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第五話 乾いた音
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※残酷な表現あり
瞬きすらできなかった。普段眉一つ動かさないジャンの側近でさえ、青ざめた顔で立っているだけだった。
ラザロは今にも倒れそうになりながら、何とかジャンと対峙していた。
「世話係の、君に、聞いているんだけど」
俺といる時はまだ人間の顔をしていたんだと思った。人は、威圧感だけで人を服従させることができるのだと理解させられた。
何も考えられなかった。ただ目の前にいる、俺のことを兄貴分だと慕ってくれた青年を救いたかった。
「部屋から出ろ! 早く!」
ラザロの足が動き出す。奴隷の首輪による制約も、状況によっては役に立つことを知った。
直後に乾いたものが折れる嫌な音がした。それからラザロが受け身も取らずに後ろに倒れ、床を転がった。
「何度も同じことを言わせないでほしいな」
ああ、なんだ。単純なことだ。暴力が命令を上回る、そんなよくある理不尽が目の前で起こっていた。
ラザロは鼻を押さえ、痛みに耐えていた。指の隙間からは血が漏れ出ている。ルイスと別れた日の光景と重なり、情けないことに俺は腰が抜けてしまった。
ジャンがゆっくりとラザロに向かって歩みを進める。そしてぴったりと横に付いたと思ったら、足を上げて顔面を踏み抜いた。ラザロは声にならない悲鳴をあげていた。
「やめて! やめてください、これ以上は」
足枷は外れているのに、うまく立てなかった。這いながらジャンに近づき、腰のあたりにしがみつく。
「何? やめてほしいの?」
「お願いします。もう許してあげてください」
「そんなに大切なんだ。義弟くんよりも?」
「そ、れは」
「ごめんね。反応が可愛いからいじめたくなっちゃった」
奴は俺の頭を雑に撫でると、ラザロの脇腹に蹴りを入れた。ラザロはうめき声を上げるだけで、抵抗する気力もないようだ。
「やめて、やめてください。死ぬ、死んじゃう」
「大丈夫、大丈夫。人間は案外丈夫だから」
「やめて……お願いします。もう……やめて」
一方的な暴力は止まらなかった。このままだと本当にラザロは——俺はうわ言のようにジャンに懇願し続けた。
「やめて。これ以上は本当に危ないです」
「カインのわがままを聞いてあげたいけど、こんなんじゃ示しがつかないから」
「ならせめて、蹴るのはやめませんか? ここでやめないとラザロが」
「へえ、名前で呼ぶ仲なんだ。妬けるね」
ジャンがラザロに馬乗りになり、その顔面に拳を振り下ろした。
「やめて! やめてください! 後生ですから、俺が代わりに罰を受けますから、もうやめてあげてください」
「十二回」
「え?」
突然だった。なぜかジャンは数字を呟くと立ち上がりラザロの手を踏みつけた。
「よかった。二十回以上だと時間がかかるから助かったよ。ありがとう、カイン」
意味がわからない感謝を述べて、ジャンがラザロの指を掴んだ。それから唐突に「一」と呟き、そして次の瞬間、ラザロの指を関節と反対方向に曲げた。
「は?」
俺の呆然とした声は、断末魔にかき消された。ジャンは淡々と、作業のように、次々とラザロの指の骨を折っていく。
それから近くに控えていた側近がラザロの靴を脱がせた。ジャンはそれを見届けると徐に剣を構えた。
「いったい何の意図が……お願いですから、本当にもう、やめて」
「一本追加。カインもひどいことするなぁ」
ジャンは薄ら笑いを浮かべたまま、剣の柄をラザロの足の指に叩きつけた。
「なんで、そんなこと」
「やめてって言われた回数分、折ってみたよ」
なぜこの男はそんな恐ろしいことを平然と話せるのか。呼吸が乱れて、浅くしか息ができない。
「初めての世話係で、カインも距離感がわからなかったんだよね? だから一回だけチャンスをあげる」
「チャンス?」
「苦しい思いさせる前にさ、一思いに終わらせてあげなよ」
ナイフが手渡され、恐る恐る受け取る。どういうことか、この刃をジャンに向ける気は起きなかった。
ラザロがこちらをじっと見つめる。腫れ上がった顔から覗く目はガラス玉のように輝いていた。ただ事の成り行きに身を任せるような、そんな現実感のない目つきだった。
切れ味が悪そうなナイフだ。下手に知識があるからこそ、このナイフで人を死に至らせるには時間がかかることがわかってしまう。
一思いになんて、あの男はどれだけ残酷な嘘が吐けるのだろうか。
何時間も経ったような、たかが数十秒しか経っていないような、不思議な感覚。俺はラザロから目をそらし、口を開いた。
「できません」
「それがカインの答え?」
「俺にはできません」
手が震え、ナイフが汗で滑り落ちる。ジャンは床に落ちたナイフを拾いながら、側近に目で命令を下した。
側近がラザロの首根っこを掴んで部屋の外まで引きずっていく。俺はそれを眺めることしかできなかった。
「かわいそうに。今ここで殺してあげれば楽になったのに」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「こんなに震えてどうしたの? 俺のほうこそごめんね。カインが俺以外の男と仲良くするものだから傷ついちゃって」
ジャンがしゃがみ込み、俺の肩を抱く。俺はそれを振り払うことができなかった。
最後に見たラザロの表情が頭から離れない。それは、とても純粋な絶望だった。
瞬きすらできなかった。普段眉一つ動かさないジャンの側近でさえ、青ざめた顔で立っているだけだった。
ラザロは今にも倒れそうになりながら、何とかジャンと対峙していた。
「世話係の、君に、聞いているんだけど」
俺といる時はまだ人間の顔をしていたんだと思った。人は、威圧感だけで人を服従させることができるのだと理解させられた。
何も考えられなかった。ただ目の前にいる、俺のことを兄貴分だと慕ってくれた青年を救いたかった。
「部屋から出ろ! 早く!」
ラザロの足が動き出す。奴隷の首輪による制約も、状況によっては役に立つことを知った。
直後に乾いたものが折れる嫌な音がした。それからラザロが受け身も取らずに後ろに倒れ、床を転がった。
「何度も同じことを言わせないでほしいな」
ああ、なんだ。単純なことだ。暴力が命令を上回る、そんなよくある理不尽が目の前で起こっていた。
ラザロは鼻を押さえ、痛みに耐えていた。指の隙間からは血が漏れ出ている。ルイスと別れた日の光景と重なり、情けないことに俺は腰が抜けてしまった。
ジャンがゆっくりとラザロに向かって歩みを進める。そしてぴったりと横に付いたと思ったら、足を上げて顔面を踏み抜いた。ラザロは声にならない悲鳴をあげていた。
「やめて! やめてください、これ以上は」
足枷は外れているのに、うまく立てなかった。這いながらジャンに近づき、腰のあたりにしがみつく。
「何? やめてほしいの?」
「お願いします。もう許してあげてください」
「そんなに大切なんだ。義弟くんよりも?」
「そ、れは」
「ごめんね。反応が可愛いからいじめたくなっちゃった」
奴は俺の頭を雑に撫でると、ラザロの脇腹に蹴りを入れた。ラザロはうめき声を上げるだけで、抵抗する気力もないようだ。
「やめて、やめてください。死ぬ、死んじゃう」
「大丈夫、大丈夫。人間は案外丈夫だから」
「やめて……お願いします。もう……やめて」
一方的な暴力は止まらなかった。このままだと本当にラザロは——俺はうわ言のようにジャンに懇願し続けた。
「やめて。これ以上は本当に危ないです」
「カインのわがままを聞いてあげたいけど、こんなんじゃ示しがつかないから」
「ならせめて、蹴るのはやめませんか? ここでやめないとラザロが」
「へえ、名前で呼ぶ仲なんだ。妬けるね」
ジャンがラザロに馬乗りになり、その顔面に拳を振り下ろした。
「やめて! やめてください! 後生ですから、俺が代わりに罰を受けますから、もうやめてあげてください」
「十二回」
「え?」
突然だった。なぜかジャンは数字を呟くと立ち上がりラザロの手を踏みつけた。
「よかった。二十回以上だと時間がかかるから助かったよ。ありがとう、カイン」
意味がわからない感謝を述べて、ジャンがラザロの指を掴んだ。それから唐突に「一」と呟き、そして次の瞬間、ラザロの指を関節と反対方向に曲げた。
「は?」
俺の呆然とした声は、断末魔にかき消された。ジャンは淡々と、作業のように、次々とラザロの指の骨を折っていく。
それから近くに控えていた側近がラザロの靴を脱がせた。ジャンはそれを見届けると徐に剣を構えた。
「いったい何の意図が……お願いですから、本当にもう、やめて」
「一本追加。カインもひどいことするなぁ」
ジャンは薄ら笑いを浮かべたまま、剣の柄をラザロの足の指に叩きつけた。
「なんで、そんなこと」
「やめてって言われた回数分、折ってみたよ」
なぜこの男はそんな恐ろしいことを平然と話せるのか。呼吸が乱れて、浅くしか息ができない。
「初めての世話係で、カインも距離感がわからなかったんだよね? だから一回だけチャンスをあげる」
「チャンス?」
「苦しい思いさせる前にさ、一思いに終わらせてあげなよ」
ナイフが手渡され、恐る恐る受け取る。どういうことか、この刃をジャンに向ける気は起きなかった。
ラザロがこちらをじっと見つめる。腫れ上がった顔から覗く目はガラス玉のように輝いていた。ただ事の成り行きに身を任せるような、そんな現実感のない目つきだった。
切れ味が悪そうなナイフだ。下手に知識があるからこそ、このナイフで人を死に至らせるには時間がかかることがわかってしまう。
一思いになんて、あの男はどれだけ残酷な嘘が吐けるのだろうか。
何時間も経ったような、たかが数十秒しか経っていないような、不思議な感覚。俺はラザロから目をそらし、口を開いた。
「できません」
「それがカインの答え?」
「俺にはできません」
手が震え、ナイフが汗で滑り落ちる。ジャンは床に落ちたナイフを拾いながら、側近に目で命令を下した。
側近がラザロの首根っこを掴んで部屋の外まで引きずっていく。俺はそれを眺めることしかできなかった。
「かわいそうに。今ここで殺してあげれば楽になったのに」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「こんなに震えてどうしたの? 俺のほうこそごめんね。カインが俺以外の男と仲良くするものだから傷ついちゃって」
ジャンがしゃがみ込み、俺の肩を抱く。俺はそれを振り払うことができなかった。
最後に見たラザロの表情が頭から離れない。それは、とても純粋な絶望だった。
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