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第七十二話

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 サナシスは忙しいらしい。

 ここ数日、私はサナシスに会っていない。何やら戴冠の儀を大至急執り行うとか、結婚も早めるとか、色々な話が飛び交っている。メイドから説明してもらったけど、何だかよく分からない。まだ私はステュクス王国のしきたりや慣習に慣れていないせいもあって、いくらか単語も理解できなかった。ショックだ。

 しょうがなく、私はレテ神殿へ行って仕事をしたり、温室庭園のヘリオスに馬鹿馬鹿言われたり、先日のお礼に主神ステュクスと忘却の女神レテに何か捧げようと思って供物を探したり、あちこち歩き回っている。それでも何の危険もなく、日々平穏無事に過ごせているのは、加護のお陰だけじゃなくステュクス王国がとても安全であることを示していると思う。

 私は城下町の花屋で今が時期という白いバラの大きな花束を二つ買って、一つはレテ神殿へ、もう一つは神域アルケ・ト・アペイロンのステュクス神殿へ捧げることにした。以前ニキータからもらった硬貨で十分足りたからよかった、でももう残りはない。どうにか働けば稼げるのかしら。ニキータの仕事を手伝ったりすればもらえるかもしれない。そんなことを考えていた。とても王子妃の考えることではないな、と後で気付いた。

 夕暮れの中、私は赤く染まった王城の廊下を歩く。はるか高い天井まで続くガラスから、余りなく光が廊下を照らしていた。夜は月と星が廊下のシャンデリア代わりとなり、紺碧の床や白い壁がきらめく。朝の白く染まった廊下から深夜の海の底のような廊下まで、すべてが幻想的だ。

 私は広い王城の、神域アルケ・ト・アペイロンにほど近い廊下で待つ。ここは待ち構える絶好の場所なのだ。

 何を待ち構えるかって? それはもちろん。

「ニキータ様!」

 ここなら自室に戻ろうとしたニキータを、ばっちり見逃さずに捕まえられる。

 黒い服装のニキータはこの王城ではよく目立つ。ニキータは立ち止まり、にっこりと愛想よく笑う。

「エレーニ姫、どうなさいましたか……と聞くのも二度目ですね」
「お願いがあってまいりました。何か、手伝えるお仕事はありませんか?」
「それはまたどうしてです?」
「お金が欲しくて」

 私は正直に答えたつもりだった。

 しかし、ニキータにとっては、かなりおかしかったようだ。

「ぶっ、はははは! そう来ましたか!」
「おかしいでしょうか。サナシス様にまたカラマラキア・ティガニタを食べさせたくて」
「なるほど、なるほど。分かりました、これは出世払いでお貸ししましょう」

 そう言って、ニキータは懐からオボルス硬貨を十枚ほど出した。私の手のひらへ一枚ずつ数えて、置いていく。

「まだこの国にも不慣れなエレーニ様は、さすがに金を稼ぐことは控えたほうがいい。ならば、いつか稼げるようになったとき、返してくだされば問題ありません」

 なるほど、そんな方法があるのか。私は感心しきりだった。

「ありがとうございます!」
「いいえ。いつでもお越しくだされば、ニキータ銀行が融資いたしましょう」

 そんなふうにニキータはおどけて、私に手を振って、自室へ入っていった。

 私はオボルス硬貨を握りしめ、明日は食堂タベルナへ行こう、と予定を立てる。私の部屋まで歩いて十分ほど、大分距離はあるけど、もう慣れた。ようやく戻り、一人でささやかな夕食を食べることも、慣れた。

 夕食が済むと、眠くなるまで書斎で本を読む。外国人向けのガイドブック、旅行記のようなものを最近は読んでいる。王城のことも、城下町のことも、これでよく分かってきた。いつか役に立つだろう、そう願っている。

 以前の、修道院にいたころの私なら、夜は物思いに耽る時間だった。何を考えるわけでもない、じっと日々のささやかな事柄を思い出し、楽しかった、面白かった、悲しかった、怒ってしまった、色々な感情を飲み込む時間だ。そうして心を落ち着けてからでないと、眠れなかった。生前のヨルギアは暇があれば瞑想をしろと言っていたけど、つまらなくて誤魔化すことが多かった。

 ステュクス王国に来てからは、そんなことはもう忘れてしまっていた。色々なことがありすぎて、飲み込むには時間が必要なのだ。目まぐるしい状況の変化、刻一刻と変わる人々の感情、見知らぬものたちの名前、覚えることが多すぎる。

 いつかは、慣れるのだろうか。

 私のとりとめもないぼやけた思考は、背後で扉を開ける音で中断された。

 私は、椅子に座ったまま振り向く。

 すると、サナシスがいた。何だか、久しぶりだ。扉を閉めて、私のもとへつかつかとやってくる。

「エレーニ、放っておいてすまない。ここ数日、目が回るほど忙しかった」
「いいえ、大丈夫です。分かっております、でもここへいらしたということは、ひと段落ついたのでしょうか?」
「まあ、そうだな」

 サナシスは、応接用のソファに座った。すぐ隣の座面をぽんぽんと叩いて、私を呼ぶ。

「おいで。話がある」

 そう言われては、断れない。私は旅行記に栞を挟み、子犬のようにサナシスの隣へ向かう。

 ぽすん、と私が座ると、サナシスはこう言った。

「うん、ようやく肉がついてきたな。顔色もよくなった、安心したぞ」

 それは女性に言うようなセリフではないけど、私は満更でもなく、嬉しかった。

「サナシス様のおかげです。皆様にも、大変よくしていただいておりますから」
「食べ物に不足はないか? ギロピタはまだやめておいたほうがいいだろうが」
「それに関しては言わないでください」

 思い出すだけで恥ずかしいから、ギロピタについて言及するのはやめてほしい。サナシスはおかしそうに笑っていた。まあ、私の過去の痴態も笑って息抜きになるならいいけど。

 サナシスはゆっくりと、私の肩に手を伸ばす。

「頭を撫でてもいいか? 俺の太腿の上に置いてくれ」
「は、はい。いいのでしょうか……」
「何がだ」
「だって、私が膝枕を」
「その小枝のような細い足がどうすれば枕になるんだ。あと数年はかかるぞ」
「……そうですね」

 それほどはっきりと言われると、ぐうの音も出ない。私は不肖不承、髪を体に巻き込まないよう気をつけながら、頭をサナシスの太腿の上に乗せた。

 サナシスの手が私の側頭部に触れる。優しく耳に髪をかき上げて、最近ふわりとしてきた金髪を撫でる。

 暖かかった。サナシスの手足の温もりが、サナシスの気遣いが、何もかもが今までにないものばかりだ。忘れてしまったのかもしれないけど、私の人生にはこうした温もりが滅多になかったことは確かだ。

 私はじっとして、幸福な時間に身を委ねる。
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