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第七十一話

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 翌日、王城。

 サナシスの執務室へ、秘書官のイオエルが息を切らしながらやってきた。

「殿下! 大変です!」

 いつも冷静な秘書官があまりにも必死な形相をしている。サナシスは積み上がった書類の壁の隙間からその様子を見たが、それでも自分をわずらわせる案件がまた来たのか、とこの時点ではうんざりしていた。

「何だ。今俺が忙しいことくらい知っているだろう」
「それどころではありません、急ぎいらしてください。ヘリオス様が出歩かれているのです」

 サナシスは前言撤回、とばかりに思いっきり立ち上がり、そのまま早足で執務室から飛び出した。

 兄のヘリオスは王城の廊下を歩くことすら珍しい。温室庭園と自室は繋がっているし、光が多く差し込む王城の廊下は彼にとって厳しい環境だ。以前サナシスが目にしたときは、特殊な傘とヴェール、全身を覆うローブすら着けての行動だったほどだ。

 それが、イオエルに連れられてヘリオスがいるという場所に辿り着くと——ヘリオスは、ヴェールこそ着けているが、平然と明るい廊下の真ん中に立っていた。自身にとっては毒に等しい、陽の光を浴びても何ともない、というふうに。

 ヘリオスの白銀の髪が溢れんばかりに輝き、神々しささえ感じられる。現に、周囲にいる官僚やメイドたちは、ヘリオスの美しさに気を取られていた。無理もない、ただでさえ普段目にすることのない存在が、満を辞したとばかりに、まるで熟達した絵師が神話の光り輝く一場面を精密に描いた絵画の中から出てきたかのようにそこにいるのだから。

 サナシスは、我が目を疑った。しかし何度見直しても、そこにいるのは兄のヘリオスだ。

「あ、兄上?」

 ヘリオスはサナシスを手招きする。

「遅かったな、サナシス。だがちょうどいい、来い」
「何をなさるのですか、いえ、それよりもお身体は」
「無用な心配だ。お前にも立ち会わせねばならないと思っていた」

 そのまま、ヘリオスは歩きはじめた。どこへ行くのか、と問うこともできないほど、サナシスは驚きすぎてヘリオスの一挙手一投足に目が奪われている。

 兄と弟が王城の廊下を並んで歩くことさえ、初めてのことだった。ヘリオスは先導役のメイドに従い、目的地へとまっすぐ進んでいく。

 そして辿り着いたのは、ステュクス王国国王の寝室だ。病床にある国王は、今はほぼ寝室から出てこない。覚醒と昏睡を繰り返し、状態は良くも悪くもならない、そんな有様だった。

 だが、今日は違った。

 ヘリオスが国王の寝室へと入る。サナシスもその後ろをついていく。

 すると、中にいた医師たち、看護の従者、メイドたちが一斉にヘリオスを見た。だが、すぐに中央のベッドに横たわる人物へと、視線は戻る。

 白髪混じりの紺色の髪をした老年の男性が、顔色悪く、しかし目は開けていた。国王が起きている、サナシスはそのことにまたしても驚く。

 打って変わり、ヘリオスは当然、とばかりに国王へ話しかける。

「国王陛下、お目覚めとあらば、今のうちに一つ承諾を得たいことがございます」

 はっきりと明瞭に、ヘリオスは声を発する。ヘリオスの声はこれほど人の腹に響くような、説得力のある声だったのかと、サナシスは他の人々と同じく、やはり初めて知った。

「私、ヘリオス・ペレンヌスは、自ら第一王子の座を退きます。また、国王健在のうちに玉座をアサナシオスへ禅譲すべきと進言いたします」

 その発言の終了とともに、しん、と場が静まり返る。

 何を言ったのだ、と戸惑う人々は、声も上げられない。サナシスはその言葉の意味を瞬時に理解したせいで、言葉が出ない。

 ヘリオスは、ステュクス王国の王子という身分を辞める、と言ったのだ。それに飽き足らず、国王へサナシスへ王位を渡せ、と迫っている。

 とんでもない状況、考えられなかった場面。誰もが反応できなかったそのとき、国王はしっかりと、頷いた。

「いいだろう。余は執務に耐えられぬ、あとは任せた」

 ただそれだけを言い残し、国王は目を閉じた。ヘリオスの行動を後押しするかのように、その場にいる全員が国王の言葉を聞き、証人となった。

 ヘリオスはくるりとサナシスのほうへ向き直り、シニカルに笑う。

「というわけだ。よかったな、サナシス」

 そうは言われても、サナシスは何一つ納得できていない。物事はあっさりと進み、ヘリオスはぽいと軽々しくサナシスへ重責と国王の地位を持ってきた。

 いくら聡明で知られるサナシスも、この状況にはついていけていない。何を問うべきか、何をすべきか、よく分からないままだ。

「お待ちください! 退くとは、どういうことですか!?」
「ああ、この間言ったことだが、医師によれば誤診ということだ。まあ、常人より寿命が短いことには違いあるまいが」
「ええ……?」
「とにかく、これで私はもうお前と関わらなくてよくなった。せいぜい邁進するがいいさ」

 それだけを言って、ヘリオスは国王の寝室を出た。突っ立ったままのサナシスや唖然とする人々を放って、自らの棲家たる温室庭園へと戻っていく。

 その温室庭園の入り口前に、小柄な少女が立っていた。長い金色の髪を垂らし、青い目は大きく、にっこりと微笑んでいる。全身を覆うチュニックは、彼女のお気に入りだ。

 ヘリオスは笑う。律儀にも待っていたであろう彼女へ、報いなければならない。そのくらいには、機嫌がよかった。

「エレーニ」

 義妹であるエレーニの前に立ち、ヘリオスはいつになく穏やかに、しかしその立場では言ってはならないことを告げる。

「俺は神など信じない」

 ヘリオスの言葉を、エレーニは肯定する。

「ええ、それでいいと思います。運命の悪戯や偶然です、何もかも」
「そうか」

 ヘリオスは、サナシスほどでなくとも聡明な青年だ。すべてではないが、察している。

 こいつが何かをしたのだ。ただ、それを言わない以上は、藪を突くような真似はすまい。

 互いに示し合わせることもなく、ヘリオスとエレーニはそれでいいのだと、ただ現実を受け入れる。

「また温室庭園ここへお伺いしますね」
「もう来るな……と言ったところで来るのだろうな、お前は馬鹿だから」

 ふん、と鼻を鳴らし、ヘリオスは温室庭園へと帰っていく。

 その後ろ姿を、エレーニは眺め、ふふっと満足げに笑った。
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