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森人の果実酒

10話

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「ユリエ……君は、このまま福音が復活しても、本当に構わないのか?フラクシネスが他の人間に愛を注いでも、今受け取っている愛情を福音に歪められても、それに耐えられると?」

おれは視線を外さず尋ねたが、ユリエは逃げるように顔をそむけてしまった。

「……耐えるも何も、フランは最初から全ての人間を愛しているわ。私は、少しだけその愛を多く注いでもらっているだけ。だから、福音が復活したところで、今までと何も変わらないわよ」

それが本心なら、おれにもう打つ手はない。
しかし、ユリエは未だに眉をしかめている。
まだ突破口はあるはずだ。

「……どうしてそう言い切れる?」

おれが質問を重ねると、ユリエは長く息を吐き出した。

「フランが、竜人だからよ」

フランの手がユリエの肩をやわく掴む。
今まで穏やかにおれたちを見守っていたフランが、初めて表情を動かした。
眉間にシワを寄せ、切なそうにユリエを見下ろしている。
竜人がこんなに人間らしい表情をするなんて、知らなかった。

「……ユリエ、私が他の人間に注ぐ愛と、あなたに捧げる愛は違います。私に流れる人間の血が、あなたを一人の人間として愛しているのです」

フランは熱意のこもった声で告げる。

「……フラン、その話はやめて……あなたは竜人。インゲルの福音なんて、あなたには関係ないわ……!」

ユリエの手がフランの手を肩から振り払おうと動く。
しかしその力は弱く、逆にフランの大きな掌に包み込まれてしまった。

「……いえ、関係あります。インゲルの福音がより強力な術として復活するのなら、私の感情にも影響があるかもしれない。あれは、人間の感情を操作する術なのですから」

ユリエは認めたくないというように拳を握りしめたまま、フランからも顔を背けている。

「……やめて……その話は終わったでしょう。あなたが私を愛しているのは、あなたが竜人だから。インゲルの福音があろうとなかろうと、あなたは何も変わらない。それで、私はいいの」

ユリエは力なく呟き、おれを見る。

「だから、お断りするわ。失敗して、ハカイムの兵士に殺されるのはもちろん嫌。成功したとしても、この件で目立って、家族に居場所がバレてしまったら、今度こそ私は逃げられないわ」

「待ってくれ、この作戦には多くの人が協力してくれるんだ。失敗がすぐに死につながるわけじゃない。あなたが家に連れ戻されないように、議長たちも便宜を図ってくれる!だから、もう少し考えてくれ」

おれはなおも食い下がったが、ユリエはこれ以上の交渉を拒否するように俯いて沈黙してしまう。
もう視線を合わせることもしなかった。
おれは必死に次の言葉を探したが、思いつかない。
フランは我慢強くユリエの手を握っていたが、彼女の態度は頑なだった。

「フラン、いい加減に手を離して」

「……ユリエ……」

「これでいいのよ」

おれは落胆しつつも、二人のやり取りについて行けず困惑していた。

「……フランが竜人であることと、インゲルの福音にはなんの関係が?今の所、インゲルの福音は全ての亜人に有効だと言われている。この件に協力してくれている竜人も、それを否定することはなかった」

どうせ断られるのならちゃんと理由くらい知っておきたいと思い、二人に問う。

「……あなたは、私以外の竜人と話したことがあるのですね」

「はい、イングラム家に昔から仕えてくれている竜人と……」

おれが答えると、フランは軽く何度か頷いた。

「ああ、なるほど……思い出しました。海竜の子ですね。アエクオル・レヴィアタン」

「そうです。彼女と知り合いだったんですか?」

「ある意味では、そう、と言えます。森竜と海竜は古くから付き合いがありますからね。アエクオルと過ごしたことがあるのなら、あなたも感じたことがあるでしょう。竜人の愛情は、少々特殊です」

おれは脳裏にアエクオルの深海のような瞳を思い出し、頷いた。
底なしに優しく、あいしているわとおれたちを抱きしめる割には、いつも一歩引いたところでおれたちのことを俯瞰で眺めている存在だ。
フランは子供に言い聞かせるように、ゆったりと話を続けた。

「竜人は、人間という種族そのものを愛しています。個人を愛しているわけではありません。この感覚は、あなたがたが理解するには少し難しいかも知れませんね……私個人としての感情ではなく、竜の意思なのです。竜人は、竜と人間との間に生まれた種族ですが、その人格、記憶は親である竜と繋がっています」

おれはいまいち理解できず、相槌も打てなかった。
フランは少し思案するように顎に手を当てる。

「そうですね、わかりやすく言うと……私は森竜の分身のような存在なのです。竜が木の幹だとすれば、竜人はその葉。木の幹と葉では形が違いますが、枝を通じて繋がっている。だから、私は森竜であり、竜人でもあるのです」

フランの若葉色の瞳がおれを見る。
その瑞々しい黄緑の向こうに、大いなる存在の意思を感じた。
人間とは全く違う、時間や空間さえ超越した何かを。
生き物としての本能が、ぞわりと粟立って警鐘を鳴らす。
フランは優しく微笑んだ。

「大丈夫です。森竜は人間を愛していますから……。
竜は、変化を尊びます。この星で最も真理に近付き、最も強大な力を持ってしまった竜は、長らく変化のない世界で生きてきました。敵対する生物もおらず、全ての現象は竜の予測範囲内。同じことを繰り返す退屈な世界……そこに現れたのが、あなたがた人間です。
人間は、竜にとって全く予測できない存在でした。変化のない世界に飽き飽きしていた竜にとって、それがどれほど魅力的に見えたか。あなたがたは世代交代を繰り返し、みるみるうちに力をつけて大地を作り変えていった。竜はまたたく間に人間に魅入られ、愛するようになりました。
しかし、竜の姿のまま側にいると、人間は耐えられずに精神に異常をきたしたり、肉体が傷付いてしまったりします。その為に生み出したのが、人間の肉体と竜の血を混ぜ合わせた存在、竜人です。竜人は人間と同じように肉体を持ち、人間の側で生き、人間を愛で、変化を見届けることを使命としています。
だから、ユリエが言うように、竜人にはインゲルの福音など必要ありません。最初から、あなたがた人間を愛するために生まれてきた種族なのですから」

フランは無機質にも見える美しい唇に、木漏れ日のように柔らかな微笑みを浮かべてみせた。
優しいのに、美しいのに、どうしてこんなにも人間味を感じないのか。
おれはその疑問にようやく答えをもらえた気がした。
竜人には、個というものがないんだ。
個人ではなく、竜の手足の一部として生き、そしておれたちのことも個人ではなく種族という全体を観察して愛している。
だからだ。
おれは納得すると同時に、矛盾に気付いて口を開いた。

「ですが、あなたは先程……」

「ええ。私は一人の人間としてユリエを愛していると、だから福音の影響もあるかもしれないと言いました。これも、竜人の性質の一つです。
竜人は竜と繋がっているとはいえ、肉体を持ち、生きています。ですから、時折、個の意識に目覚める者も居るのです。私もそうして目覚めました。森竜の手足ではなく、一人の男、フラクシネスとして。
だからわかるのです。ユリエに向けるこの感情は、竜からもたらされているものではありません。私の、人間としての血が、彼女を欲している。……ユリエは、認めてはくれませんが……。
インゲルの福音は、人間の感情を操作する魅了魔法の一種です。ならば、私のこの人間的な愛情に影響が出てもおかしくはない……。
アエクオルが否定しなかったのなら、私はユリエ以外の人間にも、恋心を抱くようになってしまうのでしょう」

終始落ち着いた口調で語るフランを、ユリエは恨めしげに睨んだ。

「だから、大鐘の破壊に協力しろと、あなたまで言うの?さっき断ったじゃない」

フランをなじるユリエの口調は、駄々をこねる子供のように幼かった。

「……ユリエ、私はただ、後悔しない道を選んで欲しいだけです。影響があったとしても、それでもいいのですか?」

フランはユリエをなだめるように、黒髪を指ですく。
ユリエはそんなフランを押しのけ、強引に立ち上がった。

「いいって、言ってるじゃない」

ユリエの声が震える。
ユリエの目元は今にも泣きそうに歪んでいた。

「……フラン、あなたはこれ以上深入りするべきじゃないわ。この話はもう終わりよ。私は危険を犯してまで協力するつもりはない。諦めて帰って頂戴!」

感情任せにそこまで言い切ったユリエは、フランのことすら置き去りにして足早に出入り口に向かい、乱暴に集会所の扉を開けて出ていってしまった。
彼女らしくない激昂ぶりに、おれはあっけにとられてしまっていた。
残されたフランは中途半端に伸ばした手をだらんと下に垂らす。

「……申し訳ありません。話し合いを邪魔してしまいましたね……」

フランは弱々しく笑う。

「……彼女が目立つことを嫌うことも、身の安全を優先することも、予想はできていました。断られる可能性の方が高いだろうとも……ですが……今の態度は……他にも、協力できない理由があるのですか?」

おれが小さく尋ねると、彼は大きな手のひらで目元を覆ってしまっていた。

「ええ……原因は私です……。
個として目覚めた竜人は、竜との繋がりを失うことがあります。竜の意思に反して、人間社会に深入りしてしまったり、一人の人間に固執したり、観測者としての立場を放棄してしまうと、竜人は竜の力を失ってしまう。竜という木から切り離されて、ただの一枚の葉として生きていくことになる。私はまだ繋がりを失っていませんが、感じるのです。ここ数年で、繋がりはかなり細くなってしまった……。
ユリエというたった一人を幸福にするためだけに、スズカ家から連れ出し、竜人の使命を放棄して二人きりで生きていこうとしているのですから、当然です。今はもう細い糸のような繋がりしかありませんが、それでもまだ切り離されてはいません。ユリエと静かに暮らすだけならば、このまま維持できるでしょう。ですが、これ以上彼女一人のために行動を起こしたり、人間社会に深く関わったりすれば、その糸は切れてしまう。そんな予感があります。
彼女は、それを恐れているのです」

おれは息をのむ。
彼女があんなに感情的になってしまった理由は、それか。

「……竜との繋がりを失うと、何が変わってしまうのですか?」

おれの質問に、フランは淡々と答える。

「魔力を無尽蔵に使うことができなくなりますし、肉体も多少変化します。なにより一番大きな変化は、寿命です。竜人は基本的には不死の存在。ですが、竜から切り離された場合は、不死ではなくなります。
竜から切り離された竜人はこれまでにも何人か居ましたが……竜から切り離されて数年後に死ぬ者もいれば、100年以上生きて死ぬ者も居ます。肉体が人間に近付くので、怪我や病気で死ぬこともあるでしょう。
……私がその事実を伝えると、ユリエは、悲しみました。今は、私が不死を失わないように、必死になっているのです。私がいくら言い聞かせても、私の愛情は竜由来のもので、個人の感情ではないと言い張って……私を、個に目覚める前の私に、戻そうとしているようなのです。ユリエへの想いを、今更無かったことになどできないのに……」

フランは顔を覆っていた手を下ろし、おれに苦笑を向けた。

「……人間として生きるのは、やはり難しいことですね。ユリエと出会うまでは、人間が悲哀や憤怒に駆られる様も、愛おしく思えていました。感情の変化というのは、本当に美しく、尊いものだと、幸福な気持ちで見守っていられたのですが……今は、ユリエが苦悩していると、私も苦しくてたまらない……私は、どうすれば良いのでしょうね……」

自信なさげに自分の手を見下ろすフランに、もう先程までの泰然とした雰囲気は見当たらない。
ただの、恋に悩む男にしか見えなかった。

「……突っ立って悩んでいる暇があるなら、さっさと追いかければいいだろう」

今まで沈黙を貫いていたケイジュが唐突に発言した。
しかも、声色には露骨に苛立ちが混ざっていたので、おれはぎょっとしてしまう。

「不死がどうだ竜の意思がどうだと悩む以前に、ユリエを早く追いかけてちゃんと向き合ったほうが良いと、おれは思う」

ケイジュの言葉に、フランはあからさまに動揺した。

「で、ですが、ユリエは私のことで悩んでいるんです。私がまた口を出したら、彼女を更に追い詰めてしまうのでは、」

「今までと同じように観測者として生きるのなら、このまま何もせず棒立ちしておけばいい。だが、そうでない生き方をする気なら、早く追いかけて、彼女と話をしたほうが良い。お前はどうしたいんだ?不死を失いたくないのか?それとも限りある生の中で、彼女を人間として愛したいのか?竜の意思ではなく、お前自身の意思は?」

フランはわずかによろめいた。
ケイジュの声は、それぐらい力強かったのだ。
夜空のような瞳は、槍の一閃のように真っ直ぐフランを見つめている。

「……おれは、正直、セオドアにこんな危険なことに関わってほしくなかった。もう二度と、セオドアを失う恐怖を味わいたくない。安全なところで、静かに暮らすことが出来るならそうしたかった。
だが、セオドアはやると決めた。だったら、おれはそれを全力で支える。多少危険な道を歩むことになっても、セオドアには、セオドアらしく生きてほしい。そう思うから、おれはセオドアを止めなかった。
これがおれの意思だ。おれが決めたことだ。
この選択は間違いだったと後悔しないために、全力を尽くしている。
お前はユリエに、全てを決めさせようとしている。
この件に手を貸すのか、それとも断るのか。
人間として生きるのか、竜として生きるのかという、お前自身の未来さえも」

「わたし、じしん、」

フランは初めて口にする言葉のように、たどたどしく繰り返す。
そして、ユリエが出て行った扉を見つめた。

「……わたし、は……」

その頼りない呟きのあと、数秒の沈黙があった。
その後、フランは引っ張られるように前のめりに歩き出した。

「……ユリエと話をしてきます」

フランはそれだけ言って、慌ただしく外に出て行ってしまった。
色々と置いてけぼりにされたおれは、まだ少し目を吊り上げているケイジュを見る。

「…………ケイジュ、驚いたよ……竜人を叱りつけるなんて……」

ケイジュはふんと鼻息を吐き出して、それから気まずそうにおれを見返した。

「……ユリエがユリエがと言う割に、ずっと他人事のように話をしていたから、つい腹が立ってしまった……まずかったか?」

「いや、何となくだけど、ケイジュのおかげで上手く行きそうな気がする。ありがとう。それに、嬉しかった」

おれは手を伸ばし、ケイジュの服の袖を少し摘む。
ずっとケイジュを巻き込んでしまったと、罪悪感を持っていた。
だけど、ケイジュもちゃんと自分の意思で、ここに居てくれているんだ。
それがわかっただけでも、落胆していた心が凪いでいくのがわかる。
だけど、結局、おれはろくな説得ができなかったな。
ユリエはフランの愛情を独占したいはずだ、とその一点でなんとか突破するつもりだった。
だけど、結果は失敗、だろうか。
フランがユリエと話し合って、彼女の気持ちが変わってくれればいいけど、フランの寿命の話まで絡んでくるとなると、もうおれたちに口出しできる話ではないような気もしてくる。
とはいえ、ケイジュの発破でフランはなにか決意できたようだし、ユリエの悩みも少しは解決に向かうかもしれない。
少しでもことが良い方向に進むように、今は祈るしかなかった。



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