静かな地獄がここにある

ひなた

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第一話 幕開け

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 父さんが死んだ。突然の事故だった。酔っ払って道端で寝ていたら馬車に轢かれたと聞いた時は耳を疑った。

 慌ただしい葬儀も終わり、家主を失った家は静まり返っている。現実味のない喪失感は、涙を流す隙を奪ってしまった。今後は俺が父さんに代わってこの家を守らなければならない。

「兄さん」
「ルイス」

 いつもと違い、ルイスが遠慮がちに抱きついてきた。腕を軽く開いて受け止めるが、少しふらついてしまった。ずいぶん長い間立ち尽くしていたようだ。

「僕たち、離れ離れになるの?」
「それは……」

 ルイスの黒い瞳が不安そうに揺れる。俺は何も言えなかった。
 おそらく、そう遠くないうちに離れて暮らすことになるだろうから。

 俺とルイスは血が繋がっていない。三年前、親同士が再婚したことで義兄弟となった。

「大丈夫。離れて暮らすことになっても、俺たちは義兄弟だ。俺が何とかするからルイスは今まで通り学校に通って」
「違う! 兄さんと離れたくないんだ!」

 ルイスがぐりぐりと頭を擦り付ける。たまに頭が鎖骨に当たって痛い。四つも年が違うのに、年々身長差が縮まってきている。俺もそれなりに背が高いはずだが。十三歳にしてこの身長なら将来有望だ。

「ルイス、落ち着いて。今すぐ離れると決まったわけじゃない。しばらくは三人で生活することになるはずだ」
「でも……」

 ルイスの綺麗な黒髪を優しく撫でる。兄としてここで不安を見せてはいけない。
 俺は半年後に兵士として働くことが決まっている。しばらくは父の遺産を崩し、日雇いの仕事をしていれば問題なく暮らせる。今後のことは落ち着いてから考えればいい。

「カインさん! ちょっと!」
 義母のアマンダさんが慌てた様子で声をかけてきた。普段控えめな彼女がここまで大きな声を出すのは珍しい。不測の事態に向けて、俺は一度深呼吸をした。



「お前がカインか」
「ご用件は?」

 人の家のテーブルに足を乗せて座る男たち。三人が同じ体勢で足を乗せるから古いテーブルが悲鳴をあげている。風体からして関わってはいけないタイプの人間だ。
 荒事に慣れた男三人。対してこっちは一人で、ルイスとアマンダさんの安全は絶対。実力行使で追い出すのは不可能だ。
 手短に話を終わらせたい。一つだけ空いている椅子に急いで腰掛ける。

「これ。うちから借りた金。借りたやつが死んだら息子が返すのが道理だよな?」
「父がまさか……人違いではないですか?」

 父さんを一言で表すなら根っからのお人よしだ。それは家族に対しても他人に対しても変わらない。
 最後に見た父さんの笑顔は、いつもと変わらず明るくて温かかった。だから俺たちに迷惑をかけるような借金を作るはずがない。

 乱雑に渡された借用書に目を通す。そこに書かれているのは信じたくない事実の羅列だった。連帯保証人欄に、ジェームズという名前。この癖字は間違いなく——

「父さんの字だ」

 口に出した瞬間、しまったと思った。男たちはニヤニヤとこちらの反応を楽しんでいる。
 この署名は間違いなく父さんのものだ。何度も見返したが、疑惑が確信に変わるだけだった。

「友人思いの素晴らしい父親だ。そんな息子さんは借りたものきっちり返してくれるよな?」
「待ってください。こんな大金すぐに返せるわけ……そもそも借りた人物から取り立てるのが筋では?」
「飛んだよ。そうなったら連帯保証人が返すのが筋ってもんだ」

 五年は遊んで暮らせる額だ。そんな大金この家にあるわけがない。

「働いて毎月少しずつ返します」
「だめだ。それに返す当てならあるだろ」
 男が立ち上がり、俺の頭を掴む。抵抗もできないまま耐えるしかなかった。

「金髪碧眼。ここらでは珍しい色だ。高く売れる」
「俺は男で」
「関係ねえよ。見てくれは悪くないし、性奴隷でもいけるだろ。それに『この家に魔力持ちがいる』って話だ」

 俺にしか聞こえないくらいの囁き声。それなのにはっきり響いた気がした。
 血の気が引く感覚があった。もし椅子に座っていなかったら、そのまま倒れ込んでいたはずだ。
 こいつら、勘違いしてる。魔力持ちは俺じゃない。ここでバレたらルイスが目をつけられる。
 否定したら探られる。だったら、俺が魔力持ちだと思われたまま話を進めるしかない。

「魔力持ちなら、一気に返済できるのか?」
「返済どころかおつりがくるかもな」
「ならさっさと連れていってくれ。売るなら俺一人で十分だろ」

 まずはルイスとこいつらを引き離すことからだ。体力には自信がある。俺一人なら逃げる手段もあるはずだ。隙を見て自警団の詰所まで走ればいい。

「兄さんから手を離せ!」
「痛てぇな。クソガキが」

 ルイスが土魔法で石を作り、俺の頭を掴んでいた男に向かってそれを放った。石は男の太ももに当たり、それなりにダメージがあったようで、俺の身体は完全に自由になった。

「ルイス! やめろ!」
「兄さん、でも」

 かばうようにルイスの前に立ちはだかった。最悪の状況だ。ルイスの力を目の当たりにした男たちが色めき立つ。

「魔力持ちはあっちのほうだったか。タレコミは本物だったな。首輪もってこい!」
「もったいない。こんなガキに使うなよ」
「いや危険だ。あのクソガキそれなりに実力がある」

 首輪って何だ。もしかして魔封じの首輪か? あれはかなり前に禁制品になったと父さんが言っていたような。

 ルイスが俺を守るために魔法を使うなんて、想定外だった。嘆く暇はない。ルイスを逃さないと。

「待ってください! この子は関係ない!」
「血が繋がってなくても子は子だよなぁ?」

 床に押さえつけられ、身動きが取れない。その間に他の二人が連携してルイスに魔封じの首輪をつけた。アマンダさんも必死にルイスを庇おうとしたが、抵抗虚しく拘束された。

「離せよ! 兄さんを離せ!」
「美しい兄弟愛だねぇ。セットで売るか?」
「バカ。さすがに客層が違いすぎる」
「この女も若くないが、そこそこの値段で売れそうだ」

 男たちは俺たち三人を完全に物として見ている。そこに怒りを覚えたが今は反発すべきではない。

「ルイスも、アマンダさんも、赤の他人です。俺が一人で払いますから、どうか」
 ルイスを守るためなら、俺は喜んで義兄弟の絆を捨てよう。
 傷ついた顔をした義弟と、安堵の顔を見せる義母を横目に、頭を地面にすり付けて懇願する。この瞬間、何か大切なものが音を立てて崩れた気がした。



 ルイスのむせび泣きが聞こえる。今すぐ泣き止ませてあげたいのに、動くことができない。

「こんにちは」

 初めて聞く男の声だった。なぜか拘束が緩んだため、飛びつくように顔を上げる。
 そこにいたのは若い男だった。薄い茶髪に緑の目。瞬き一つで人の目を引くような、とても整った顔立ちをしていた。優しげに笑う男は、この場で異質の存在感を放っていた。

「あ、あの俺」
「大丈夫。ゆっくり話してみて。事情は全部知ってるから」

 覚悟はしていたが、やはり彼もあっち側の人間のようだ。助けてもらえるかもという甘い考えは捨て、ルイスの身の安全だけでも確保したい。

「父の借金を三人で返せという話になって。でも、そっちの女性と子供は関係ないんです。俺が必ず返すので、二人を解放していただけませんか」

 父さんの葬儀で流れなかった涙が溢れ出す。ここで泣いたら不興を買ってしまうかもしれない。歯を食いしばり、正面に立つ男を見つめる。

「いいよ」
「え?」

 男がしゃがみ込み、俺の涙を指で拭う。思わず身体が引きつってしまうほど冷たい手だった。

「うん、特に目の色がいい。合格だ」
「あの、何の話を」
「俺の遊び相手になってくれたら解放してあげる。もちろん借金も帳消し」
「遊び相手?」
「返事は?」
「なります。ぜひご一緒させてください」

 無理やり笑顔を作ってみせると、彼は満足したように頷いた。

「ボス! 魔力持ちをそんなあっさりと手放すなんて」
 そいつが最後まで言い切ることはなかった。先ほどまで優しげな笑みを浮かべていた男が、表情を変えることなく、意見してきたやつを殴ったからだ。

 容赦という言葉すら生ぬるい暴力だった。鼻の骨が曲がり、大量に出血している姿は、誰が見ても痛々しかった。

「すみま……許し……」
「補填はしてあげるから安心してよ。黙って従っておけばいいのにね」
 まともに会話する気がないのか、ボスと呼ばれた男は一切の躊躇なく殴り続けていた。誰も止められない。せめてルイスの目を塞いでくれないだろうかと、そんなことを思いながら時が過ぎるのを黙って見ていた。


 しばらく続いていた一方的な暴力がようやく終わった。殴られた男は息も絶え絶えといった様子で横たわっている。

「カイン」
「はい」

 声は上ずっていなかっただろうか。とにかくこの人に逆らってはいけないと、本能が警鐘を鳴らしている。

「怖くなった?」

 これは警告だ。ここで少しでも拒否感を出せば俺の望みは叶わない。
 完璧に取り繕うしかない。十七年の人生で最高の作り笑いを浮かべ「いいえ」と答えると、男はうっとりした顔で俺を抱きしめた。

「嬉しい。この前のおもちゃはすぐに壊れちゃったけど、カインは丈夫そうだね」
「はい」
「じゃあ、行こうか」

 慌てて彼の背中を追うと、背後から「兄さん」とか細い声が聞こえた。

「カイン。ほら、手を貸してあげる」

 笑顔の男がこちらに向けて手を差し出す。俺は振り返ることなくその手を取った。

 これがルイスとの別れになった。泣き声はもう聞こえなかった。
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