婚約破棄の短編集

ルーシャオ

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エミリエンヌの場合

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 リュンヌ公爵令嬢エミリエンヌ・ミュール。
 金色の髪は大きな三つ編みにして、輝かんばかりの緑の瞳は恋する乙女のもの。すらりと引き締まった体に舞踏会のドレスを身につけ、ささやかな、しかしワンポイントの大きめのダイヤモンドがあしらわれたネックレスを付けて。
 婚約者のフォンセ公爵の子息ランベールへ向けて、思い切って口から出た言葉は本心だった。

「好きです」

 しかし、ランベールは首を横に振った。

「悪いが、もう君とは会えない」

 エミリエンヌは驚愕する。
 ランベールと何かがあったわけではない。少なくとも、エミリエンヌにはそれらしい記憶がない。ならばなぜ、と疑念ばかりの頭へ、ランベールはこう言った。

「いくら魔法が得意だからって、戦争で隣国の王の首を持ってくるような女と結婚なんてできるか! その手に持っている首をさっさとどこかに持っていってくれ!」

 きょとん、としてエミリエンヌは右手に掴んでいるものへ目を向ける。
 すでに乾き切った人間の首だ。これからこの国の国王の元へ持っていくのだが、その前に戦功を挙げたことを婚約者へ伝えたくて、いてもたってもいられずにフォンセ公爵家にやってきたのだ。
 それは、罪人すら見たことのないランベールには刺激が強すぎた。
 こうして、エミリエンヌはあっさりと婚約を破棄された。
 齢十八のことだった。





 エミリエンヌは落ち込んでいた。フォンセ公爵家のランベールから婚約破棄を言い渡されてからというもの、自宅に閉じこもっていた。
 あれだけ朗らかに「行ってらっしゃい」と送り出してくれたから、一番の戦功を挙げて凱旋してきたというのに、なぜ、とエミリエンヌは自問自答を繰り返していた。
 エミリエンヌは生まれつき、抜群の魔法の才能を有していた。血統で魔法の才能は決まる、リュンヌ公爵家はまさにその典型で、代々引き継がれる魔法の才能によって公爵の地位を得た家だった。
 しかし、そんな家は珍しい。ほとんどはフォンセ公爵家のように、先祖が王家に連なる有力貴族や政治の舞台で活躍した政治家たちの家だ。貴族の軍人なんてお飾りばかり、それが常識だった。
 だからこそ、リュンヌ公爵家は地位を盤石にするために、フォンセ公爵家は魔法の才能の血統を手に入れるために、婚約は結ばれたはずだった。
 ただ、それはあくまで建前で、実際にはエミリエンヌとランベールが幼少のころからそれほど相性が悪くなく、これならば婚約してもいいだろう程度の両家の認識があったからだ。互いに家格も釣り合うし、とフランクな目線で——リュンヌ公爵家は特に緩い雰囲気の家風もあって——ふんわりと決められたことだった。
 それが、ショックを受けたランベールの一言で、ご破算だ。もちろん配慮を欠いたエミリエンヌにも大きな非はある、しかし恋する乙女に理屈は通用しない。ただただ、好きな人に褒められたかっただけなのだ。送り出してくれたならば、迎え入れてくれると信じていたのだ。
 その上、エミリエンヌの父であるリュンヌ公爵は、隣国を占領したまま帰ってきていない。今、エミリエンヌを擁護してくれる人間はいないのだ。親族だってフォンセ公爵家の決定に異を唱えられるほど度胸と発言力のある家はない、それに両家の間のことだからと口を挟みにくかった。
 エミリエンヌは、フラれた傷心によりすっかり塞ぎ込んでいた。





 いつか白馬の王子様が迎えに来てくれる。
 そんな夢を、エミリエンヌは見ていた。現実には幼いころからすでに婚約者のランベールがいたから、それは叶わないと分かっていた。まさか婚約を無視して、突然現れた王子様に乗り換えるなんて想像できなかったからだ。
 だが、婚約もなくなり、おそらくもうランベールとは会えない。好きだった人をすぐに忘れるなんて、恋をしていた乙女にはできない相談だ。いくらなんでも、つらすぎた。
 ランベールは控えめに言っても美青年で、エミリエンヌはずっと自分にはもったいないほどの人だ、と信じていた。優しく、社交的で、礼儀正しい。まさに貴族としては完璧だった。
 そう、貴族として完璧だったがゆえに、想定外のアクシデントでその体面は一気に崩れ去った。貴族でなければ、人間として完璧であれば、それはなかったかもしれない。しかしもうすぎたことだ。その貴族としての体面を一生涯崩させないことが、エミリエンヌの使命だったと言っても過言ではない。なのに、エミリエンヌ自身が、ランベールの体面を台無しにした。
 エミリエンヌはしくしくと泣くことしかできない。自分の失敗だと、自覚はしている。魔法学校で教わったことは魔法だけではなく、いかに敵を効率的かつ迅速に制圧し、敵将を降伏させるかの戦術と戦略の学問も含まれていた。そのあおりを受けて、すっかりエミリエンヌには戦場のならいが叩き込まれていたのだ。エミリエンヌは初陣に興奮し切って、しかも恋に盲目すぎて周りが一切見えていなかったため、あのような蛮行という結果に終わってしまっただけなのだ。
 それを今更、許してくれとは言えない。頭が冷えてきたエミリエンヌには、そのくらいの常識と判断力が回復してきていた。
 家族や使用人たちも呆れ、婚約破棄もやむを得ない雰囲気の中、これからもエミリエンヌは泣いて暮らすかと思われていた、その矢先。
 リュンヌ公爵家の門を叩く、一人の侍女がいた。

「お初にお目にかかります。私、とある貴族の方のもとで働いているアレットと申します」

 いかにも真面目な顔つきの、メイド服のアレットはそう自己紹介をした。
 不在の父に代わって応対した、やつれた顔のエミリエンヌは、はあ、と気のない返事を漏らした。アレットはかまわず話を続ける。

「実は、我が主人はこのようにお考えです。最近、とみに物騒な噂ばかり聞き及んでいるため、外出もままならない、と」

 エミリエンヌはビクッと肩を震わせた。物騒、まさにこの間自分がしでかしたことだ、とまるで責められたようにさえ感じたからだ。もちろん、アレットにその認識はないだろう。まだ世間一般には噂も出回っていないだろうからだ。

「戦争に勝利してはしゃぐのは上流階級ばかり、庶民は日々の糧の高騰に喘ぎ、犯罪は増える一方。おちおちと路上を歩くことさえままなりません。私は護身術の心得がありますので問題ありませんが、貴族である我が主人はそうはいきません。我が主人を守るには、手が足りないのです」
「そ、そうですか。その、それで、私に一体どうしろと」
「そこで、ぜひあなたに、エミリエンヌ嬢に我が主人のそばについていていただきたいのです」

 ポカン、とエミリエンヌは口を開けた。それは自分に頼むようなことなのだろうか、と呆れたからだ。
 しかしアレットはその問いに答える。

「私や他の従者、護衛の騎士が我が主人のそばにいられるのは、あくまで屋敷の中や街の中だけ。城の中まで付き従うことはできませんし、舞踏会で何かあれば我が主人の身を守る者はおりません。昨今、政治情勢も落ち着きませんし、暗殺も考えられます」
「暗殺⁉︎」
「ですので、あなたには……いえ、はっきり申しましょう。魔法の名家リュンヌ公爵家ご自慢の、素晴らしい腕前を誇る魔法使いであるあなたが我が主人のそばにいれば、どんな輩も近づきません。暗殺を企てるような不届き者も、諦めることでしょう。今しばらくでよいのです、我が主人の身を守るために、お力添えを願えませんか?」

 アレットは立ち上がり、エミリエンヌへ向けて深々と頭を下げた。
 エミリエンヌは、そんなアレットの真剣さと主人を思うひたむきな気持ちに、すっかり心動かされた。

「わ、分かりましたわ。私ごときがお役に立てるのであれば、喜んでかかしにでも護衛にでもなります。ところで、あなたの主人であるお方は、なんというお名前なのですか? 私も存じている方なのかもしれません」

 頭を上げたアレットは、その名を口にした。

「ヴィクトル・サン=サヴァティエ様と申します。神官公サヴァティエ殿下、と言ったほうが通りがいいかもしれません」

 それは、世情に疎いエミリエンヌの耳にも聞こえているほどの有名人の名前だった。
 神官公サヴァティエ。先代国王の年の離れた弟であり、この国の聖職者の頂点に立つ人物だった。





 サヴァティエは、まだ二十代前半の若者だった。先代国王は四十代で急逝したので、ざっと二十くらいは離れていたことになる。
 短い黒髪にシルクの長い服、肩には金の飾り布を下げたいかにも上級の僧侶です、とばかりの装いをしたサヴァティエは、腕を組んでキッパリとこう言った。

「いらん」

 そう、エミリエンヌは、面会したサヴァティエに、にべもなく同伴を断られた。
 それでは手配したアレットの面目も立たない。エミリエンヌは必死に説得する。

「あの、しかしですね、昨今はとても治安が悪うございます。世情に疎い私ですらそう感じますので、サヴァティエ殿下には特に気を付けていただきたいのです」
「私には護衛の騎士もいるし、そもそも滅多に屋敷や教会から出ることはない」
「でも、たまにはお城へ向かわれるのでしょう? お散歩をしたいときとか、舞踏会だとかで、窮屈だったりご不安だったりすることもあるのでは」
「では何か? たまの機会のために、護衛として、よりによって名家リュンヌ公爵家の令嬢を付き従えさせる無遠慮で臆病な男、という風聞を立てさせたいのか?」
「えーと……無知をお許しください、それの何が悪うございますか」
「私の沽券に関わる。それにだ、聖職者が女を侍らせるわけにはいかない。たとえ護衛という名目があるとしても、だ」

 サヴァティエの言うことは、確かにもっともだった。一応、サヴァティエは聖職者だ。王位継承権を捨てるために聖職者とさせられたとはいえ、名目上は僧侶なのだ。そして、彼はきちんとその名目を守っている。
 その頑固とも言える主義主張は、エミリエンヌにはどうにかできそうもない。エミリエンヌは、ちらっとアレットを見る。助け舟を出してくれ、と合図を出した。
 すると、アレットは進み出て、発言する。

「無礼をお許しください、殿下」
「何だ、アレット」
「エミリエンヌ嬢は、殿下の御身を大変に心配なさっておられます。その心配を無碍になさるほうが、よほど殿方として恥となりませんか」

 アレットは至極真面目に、そう言った。
 先に、エミリエンヌとアレットはこう約束を交わしていた。エミリエンヌは自発的にサヴァティエのもとに護衛としてやってきた、そういうていで話を進める、と。いくら何でも、侍女が主人に対してそこまで気を回すのは越権にも程があるし、サヴァティエも出過ぎた真似だと叱ることも考えられる。ならば、とエミリエンヌから提案したのだ。
 しかし、サヴァティエはやはりにべもない。

「余計な心配をするな。第一、男が女を護衛になどできるか。逆ならばまだしも」
「ですが、エミリエンヌ嬢はこの国随一の魔法使いです。それは周知の事実、しいて護衛と喧伝せずとも、エミリエンヌ嬢がいるということが殿下を脅かす輩への強力な圧力となりましょう」
「だから、それが」

 サヴァティエはため息を吐いた。これ以上、アレットと問答をしたくないし、エミリエンヌを長く留めたくはない、という意思がありありと感じられた。

「もういい。とにかく今日は帰れ」

 そう言われては、もうどうしようもない。
 エミリエンヌは、一旦、サヴァティエの屋敷からお暇することにした。





 次の日、エミリエンヌはアレットに先導されて、またサヴァティエの前にやってきた。
 サヴァティエはあからさまに嫌そうな顔をしている。それでも、いきなり怒鳴ったりはしないのだから、とりあえず機嫌はそこまで悪くなさそうだ。

「しつこい。何度来ても答えは同じだ」
「でも、昨日殿下は、今日は帰れ、とおっしゃいましたので……次の日なら大丈夫かと思って」
「そういう意味じゃない。私に護衛は必要ない」
「では、護衛ではなく、おそばに荷物持ちとしてでも置いていただければ」
「余計にいらん」

 サヴァティエの眉間のシワがだんだん深くなってきた。まずい、このままでは昨日と同じ流れだ。そう思ったエミリエンヌは、話題を変える。

「で、殿下は、今もお城に赴かれておりますけれど、国王陛下とはどんなお話をなさいますか?」
「は? 別に、話すことなどない。私が城へ行くのは、あそこに大聖堂があるからだ。私は私の職責を果たしているに過ぎない」
「では、舞踏会に出席されるのは」
「それは呼ばれているから行くだけだ。私にも王族として一応の身分はある、都にいるのに国王主催の舞踏会に出ないというのは外聞が悪いだろう」
「あ、そ、そうでしたか」
「まったく、そのくらいのことは常識だと思っていたが」
「申し訳ございません……魔法学校と屋敷の行き来しかしておりませんでしたので、世間知らずなのです」

 エミリエンヌはしゅんと肩を縮こませる。エミリエンヌは、箱入りのお嬢様、という表現がまさに正しい。その才能を存分に活かすために環境を整えられ、脇目も振らずに努力する性格も相まって、ろくに遊ぶことをしてこなかった。魔法学校と屋敷の往復に、賑やかな市場のそばを通る道を歩いていても、楽しげな歌が聞こえてきても、少しだけ興味はあったものの、我慢してきた。
 そのせいで今、よりによってサヴァティエという王族の前で赤っ恥をかいているのだから、エミリエンヌは後悔しっぱなしだった。そういう世事を教えてくれなかった父を恨む気持ちもあったが、どちらかと言えば興味を持ってこなかった自分が悪い、と途方に暮れる。
 ところが、サヴァティエはそんなエミリエンヌが憐れに思えたのだろう。
 サヴァティエは一つ、咳払いをした。

「その様子では、舞踏会になど出たことがないのではないか?」

 エミリエンヌは、消え入りそうな声で「……はい」と答えた。事実だからだ。婚約者もいることだし、魔法の訓練で忙しいから、と半ば免除されていたのだ。

「貴族の、年頃の娘がそれでは、この先苦労するだろう。今からでもどこかの貴族の淑女に手ほどきを受けて、手頃な舞踏会に参加してはどうか?」
「そうしたいのはやまやまなのですが……私、今、フォンセ公爵家と揉めておりまして、どこの家も手を貸してはくださらないかと」
「何? どういうことだ?」

 サヴァティエは、不思議そうに尋ねてきた。
 エミリエンヌは包み隠さず、フォンセ公爵子息のランベールから婚約破棄を言い渡されたことと、その経緯を伝える。ランベールの名誉のためにも、自分が悪かったのだ、と言い添えることを忘れずに。
 話を聞き終えたサヴァティエは、きわめて複雑な顔をしていた。

「それは……何と言うか、確かに、貴族の子息には衝撃だっただろうな」
「はい……私は父が褒めてくれましたので、大丈夫だと信じておりました」
「リュンヌ公爵は、こう言っては何だが、おおらかで人目を気にしないところがあるからな……災難だったな、エミリエンヌ」
「いえ、そんな。何も考えていなかった私などより、ランベールのほうが嫌だったことでしょう。婚約破棄だって当然です。あまりにも、淑女らしからぬ行いをしてしまったのは、他ならぬ私なのですから」

 それは、どう考えてもランベールを責められないエミリエンヌの本心だった。ランベールはいきなり婚約破棄を宣言した無礼さこそあっても、それ以外に瑕疵はない。むしろ、他人の屋敷に押し入って死体の首を持ってきたエミリエンヌのほうがおかしく、ランベールにとっても誰にとっても傍若無人で恐ろしい化け物のようなものなのだ。
 すっかり意気消沈してしまったエミリエンヌは、腰を上げた。

「このような話を聞かせてしまい、申し訳ございません。今日は、出直します」

 そのまま、エミリエンヌはサヴァティエの屋敷から辞去した。





 次の日もまた、エミリエンヌはサヴァティエの元にやってきた。
 アレットとともに廊下を歩きながらため息を吐くエミリエンヌは、今日も元気がない。またサヴァティエに無碍に断られるのだろうから、やる気もなくなってきていた。

「殿下、何とか承諾してくださらないかしら……私みたいな粗雑な女なんて、護衛どころか荷物持ちにもしたくない、ということかしら」

 ところが、アレットはクスッと笑った。

「違いますよ。殿下は、エミリエンヌ様にそろそろ気を許しておられるはずです」
「え? どうして?」
「お会いになれば分かります。さ、どうぞ」

 アレットに促され、エミリエンヌがサヴァティエの部屋に入ると、そこにはソファに座って優雅に茶を飲んでいるサヴァティエがいた。
 その目の前のテーブルには、もう一つ、茶が注がれたばかりの湯気の立つティーカップがある。

「遅い。立ち話も何だ、座るといい」
「は、はあ。では、失礼いたします」

 エミリエンヌは不可解だと言わんばかりの表情を貼りつけて、サヴァティエの対面のソファに座る。「いただきます」と言って、そろっと持ち上げたティーカップに口をつけた。
 サヴァティエはそれに納得したのか、喋りはじめる。

「昨日は込み入った事情を根掘り葉掘り聞き出して、悪かった。お前にも部外者の私に告げたくないこともあっただろう」
「お気遣い、痛み入ります。でも、私は大丈夫です。フォンセ公爵家には父が戻り次第、正式に謝罪をしなくてはなりませんし」

 礼儀として、本来は婚約破棄を宣言した側が謝罪なり賠償なりをすべきなのだが、今回ばかりはエミリエンヌにも責任がある。おそらくは、エミリエンヌの父のリュンヌ公爵もそれをわきまえるだろう。となれば、フォンセ公爵家の名誉のためにも、謝るのはリュンヌ公爵家側だ。
 それを思えば、エミリエンヌは気が重い。どうせエミリエンヌはフォンセ公爵家に入れてももらえないだろうし、ランベールには謝りたくても二度と会えないだろう。リュンヌ公爵も平謝りに平謝りするだろうと思うと、迷惑をかけてしまったエミリエンヌはいたたまれない。
 罪悪感に胸を押しつぶされそうになっているエミリエンヌへ、サヴァティエは「まあ、何だ」と前置きをして、こう言った。

「確かにお前に責はあるだろうが、お前は悪意を持っていたわけではない。神はその程度の失敗はお許しになるだろう。フォンセ公爵家も強情に謝罪を突っぱねることはすまいし、お前が思っているほどおおごととはならん。そこまで気にするな」

 サヴァティエはまるで教会の聴罪司祭のように、エミリエンヌを励ます。とはいえ、そうは言われても落ち込み切ったエミリエンヌはすぐに気持ちを切り替えられたりはしない。
 悪いことは悪いのだ。婚約者に甘え過ぎたのだ。エミリエンヌはその思いに押し潰されそうだった。恋は冷え切ってしまい、もう火が点きそうにはない。

「今後、私はどうなるのでしょう……もう、お嫁に行けないのでしょうか。殿方はこんな女を妻に迎えるなんて嫌がるでしょうし、いくら魔法の血統があるとは言っても、フォンセ公爵家が手放したという汚名は雪げそうにありません」
「それはそうだが、醜聞など数年も経てば皆忘れる」
「数年後、私は二十歳を過ぎています。もうすっかり、行き遅れです……戦場にしか生きる道はなくなっています」
「だから、落ち込み過ぎだ。お前はまだ」

 続けて何かを言おうとして、サヴァティエは考え込んだ。しばし、押し黙る。
 茶を飲みながら、エミリエンヌはサヴァティエの言葉を待った。すると、サヴァティエは何かに気付いたように、顔を上げる。

「エミリエンヌ、その、隣国の王の首はどうした?」
「あ、はい。使用人を通じて、国王陛下へ届けました。今どうなっているかまでは存じませんけれど」
「ふむ。葬ったという話は聞かんな。それ以前に、そのことが私の耳にも入ってきていないとなれば、まだ話は外に漏れていないのか?」

 サヴァティエは何やらブツブツと言っている。まるでエミリエンヌのことが目に入っていないかのようだ。
 邪魔をするまい、とエミリエンヌが茶を飲んで、とうとうティーカップが空になったころ、サヴァティエは指を鳴らした。

「よし、エミリエンヌ、今から城へ向かうぞ」
「え? はあ、行ってらっしゃいませ」
「何を言っている。お前も来るんだ」

 サヴァティエはさっさと立ち上がり、外出用の黒いローブを持ってきて羽織る。
 エミリエンヌは、さっぱり状況が飲み込めていなかった。

「はい?」

 あれよあれよという間に、エミリエンヌは馬車に乗せられ、サヴァティエの手で城へと連れて行かれることになった。





 結論から言ってしまえば、サヴァティエはエミリエンヌを助けてくれた。
 登城したサヴァティエは、エミリエンヌを引き連れて、国王に謁見した。突然訪問して謁見の機会を得るなど、神官公サヴァティエにしか許されない行為だろう。
 そして、サヴァティエと同年代の若い国王に対し、サヴァティエはこう言った。

「陛下、リュンヌ公爵家のエミリエンヌは、先日の戦働きで隣国の王の首を取るという大戦果を挙げています。しかし、少々フォンセ公爵家と行き違いがあり、このエミリエンヌは婚約を破棄されるという侮辱を受けました。もっとも、フォンセ公爵家にも言い分はありましょう。ならば、これ以上ことがこじれる前に、手打ちとせねばなりません。エミリエンヌの功は、陛下にその手筈を整えさせるには十分すぎるかと思いますが、いかがか?」

 スラスラと、サヴァティエの口から紡がれる上奏にエミリエンヌが呆気に取られている間に、国王は気まずそうに答える。

「サヴァティエ公、その情報は今、外に漏らすのはまずい。フォンセ公爵には急ぎ口止めをする、貴公も慎んでもらいたい」
「ことは一刻を争います、陛下。エミリエンヌはその戦果を返上してでも、陛下のお手を煩わせたくお願い申し上げているのです。ならば、その意図を汲んでやらねばなりません」

 エミリエンヌは、えっ、という声を上げそうになった。そんなこと、言った覚えはない。畏れ多くも国王にそんなお願いができる立場にはない。国王にリュンヌ、フォンセ両公爵家の仲立ちを依頼するなんて、エミリエンヌは考えもしなかった。
 国王は苛立ちを隠さず、サヴァティエへ不機嫌そのものの顔を見せる。

「だから、言っているだろう。今、その件で動くわけにはいかんのだ」
「なぜでしょう? 理由をお教え願いたい」
「貴公だから言うが、そのエミリエンヌは戦果を上げ過ぎたのだ。隣国の王は捕らえるだけでよかった、隣国の王族も返せば納得しただろう。しかし、死んでしまってはどうしようもない。隣国の反感を買うどころか、このままでは占領もままならん。だから隣国の王の死は隠している。今、返還の交渉を進めている最中なのだ」
「なるほど。では、せめて弔ってやってはどうでしょう。丁重に葬り、遺体を……首を返せば、多少は溜飲も下がりましょう。贈り物に何か付ける必要はあるかもしれませんが、礼を尽くせば分からぬ相手ではありません。無論、私が弔儀を取り仕切ります」

 ついに、国王は折れた。隣国の王の首を、サヴァティエに託すことを約束し、ついでにエミリエンヌの件でフォンセ公爵家に箝口令を敷いておくと言った。
 それだけ収穫があれば十分だ、とサヴァティエは早々に王の前から退出し、エミリエンヌとともに城内の大聖堂へ向かった。安置されている隣国の王の首を確認して、速やかに弔儀の支度を整える。
 こうして、神官公サヴァティエの名の下に厳かに弔儀は行われ、高価な追葬品の数々とともに、隣国の王の首は返されることとなった。





 三日後、気の抜けたエミリエンヌは、サヴァティエの屋敷で呆けていた。忙しそうなので自分から訪ねて行かなかったら、今度はサヴァティエに呼び出されたのだ。
 そのサヴァティエは、連日の弔儀の疲れも見せず、優雅に茶を飲んでいた。

「これでお前のこうむる不名誉はなかったことになった。もちろん、婚約解消という形で耳目を集めることはあるだろうが、辻褄合わせは両公爵が行うことだ。もうお前は気にしなくていい」

 さすがの手腕に、エミリエンヌは尊敬の眼差しを向ける。

「あ、ありがとうございます、殿下。何と申し上げればいいのか、ふさわしい言葉が浮かんでまいりません。どうかお許しください」
「何、こちらとしても都合がよかった。あの高慢ちきな国王に恩を売ることもできたし、蔑ろにされがちな聖職者として存在感を示すこともできた。私にも利があって行ったのだ、そう畏まるな」

 サヴァティエは鷹揚にそう言った。しかし、エミリエンヌはただ畏まるばかりだ。降って湧いたような僥倖で、己の悩み悩んだことが解消されたのだから、もうサヴァティエには頭が上がらない。
 そんなエミリエンヌへ、サヴァティエは目を細めて、最初とは打って変わって優しく声をかける。

「エミリエンヌ、ところで、頼みたいことがある」
「は、はい! 何なりとお申し付けください!」
「そうか。では、明日、舞踏会に行くぞ」

 エミリエンヌは、きょとん、とした。舞踏会、と聞いて、何をしに、という問いが出るくらいには、とんと縁がない言葉を口にされたからだ。

「聞こえなかったか? お前を国王主催の舞踏会に連れて行く。私の同伴者としてだ」

 同伴者、つまりはエミリエンヌをダンスの相手として連れて、舞踏会へ参加する、ということだ。
 ダンスはいい。別にエミリエンヌもできなくはない。しかし、当初の念願、アレットと約束したサヴァティエの護衛をやっと果たせそうだ。そう思うと、エミリエンヌは喜びのあまり、興奮して目を輝かせた。

「覚えていてくださったのですね! はい、私、護衛として頑張ります!」
「いや、同伴者としてだな」
「はっ⁉︎ 舞踏会ならドレス、ドレスが必要ですね! 今から帰って、母にドレスを借ります! 前の一張羅のドレスは、まだ使っていなかったのに血で汚してしまったので!」

 早口でそうまくし立てるエミリエンヌは、ひたすらワタワタと慌てていた。あのとき、正装でランベールの元へ向かおうと思ってドレスに着替えていたから、すっかり汚して捨ててしまっていたのだ。そのあとは落ち込み過ぎて、ドレスのことなんてさっぱり忘れてしまっていた。
 そんなエミリエンヌの様子を、サヴァティエは困ったやつだ、とばかりの顔をして眺めている。
 エミリエンヌが辞去を申し出る前に、サヴァティエは背を正して語りかけた。

「エミリエンヌ。今回の件で、国王をはじめ、私に仇なす者は表在化し、手段を選ばんようになるだろう」

 サヴァティエの通る声は、耳に心地がいい。エミリエンヌは、一言一句逃すまいと、耳に神経を集中させる。

「私が身を守るためにも、お前が必要だ。しばらくは、ともにいてほしい」

 それは、あまりにも嬉し過ぎる申し出だった。
 約束を果たし、名誉は挽回され、そしてサヴァティエは笑っている。
 エミリエンヌは、その笑顔にとても満足していた。

「はい! おともいたします!」





 舞踏会の帰り道。
 馬車の中で、エミリエンヌは着飾ったサヴァティエに見惚れていた。
 あの僧侶服姿とは違い、どこに出しても恥ずかしくない気品あふれる紳士となったサヴァティエは、神官公と言うには俗すぎて、かと言って立ち居振る舞いは聖職者のそれで、美しいとさえ形容できた。
 サヴァティエのような王族がいれば、国王もそれは嫌な顔の一つもするだろう。自分よりも優れているであろう人間が近くにいれば、普通は嫌だ。頭脳、容姿、気品と、すべてがあの国王よりも上のように、エミリエンヌには感じられた。
 そのサヴァティエは、からかうようにエミリエンヌの顎を持ち上げる。

「どうした、惚れたか? 生憎と私は聖職者の身だ、その思いに応えてやることはできんぞ」

 エミリエンヌは答えない。見惚れていることに気付いて、たった今意識がはっきりしたからだ。
 ようやく魂が還ったエミリエンヌは、慌てて返事をする。

「えっ、えっ? あ、はい、何でしょう?」
「……お前に恋愛は早過ぎたようだな」
「恋愛? ああ、そうですね。私には、もう無理です」

 サヴァティエは面白くなさそうに、エミリエンヌから手を離す。
 すかさず、エミリエンヌは頭を下げた。

「ありがとうございました。でも、私は恋とか愛とか、そんなものはもうこりごりです。私は他人に迷惑をかけるような女ですから、これからは慎ましやかに生きていきます。あ、そうだ、修道院に行くのもいいかもしれません。魔法はあんまり受け入れられないでしょうけれど、何とかなります、多分」

 エミリエンヌがそう言うと、サヴァティエは苦々しい顔を作った。

「やめておけ。あんなつまらなさしかないところに、お前は一ヶ月といられんぞ」
「そうなのですか……残念です」

 心底、エミリエンヌは残念だった。せめて自分の居場所を見つけられたら、そう思っていただけに、自分にはふさわしくないと言われたのだから。
 慎ましやかに生きる、もうそれしかないと、エミリエンヌは思っていた。婚約破棄はそれほどにエミリエンヌを落ち込ませたし、一度恋が冷めると何もかもが無駄だったように思えた。あれほど魅力的に見えていたランベールも、今となってはもう顔もおぼろげだ。エミリエンヌの頭がひたすらに忘れたいと願っているのだろう。
 そうなっては、もう元どおりの生活はできない。後悔は影を落とし、前のように快活に人生を送ることはできない。今後、恋をしても、エミリエンヌはためらうだろう。前のようになるのなら、もういい、と。
 だが、サヴァティエは違った。
 サヴァティエはつぶやく。

「もし、私が王位継承権を取り戻せたなら」

 遠く城を、外を眺めながら、サヴァティエは仮定の話だ、と前置きする。

「そうすれば、聖職者ではなくなるし、妻帯もできる。まあ、すぐにどうというわけではないが、いずれ、そうなれば」

 そこから先の言葉は、今はない。
 サヴァティエの横顔に、エミリエンヌは決意のようなものを見た。仮定の話などではない。サヴァティエは、これからのことを、そうするという誓いのようなものを立てている。
 その先の言葉は、エミリエンヌに向いているのだろうか。
 ここにいるだけの置物のような、ただの護衛になど向いていないだろう。エミリエンヌは冷めた心のまま、サヴァティエを見ていた。
 きっと、サヴァティエはこれから王位を取りに行く。それはエミリエンヌには止められない。
 だけど、こう言うことはできる。

「なら、それまでは護衛が必要ですよね。私を、殿下のおそばにいさせてください。お邪魔はしません、殿下にふさわしい伴侶となる女性が見つかるまでは、殿下に付き従います」

 にっこり笑って、エミリエンヌは宣言する。
 この無愛想な殿下は気難しいから、誰でもをそばに置くということはないだろう。幸いにして、自分は気に入られたようだから、そばで護衛として役に立つことができるはずだ。エミリエンヌはそう考えた。
 そんなエミリエンヌへ、サヴァティエは声を荒げる。

「馬鹿者。おい、エミリエンヌ、目を閉じろ」
「はあ」

 言われるままに、エミリエンヌは両目を閉じる。
 顎をまた持ち上げられて、引き寄せられた。何だろう、とエミリエンヌが思っている間もなく、肌が触れ合った。
 そして、唇に温かい何かがくっつく。こうなっては、エミリエンヌも思わず目を開いて何事かと確かめる。
 サヴァティエの顔と、自分の顔が接していた。唇は重なり、驚くよりも鼓動が凄まじいほど早鐘を鳴らしていることに、エミリエンヌは混乱する。
 すぐに、サヴァティエは顔を離した。糸引く唾液を舌で絡め取って、照れ顔を見せる。

「こういうことだ。お前にだって、ここまで来ればもう分かるだろう」

 エミリエンヌは、分からない、と言いそうになった。
 ランベールとすら、口づけを交わしたことはない。貴族にとって婚約とは義務だ、だから恋人らしいことはしたこともなく、エミリエンヌはただただそういうことに憧れていた。
 それが今、叶ったのだから、顔は赤らみ呂律が回らない。

「おい、まさか、これで満足したとでも言いはせんだろうな」

 サヴァティエが睨んでくる。エミリエンヌはブンブンと首を横に振った。

「ならいい。私が王位に就くまで、待っていろ。そう時間はかからない、必ず迎えに行く」

 サヴァティエは、真剣そのものだ。
 神官公の地位を放棄し、王位継承権を取り戻し、王座に就く。それは言葉にするよりもずっと難しく、サヴァティエにとっては神官公の地位にあれば安泰だった将来を捨ててまで挑戦するようなことではなかったはずだ。
 それでも、サヴァティエは挑戦するのだ。
 エミリエンヌを愛するために。
 未来へと歩を進めようとするサヴァティエに、エミリエンヌはあふれ出す涙をこらえ切れなかった。

「はい……ずっと、お待ちしております、殿下」

 サヴァティエの指が、エミリエンヌの涙を拭いた。





 数年後、ヴィクトル・サン=サヴァティエ神官公と呼ばれた男は、この国の国王となった。

 簒奪者のそしりを受けた。野心家が正統な王統を退けたと非難された。

 それでも、サヴァティエは堂々としていた。

 サヴァティエの才覚をもってすれば、前の国王をしのぐほどに国を導ける確信があったからでもある。

 しかし、それ以上に、愛する妻を得られた喜びが強かったのだろう。

 彼のそばには、いつもこの国でもっとも優秀な魔法使いがいた。

 その名は、エミリエンヌ。サヴァティエがもっとも頼みにする妻にして、唯一愛する女性だった。
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