の太い糸だけになった。サリーが糸紡ぎ櫛の歯を入れようとしても、頑として刺さらない。これは直接未練のある本人を探さなくてはならないようだが、ロザリアはどうにもやる気が出ない。
ロザリアの身投げがエアル王子への当てつけならば、この未練の糸を解く作業はロザリアへの当てつけも同然だ。なぜ死んでもつらい思いをしなくてはならないのか、陰鬱とした気分になりつつも、ロザリアは口にしない。
異国の地で、ロザリアは独り五年も耐えたのだ。今更、この程度の感情を制御できずに喚いたりはしない。
サリーを胸の前に抱え、王城のあちこちを歩き回っていたそのときだった。
最後まで残っている太い糸が、くんっ、とロザリアの左手薬指を引っ張った。サリーはそれを見逃さない。
「おっと? 動いているね。これは何か、未練を消すきっかけとなるかも」
「では、追いましょう」
薬指を引っ張る方向へと、ロザリアの足は向く。時間を経るごとに王城の廊下は蝋燭が尽きてゆき、ほの暗さを増していく。
ロザリアに恐怖はない、先ほどまでの後悔も少し落ち着いてきた。それは、サリーが話しかけてくれるおかげでもあった。
「君は、若くして死んだのに冷静だね? 大体、行き場を失った霊魂は落ち込んで話にもならなかったりするのに」
率直なサリーの言葉に、ロザリアは苦笑する。
「生きていても、死んでいたようなものです。やっと死という救いを得て安堵しているのです」
「ふぅん。強がりじゃないみたいだね」
サリーの蛇の舌が、控えめに空気を舐めていた。蛇は舌先が鋭敏で、空気を舐めるように動かすことで様々な外界の情報を得ているという。サリーもきっと、それで人間の感情や未練の中身を読み取っているのだろう。
「未練という生者の呪いは、死者を縛りつける。死んでなお安らかに冥府の門をくぐれないなんて、あまりにもひどいことだ。だから僕みたいな使者がいて、君のような霊魂を未練の呪縛から解き放つんだ。とはいえ」
サリーは一度、大きく舌を震わせた。
ロザリアを引っ張る因果の糸は、古びて朽ちていくようにポロポロと光をこぼしはじめていたのだ。それでも太さは変わらず、ロザリアを引っ張る力も健在だ。
やがて、ロザリアたちは王城の端のほうへと辿り着いた。長大な城壁の中でも、普段はあまり使われない催しのための建物や倉庫、そして王族の墓地が立ち並ぶ区画だ。
区画の主のように、三つの尖塔を持った建物が、暗闇の中に現れる。この深夜にここを使う人間はいないだろう——何せ、教会なのだから。
「王城教会、ですか。糸はここに伸びているようですね」
「まったく、この糸の頑丈さったら、さっきのリーガン卿の未練よりもはるかに大きな未練がありそうだよ」
サリーは口にくわえた糸紡ぎ櫛で、糸をペチペチ叩く。
それでもびくともしない因果の糸の先には、何かとんでもない出来事が待ち受けているのではないか。ロザリアは戦々恐々としつつも、歩みを止めない。
教会の扉は大きな閂でしっかりと閉ざされていたが、幽霊のロザリアには関係なく、するりと中へ透過する。
静謐な、そしてこの国でも有数の格式高い王城教会は、高い場所にいくつも設けられた窓から、外の星明かりが差し込んでいた。
ロザリアの左手薬指から伸びる糸は、祭壇の前の床に安置された棺へと繋がっている。一方で、そこからもまた別の場所へと伸びる糸があった。
信じがたいことに、棺を介して別の場所へ伸びる糸が、ロザリアを引っ張ってきていたのだ。
言わば、棺の中のモノに因果の糸は引っかかっているだけで——では、中には何が入っているのか。
薄々気づきながらも、ロザリアは確認のためにサリーへ問う。
「サリー……ひょっとして、あの棺は」
サリーは断言した。
「うん、棺の中には君の死体がある。でも、これ以上近づいちゃいけないよ」
「どういうことですか?」
「通常なら、霊魂と死した肉体を一番太い因果の糸が結んでいるものだ。でも、大きな未練から伸びた別の糸が横からそれごと絡め取って、無理矢理君をこの世に縛りつけているんだ。こんなこと滅多にないよ、君もまとめて絡め取られないよう気を付けて」
そこまで言われては、ロザリアは自身の棺に近づく気は失せたし、何なら今すぐ王城教会から
出ていきたくもなった。
そして同時に、疑問も浮かぶ。
「一体、誰が……?」
ロザリアは不審で、不気味でたまらない。
ロザリアとは反対側の糸の先にいるのが一体全体誰だか知らないが、自身に対してそこまでの未練があったのなら、どうして生きているうちに助けてくれなかったのだろうか。
もっとも、死んでからそんなことが分かってもどうにもならない。もう、ロザリアはこの世から旅立ち、冥府へ行く他ないのだから。
ロザリアは、どこか冷めた目で己の棺を見下ろしていた。どうせサリーが何とかしてくれて、自分は未練を残さずあの世へ行けるだろう。そんな根拠のない楽観にも似た諦観が、わずかに首をもたげつつあった期待を否定するために使われる。
サリーが、また奇妙な道具をどこからともなく取り出した。今度は小さな金の糸紡ぎ車だ。ロザリアとは反対側の、棺から伸びる光る因果の糸を勢いつけて引っ張り、ひとりでに浮かぶ紡錘へと強引に巻きつけていく。
本来の使い方よりもずいぶん乱暴に糸を紡ぎ引っ張る小さな金の糸紡ぎ車は、激しく回転しながら未練に塗れた因果の糸を細くする。その際に火花のように光の粒があちこちに飛んでは消えていくが、その量はまったく減る気配はない。
「ここまで未練が強い糸なら、思いっきり糸紡ぎ車で引っ張ったって大丈夫。もうじき相手が来るよ。少し待とう」
「……はい」
サリーはそう言って、教会に並ぶ最前列右側の長椅子へぽふんと落ち、転がった。ロザリアはその隣に腰掛ける。
空中で回る糸紡ぎ車を眺めながら、亡き王女ロザリアと冥府からの使者サリーの奇妙なおしゃべりは始まった。
「君は、人生への未練が本当にないの?」
「ええ。私の居場所はどこにもありませんでしたし、故郷から離れて久しいものですから……何も、思い出が残っていません。華やかな都市の生活も、貧しいながらも楽しかったはずの生活も、父や母の顔も、アルデラ王城の人々の顔も、何も残っていないのです」
「そうなんだね」
「寂しい人生だったと思いますか?」
「いいや、そんなことを言ってしまったら、人間誰しも寂しいものさ。孤独の中で生きる喜びを得た賢者も、豪華な屋敷で満たされない欲望に悩む老人も、親に捨てられた子どもも、恋人を突然の病で失った乙女も、寂しいわけじゃあない。だって、いちいちその人生に意味を見出す必要はないからね」
「それは、その人たちに、価値がないから?」
ううん、とサリーは頭を横に振る。
「君たちはすぐに価値を欲するけど、その考えが間違っていると思ったりはしないんだよね。昔からそうだ、王様も貧乏人も老若男女誰しもが、価値があっただの、役に立った立たなかっただのそんなことばかり言って、人生の総決算をしようとする。もっとずっと、答えが出ないまま悩めばいいのにね」
ロザリアは何も言えなかった。
しかし、ちょうどサリーは来訪者の気配に気付き、長椅子からふよんと浮かんで振り返る。
「ほら、来たよ。あいつが、未練という呪いで君を縛っている張本人だ」
ロザリアもサリーに倣い、腰を上げて背後へ振り返った。
王城教会の扉の片方が開き、一人の男性が静かにやってくる。
その姿は、あまりにもロザリアの記憶と違っていて、一瞬見間違いかと思ったほどだ。焦燥し切った目つき、不安定な足取り、抱えた箱を今にも落としそうなやつれた顔つき。
逡巡した末に、ロザリアはついに彼の名を口にした。
「エアル王子……?」
輝ける金髪と溢れんばかりの才気に彩られていたはずのエアル王子は、幽霊のロザリアよりもよほど悪霊じみた、異様な雰囲気をまとっていた。
花々は眠り、虫の鳴き声とフクロウの不気味な地鳴きもあって、夜は王宮庭園に近づく者などいない。毎夜毎夜四階から眺めていても、誰一人として立ち入らなかったと知っているロザリアは、今にも泣き出しそうな顔でやってきた。
そのロザリアを追いかけて、少し遅れてサリーもやってくる。まんまるの赤い蛇は、その体躯どおりそれほど速く飛べないらしく、ロザリアへ追いついたころにはフラフラよたよたと疲れ切っている様子だった。
「待ってよ、ロザリア」
「サリー……」
「はあ、疲れた。ほら、あったよ。因果の糸から未練の気持ちが」
サリーは、蛇の口から綿毛のような光を吐き出した。
ロザリアはそばに浮かぶその光を見つめていると、不意に頭の中へ声が響いた。
『なぜ、こんなことになってしまったのだろう。なぜ、殿下と姫をお支えできなかったのか』
それは先ほど聞いたのと同じ、リーガン卿の声だった。
しかし、その悲痛さと深刻さは、まるで先ほどとは異なる。
「これが、リーガン卿の持っていた未練だよ。糸を梳いて集めてきたんだ」
一仕事終えたらしきサリーへ、ロザリアは両手を伸ばして抱える。疲れ切ったサリーを放っておくのは忍びなくなり、つい両手で抱えてしまった。
サリーもまんざらではないらしく、抵抗はしない。むしろ、ロザリアの腕の中で力を抜き、一息ついている。
リーガン卿はやはりというべきか、今の状況を悔いていた。エアル王子と——なぜだかロザリアも一緒に、支えられなかったと未練を残しているようだった。
ただ、ロザリアはそれをこう解釈した。
「……リーガン卿は、何よりもエアル王子が大事で、そのためなら命さえ投げ打ってしまうほどの方だった。だから、私を恨んでおられるのでしょう」
リーガン卿がロザリアへ、お前が死ななければ、と恨みを持つことは別段おかしいことではない。エアル王子の素晴らしい価値をもっとも身近で知る人物であり、その反面、役立たずのロザリアを疎んでいたことだって十分考えられる。
とはいえ、疎んでいたとしても最後までロザリアを利用するつもりはあったのかもしれない。だから突然死なれて困った——エアル王子の評判にも影を落としてしまった、ということだろう。
そうロザリアはそう考えたのに、サリーはあっさりと否定した。
「うーん、これは違うね」
「え?」
「後悔の念、それに無力感。そういう感情ばっかりだよ」
綿毛のようにふわりと、リーガン卿の未練の光は上昇し、小さくなっていく。それを見つめるサリーは、どういうものかすっかり分かっているようだ。
「未練というのはね、死者に対する生者の呪いなんだ。死者が未練を残すんじゃなくて、生者が死者への未練を生む。ときには、『無念にも死者がこう思っただろう』なんて想像までしてしまって、迷惑にも架空の感情を作り出すことさえあるんだ」
光はどんどんと失われていき、やがて夜の闇に溶けた。まるで、リーガン卿の未練も失われてしまったかのように。
冥府からの使者を自認するサリーの説明を聞いても、ロザリアはいまいち半信半疑だった。不思議なことばかり起きても、嫌なことも同時に起きてしまってすんなりとは頭に入ってこない。
ただ、サリーの左手薬指の先から伸びていた太い糸の一つは、消え失せていた。サリーが糸紡ぎ櫛 で梳いて、未練をすっかり掃除してしまったかのようで——どうあれ順調に、事は前へ進んでいる。
サリーに促され、ロザリアはしぶしぶ王城内へ戻った。
細々とした糸たちと、もう一本の綱のような太い因果の糸を消すために、糸の先にいる人物を探さなくてはならない。
サリーを抱っこしたままロザリアは王城の廊下を歩くが、何となく雰囲気がいつもと違うことにやっと気付いた。
王城四階と違い、一階や二階は昼夜問わず人々が出入りし、忙しなく働いているはずだ。しかし、その熱気は感じられず、どこか空気に辛気くささが漂っている。
そんなとき、サリーは通りすがりのメイドと衛兵を尻尾の先で指し示した。すかさず木製の大きな糸紡ぎ櫛をポンと取り出し、ロザリアの指先から伸びる淡く光る因果の糸へ当てる。
「ちょうどいい、あそこのメイドと衛兵にも糸が伸びている。これも覗いちゃえ」
サリーが首を懸命に動かして、細い因果の糸を糸紡ぎ櫛で梳く。
ごく小さな光の粒が、一つ、二つと糸からこぼれ落ち、消えていく。ロザリアは、その光の粒からこんな声を聞いた。
『せっかく殿下が戻ってきたというのに、どうしてこうなってしまったんだ。我が国はこれからどうなってしまうのだろう』
『お祝いだと思って準備していたのに、同僚たちは過労で次々と倒れてしまうし……病気だったらどうしよう、怖いわ』
メイドと衛兵の抱えていた小さな不安と恐怖は、ロザリアへの未練——ロザリアの死に関係あるものだ。
だとすれば、彼らはこう思っている。
「不安だらけだね。彼らは、きっと君が呪いをかけたとでも思っているんじゃない?」
「そんなこと、できるはずがないのに」
「そう、ただの思い込みさ。迷惑だよね、本当に」
糸紡ぎ櫛は因果の糸を梳いて解いて、なくしてしまった。彼らの不安や恐怖もいずれなくなるだろう。
何度かそんなことを繰り返していると、ロザリアの指先に残るのは一本の太い糸だけになった。サリーが糸紡ぎ櫛の歯を入れようとしても、頑として刺さらない。これは直接未練のある本人を探さなくてはならないようだが、ロザリアはどうにもやる気が出ない。
ロザリアの身投げがエアル王子への当てつけならば、この未練の糸を解く作業はロザリアへの当てつけも同然だ。なぜ死んでもつらい思いをしなくてはならないのか、陰鬱とした気分になりつつも、ロザリアは口にしない。
異国の地で、ロザリアは独り五年も耐えたのだ。今更、この程度の感情を制御できずに喚いたりはしない。
サリーを胸の前に抱え、王城のあちこちを歩き回っていたそのときだった。
最後まで残っている太い糸が、くんっ、とロザリアの左手薬指を引っ張った。サリーはそれを見逃さない。
「おっと? 動いているね。これは何か、未練を消すきっかけとなるかも」
「では、追いましょう」
薬指を引っ張る方向へと、ロザリアの足は向く。時間を経るごとに王城の廊下は蝋燭が尽きてゆき、ほの暗さを増していく。
ロザリアに恐怖はない、先ほどまでの後悔も少し落ち着いてきた。それは、サリーが話しかけてくれるおかげでもあった。
「君は、若くして死んだのに冷静だね? 大体、行き場を失った霊魂は落ち込んで話にもならなかったりするのに」
率直なサリーの言葉に、ロザリアは苦笑する。
「生きていても、死んでいたようなものです。やっと死という救いを得て安堵しているのです」
「ふぅん。強がりじゃないみたいだね」
サリーの蛇の舌が、控えめに空気を舐めていた。蛇は舌先が鋭敏で、空気を舐めるように動かすことで様々な外界の情報を得ているという。サリーもきっと、それで人間の感情や未練の中身を読み取っているのだろう。
「未練という生者の呪いは、死者を縛りつける。死んでなお安らかに冥府の門をくぐれないなんて、あまりにもひどいことだ。だから僕みたいな使者がいて、君のような霊魂を未練の呪縛から解き放つんだ。とはいえ」
サリーは一度、大きく舌を震わせた。
ロザリアを引っ張る因果の糸は、古びて朽ちていくようにポロポロと光をこぼしはじめていたのだ。それでも太さは変わらず、ロザリアを引っ張る力も健在だ。
やがて、ロザリアたちは王城の端のほうへと辿り着いた。長大な城壁の中でも、普段はあまり使われない催しのための建物や倉庫、そして王族の墓地が立ち並ぶ区画だ。
区画の主のように、三つの尖塔を持った建物が、暗闇の中に現れる。この深夜にここを使う人間はいないだろう——何せ、教会なのだから。
「王城教会、ですか。糸はここに伸びているようですね」
「まったく、この糸の頑丈さったら、さっきのリーガン卿の未練よりもはるかに大きな未練がありそうだよ」
サリーは口にくわえた糸紡ぎ櫛で、糸をペチペチ叩く。
それでもびくともしない因果の糸の先には、何かとんでもない出来事が待ち受けているのではないか。ロザリアは戦々恐々としつつも、歩みを止めない。
教会の扉は大きな閂でしっかりと閉ざされていたが、幽霊のロザリアには関係なく、するりと中へ透過する。
静謐な、そしてこの国でも有数の格式高い王城教会は、高い場所にいくつも設けられた窓から、外の星明かりが差し込んでいた。
ロザリアの左手薬指から伸びる糸は、祭壇の前の床に安置された棺へと繋がっている。一方で、そこからもまた別の場所へと伸びる糸があった。
信じがたいことに、棺を介して別の場所へ伸びる糸が、ロザリアを引っ張ってきていたのだ。
言わば、棺の中のモノに因果の糸は引っかかっているだけで——では、中には何が入っているのか。
薄々気づきながらも、ロザリアは確認のためにサリーへ問う。
「サリー……ひょっとして、あの棺は」
サリーは断言した。
「うん、棺の中には君の死体がある。でも、これ以上近づいちゃいけないよ」
「どういうことですか?」
「通常なら、霊魂と死した肉体を一番太い因果の糸が結んでいるものだ。でも、大きな未練から伸びた別の糸が横からそれごと絡め取って、無理矢理君をこの世に縛りつけているんだ。こんなこと滅多にないよ、君もまとめて絡め取られないよう気を付けて」
そこまで言われては、ロザリアは自身の棺に近づく気は失せたし、何なら今すぐ王城教会から
出ていきたくもなった。
そして同時に、疑問も浮かぶ。
「一体、誰が……?」
ロザリアは不審で、不気味でたまらない。
ロザリアとは反対側の糸の先にいるのが一体全体誰だか知らないが、自身に対してそこまでの未練があったのなら、どうして生きているうちに助けてくれなかったのだろうか。
もっとも、死んでからそんなことが分かってもどうにもならない。もう、ロザリアはこの世から旅立ち、冥府へ行く他ないのだから。
ロザリアは、どこか冷めた目で己の棺を見下ろしていた。どうせサリーが何とかしてくれて、自分は未練を残さずあの世へ行けるだろう。そんな根拠のない楽観にも似た諦観が、わずかに首をもたげつつあった期待を否定するために使われる。
サリーが、また奇妙な道具をどこからともなく取り出した。今度は小さな金の糸紡ぎ車だ。ロザリアとは反対側の、棺から伸びる光る因果の糸を勢いつけて引っ張り、ひとりでに浮かぶ紡錘へと強引に巻きつけていく。
本来の使い方よりもずいぶん乱暴に糸を紡ぎ引っ張る小さな金の糸紡ぎ車は、激しく回転しながら未練に塗れた因果の糸を細くする。その際に火花のように光の粒があちこちに飛んでは消えていくが、その量はまったく減る気配はない。
「ここまで未練が強い糸なら、思いっきり糸紡ぎ車で引っ張ったって大丈夫。もうじき相手が来るよ。少し待とう」
「……はい」
サリーはそう言って、教会に並ぶ最前列右側の長椅子へぽふんと落ち、転がった。ロザリアはその隣に腰掛ける。
空中で回る糸紡ぎ車を眺めながら、亡き王女ロザリアと冥府からの使者サリーの奇妙なおしゃべりは始まった。
「君は、人生への未練が本当にないの?」
「ええ。私の居場所はどこにもありませんでしたし、故郷から離れて久しいものですから……何も、思い出が残っていません。華やかな都市の生活も、貧しいながらも楽しかったはずの生活も、父や母の顔も、アルデラ王城の人々の顔も、何も残っていないのです」
「そうなんだね」
「寂しい人生だったと思いますか?」
「いいや、そんなことを言ってしまったら、人間誰しも寂しいものさ。孤独の中で生きる喜びを得た賢者も、豪華な屋敷で満たされない欲望に悩む老人も、親に捨てられた子どもも、恋人を突然の病で失った乙女も、寂しいわけじゃあない。だって、いちいちその人生に意味を見出す必要はないからね」
「それは、その人たちに、価値がないから?」
ううん、とサリーは頭を横に振る。
「君たちはすぐに価値を欲するけど、その考えが間違っていると思ったりはしないんだよね。昔からそうだ、王様も貧乏人も老若男女誰しもが、価値があっただの、役に立った立たなかっただのそんなことばかり言って、人生の総決算をしようとする。もっとずっと、答えが出ないまま悩めばいいのにね」
ロザリアは何も言えなかった。
しかし、ちょうどサリーは来訪者の気配に気付き、長椅子からふよんと浮かんで振り返る。
「ほら、来たよ。あいつが、未練という呪いで君を縛っている張本人だ」
ロザリアもサリーに倣い、腰を上げて背後へ振り返った。
王城教会の扉の片方が開き、一人の男性が静かにやってくる。
その姿は、あまりにもロザリアの記憶と違っていて、一瞬見間違いかと思ったほどだ。焦燥し切った目つき、不安定な足取り、抱えた箱を今にも落としそうなやつれた顔つき。
逡巡した末に、ロザリアはついに彼の名を口にした。
「エアル王子……?」
輝ける金髪と溢れんばかりの才気に彩られていたはずのエアル王子は、幽霊のロザリアよりもよほど悪霊じみた、異様な雰囲気をまとっていた。
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