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氷解
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まさか、十造の化粧水がこんなに売れるとは、思ってもみず、二人は、戸惑いを隠せなかった
急遽、化粧水を作り直すやら、入れ物にする小竹を求めたりで、忙しく動き回っていた
十造は、楓を伴って良かったと、心底、安堵していた
作業を終え、遅い晩飯を取っていた、と、人の気配に気付いて、楓が仕込み杖を持って、部屋の隅に移動した
低い男の声が聞こえた
「御免下され、信濃の静海と申します、十造殿と楓殿と、お見受け致します、是非とも、ご挨拶をと、思いまして、参上致しました」
「これは、静海殿どうぞお入りを」
楓に、敵ではない事を伝え、膳を隅に遣らせた
「然らば御免」
戸を開けて、6尺位の頑丈そうな男が入って来た
正座してお互い挨拶を交わした
「いや、楓殿は、聞きしに勝る腕前ですな、儂は一度死にましたぞ
気配を絶ち切られた時、十造殿を襲っていたら、恐らく仕込みで、ぷすっと」
日に焼けた顔から白い歯がこぼれた
この男もただ者ではない、場面を全て読んでいた
真田衆は、皆こうなのだろうかと、十造は驚きを隠せなかった
楓も、この男を倒すには、十造の助けがなければ、相討ちが良いところ、仕込み杖の届かぬ間合いならば勝目は無し、
組合うて、針が届くならば、何とか相討ちと、相手の強さを認めていた
この前から明らかに、強い者達と会うている、信濃に行けば、もっと凄い忍がいるのだろうか、いずれにしても、自分よりも、強いと感じる者達が、一体どの様な技を使うのか、強い興味があった
「実はお二人を、街中で見かけ、才蔵達が申す、風体と似て居ると思い、半信半疑だったのだが、物腰からしてま違いないと確信いたしました
そして、もしや信濃に、来る途中では、と思いましてな」
十造は、藤六とのやりとりを、隠す事無く、静海に話した
そして、どの様な道程を経て、信濃へ入るか迷っているのだと伝える
「おお、ではそれがしが、案内しましょうぞ、明日の朝、改めて迎えに参りましょう」
「あ、いや、お待ち下され静海殿、実はの、、、」
ここ、浜松で化粧水が、思いもかけず売れたこと、そして、既に明日の分の、作り置きを売り捌かなければ、移動の妨げになると、話した
「ワハハハ、商売繁盛ですな、わかりました、では、昼過ぎにここでよろしいかの」
これで信濃までの、道順に悩まなくて済む
取り敢えず、作ってしまった、化粧水を何とかせねば
そんなことを思いながら、ぼんやりと、床を敷く楓を見ていたら
又もや人、の気配を感じ、楓と態勢を整える
「夜分に無礼つかまつる、手前、伊賀の藤六が長男、一郎に御座る、十造殿に用件あって参上しました」
「なんと、おはいりを、楓もおりますぞ」
戸を開けて、藤六を若くしたような人物が入って来た
「御免くださりませ、失礼致します、おお、楓、元気そうだの、何年ぶりかのう」
楓も突然の兄の出現で驚いている、暫し動きが止まったが、笑顔で再会を喜んだ
「これは、、、急に、何かありましたかな」
「はい、此度、甲斐の武田信玄が、京を目指して、大軍を引き連れ上洛致します、従いまして、今、武田方の領内へ入らば、出てくるのが大変になる事、恐らくは、仕事も無くなるであろう事、甲賀、伊賀にも多大な影響が有る事を、考えていただきたくと、申しておりました」
「なんと、左様か、うーむ、時勢が早く進みおるのう」
「正しく、私も、父と同じ考えで御座います、十造殿だけなら、どうにでもなりましょうが、未だ楓が足枷になりましょう」
「わざわざの知らせを、忝ない、ここは、藤六殿、一郎殿に従いましょうぞ
ただのう、隠蓑で始めた仕事が、未だ残っておって、それが終わり次第でも良いかの」
「勿論で御座います、三、四日でどうこうではありませぬゆえ」
「忝ない、それが終わり次第、儂らは引き揚げるとします、それよりも、楓とは暫くぶりなのでは、、、」
一郎は、楓の方を向いて「はあ、何年ぶりでしょう、十造殿がいなければ、会うてはいますまい、なあ楓」
楓も、雰囲気を感じ頷いた
「おお、そうそう、楓、楓、兄者にあれを、例のものをお渡しせい
一郎殿、この化粧水を奥方へ是非に、儂と楓の合作でしてな、使ってやってもらえぬか」
楓がいそいそと、竹筒に入った化粧水を、五本、六本、兄者に渡した
「楓、楓、風呂敷は無いのか、一郎殿が困っておろう」
楓の兄一郎は、このやりとりを、感心して見ていた、正に、以心伝心とはこの事よ、楓を良くここまでにしてくれた
感激した一郎は、帰りの挨拶もそこそこに、宿を辞した
翌朝、二人は、浜松の市の端に、ほんの小さな場を広げた
それでも昼までには、大方売り終え、楓に帰りの仕度を伝え、自身も帰りの仕度をしていた
「これは、十造殿、良いところでお会いした、実は、、、」
静海が現れ、何か伝えようとしている、十造は、それを手で制して
「事情は、わかっておる、又機会があろうと言うもの、約束しよう、そして、面倒じゃ、呼捨てでよいぞ、静海」
「うむ、承知、又の機会にの、十造、楓、さらば」
十造は、真田衆に、仕事以上の、何か魅力めいた物を感じていた
楓が荷物を背負い込むのを見て、その肩を軽く叩いて
「さあ、楓、旨い物を食べて、帰ろうぞ」
「お待ち下され、十造殿、暫くお待ちを」
「これは、一郎殿、いかがされたかの」
楓の兄一郎が現れたのだ
「あ、いや、十造殿、昨日頂戴した、化粧水がいたく評判が良いので
実は、家内があちこちに紹介したところ
さる御方が、この品は見覚えがある、ずいぶんと昔に、親しく出入りしていた薬屋のものに違いないと、家内は私から十造殿の年格好を聞いて居りましたので、そんな筈は御座いません、年が若う御座います、と申したところ、確か息子がいた筈、余りにも懐かしい、故郷の話を聞いて見たい、此処へは呼べぬのかと、、、
儂は恐らく何かの間違い、勘違いであろうと、家内には言うたのだが」
多分、何か義理やら、しがらみが有るのであろう
他ならぬ、藤六の長男であり、楓の兄者の頼み
「一郎殿構いませぬ、儂が、その方にお会いすれば解決する話、参りましょう」
「あいや、しかし、本当によろしいので」
「勿論、だが、楓まで付き合わせるのは、どうかのう」
「忝ない、さすれば、楓は我が家に連れて行き、家族に会わせるとしましょう」
「おお、おお、これは、一郎殿良き提案、兄妹の水入らず、この十造、なるべく、時間をかけて戻りましょう」
十造は楓にこれまでの事情を話し、屋敷町の方へと三人で歩き出した
途中、一郎の家に楓を置いて、その先に有ると言う、目的の屋敷についた
「ほう、案外と立派な屋敷ですな
この格好では、そなたに迷惑ではないかの」
一郎が申し訳無さそうに言う
「はい、実は、裏木戸からの訪問となるのです」
「帰って良かったわい、この身なりでは、そなたの出世に関わるわ」
「そんな、、、取り敢えずご挨拶してきますので、暫くお待ちを
この後は、おそらくは、お女中の案内となります、私は先に、戻っております」
思いがけず、兄妹の、時間をかけた対面が叶い、十造は、遥々ここまで来たかいが有ったと思うことにした
十造は、敷地内で立って待っていた
格式張って、偉そうなのが、一番虫がすかぬわ、少し腹を立てつつも、今一郎の家に行けば、まだ早い、が、
暫し待って誰も来ないのであれば、最早帰ろうと思っていた
その時に、ここが敷地内の離れになっていることに気がついた
その建物から人が現れた
小綺麗な身なりの、女中が少し早足で、十造に頭を下げた
「大変お待たせいたし申し訳もございませぬ、準備が整いました故、どうぞこちらへ」
ん、儂は、何処からどう見ても、薬売りの風体、扱い方が武士並とは、さては、一郎殿は、儂に仕事を頼まれたのだな
ならば、最初からそう言うてくれれば良いものを
「こちらにて、お待ちくださいませ、只今主人を呼んで参ります故」
成る程のう、礼を尽くせと、そう言う事か、主人がお主より上だから、まだ待てとな
戸が静かに空いた
「若狭様がお入りになられます」
十造は、正座をして、頭を下げ、上座に若狭とか言う奴を待った
すると、平伏する十造の横を、女の足袋と幼子の足が横を通っていった
戸が閉まり、何の声もかからない
『此では、らちが明かぬではないか、もう良いわ、一郎殿の面目も、これで立ったであろう、儂は、帰ろうわい』
顔を上げた、十造の前に、涙に濡れた、静がいた、子供を抱いているつもりだろうが、子供が支えになっていた
直ぐにでも、そこに行き、抱き締めたかった、だが、二人の間約二間には、見えない壁がある、
十造は声をわざと張って
「お元気でしたか、若狭様、お久しぶりで御座います」
静はそれが気に食わなかったのか、十造を泣き顔でにらんだ
どんな時も、美しい、ああ、静がいる、十造は惚れ惚れと静を見ている
泣きながら、静が語りだした
「化粧水の竹に、十と焼き印が有りました、もしやと思い、探して貰いました、もう二度と会う事など有るまいと、思うておりました、そして、自身にそう言い聞かせて、おりました」
「恐悦至極に御座います」
静は、肝心な時に、至極冷静になる十造を憎らしく思った、静の為にそうしているのが、頭のなかでは、わかっているのだが、そこがまた、もどかしい
やっと、泣き止んだ
幼子が十造の所にやって来て、十造のあちこちをさわりだす
「十造殿、十造殿おいたは、なりませぬ、なりませぬ」
嗜めつつも、笑いながら止めようとはしない、ん、十造は子供を抱きながら、ゆっくりと静の顔を見返した
「お子は、十造殿と、、、申しますかな」
「はい、子供が生まれたら、名は十造と願いでました、そうして、十造義次と
私は、十造と言う名が大好きで、お陰様で、毎日幾度でも、十造殿と好きなだけ呼ぶ事が出来るのです」
外から声が、かけられた
「若狭様そろそろ刻限かと、、、」
「わかりました」
静いや、若狭の方が、意味有りげに、十造の目を、見ながら
「山は、今年もかっこうが、鳴きましたか
当家の、かっこうは、子が出来てから、逞しゅうなりました、もう大丈夫、毎日十造殿、十造殿と鳴いて暮らしております
さ、十造殿まいりますぞ」
十造にまとわりついていた、十造義次を抱えながら、若狭の方は、十造に素早く囁いた
「さようなら、今でも好きです、旦那様
どうか、お元気で」
十造は平伏しで、若狭の方の退室を待った
そして、屋敷から出て、一郎の家に行き、楓と合流した
楓は、兄一郎の子供達に、帰るなと、泣かれながら、見送られて出て来た
一郎に丁重に礼を述べ、いよいよ、帰る事となった
余りにも、衝撃が大きすぎた、若狭の方、いや、静の、大胆な計画に言葉が無かった
確かに、考えてみれば、合点の行くことばかり、あんなに、毎日激しく十造を求めたのは、全てがこの為にあったか
深謀遠慮とは正にこの事
一緒になれぬなら、好きな人と過ごせぬなら、では、どうすれば良いのか、そうして思いついたは良いが
それを、話すと儂は絶対に協力しない
ならば、黙っていても、ひたすら愛されれば良い、別れの日が来るまでずっと
そして、かっこうの様に別の巣に移るのだ
考えたものよ、あの純情な静が、そんなにまでして、儂の、、、
楓は、兄の家に十造が、迎えに来た時から、気付いていた、それも、一目でわかるほどに
此度は戦仕事が無かったのに、十造様はやつれておる
楓は、人が話しているのを、風で感じる事が出来る、十造のは、特に感じないと、お互いの命がかかっている
その風が、なくなってしまった
珍しく楓が言わねば、飯も忘れて歩いていた
十造は、すっかり変わってしまった、甲賀と伊賀の境に着くまで、丸二日一言も話さなかった
ただとぼとぼと、道があるから、歩いているだけの木偶人形だ
楓はだんだんと腹が立って来た、いつまでも私を無視する積もりなのか
私は、貴方の添え物なのですか
人が黙っておれば、いい気になって、ほんに腹の立つこと
十造が悩みを抱えて居るのに、何の助けにもなっていない自分にも、楓は腹が立っていた
楓は、十造の家まで付いていった
何故かわからないが、一緒に居たかったのだ
十造は、家に入るなり、荷物を下ろすと、直ぐに、囲炉裏に火も着けず酒を飲み始めた
変わって楓が火を着け、何か作ろうと、竈にも、ついでに外の風呂にも、火を着け家に戻った
水を汲んで来て、十造の足を洗い、湯を沸かす、着替えを出したは良いが、寝てからのほうがやりやすい事に気が付いた
未だ明るいので、畑からなんやかやと、取ってきて、湯がいたりして、十造にあてがった
十造は何も言わずに、ただ酒を飲んでいる
楓は、十造が酒を飲んでいるうちに、自分の事を片付け、肌を見せずに、静の着物に素早く着替えた
暗くなるには、少し時間がある、楓の好きな十造の露天風呂には、まだ早い
部屋の隅に置いてある、十造の書物を読み始めた
楓は、家族皆に字だけは、厳しく教えられた、口が不自由な楓にとって、それは生命線だと家族は思っていたからだ
お陰でどんな本だとしても、読む事は苦痛ではなかった
ただ十造の書物は、薬や火薬の、基本がなければ理解できない代物である
そのなかに、新しい紙で出来た書物が一冊有るのを見つけた
隅の方にちいさく「か」と書いてある
おそらくは、十造が自分でしたためた物なのであろう、一度は、元に戻したのだが、少しだけならと、そっと十造を窺うと、大丈夫ただの酔っ払いに、なりさがっている
「か」と書いてある書物を開いてみる
『楓との連携は、少々の難はあるが、それを補って、余りある成果が得られる
その、口の動き、目の動き、手の動き
よくよく見てより、気遣いの事
その才能を、生かすも、殺すも、相方しだいなり』
これまでの手の動き、変更、追加の場合は、本人の了解経て行うべき事
以下
手の動き解説図なり
仕事の度に、十造と、楓が交わした、手の合図を忘れない様に書いてあった
十造の気付いた事が、細かく書いて有り、楓本人でさえ初めて知った事もあった
頁を飛ばして、最後の方に
『聾者に、正しく効能ある薬今だ調合出来ず
もし、効能あらば、ま先に楓にこそ飲ましめ
二度と、オシ等呼ばせぬものを』
胸が熱くなった
流石は十造様、この楓をいつも見ていて下さる
楓は素直に、感動を覚え
その書物を胸に抱いたまま、動かない
十造は、何故気持ちがこんなにも、落ち込むのか原因は知っていた
それは、静が十造の子を産んで、「かっこう」の話を教えたからではなく
静の口から、別れ際に「さようなら」が発せられたからだった
偶然、久し振りに会った静は、強く、逞しい母親になっていた
十造は、はたと、気が付いた
十造だけが、呑気に、在りし日の静を追いかけ、無い物ねだりをしていた時に、静は一人で、産まれ来る、二人の間の子供の為に、せっせと準備していたのだ
子供が産まれて、静は一人ではなくなった、愛する者が身近に出来た
十造に、見て貰う事も出来た
これが最後の別れ
そして、「かっこう」は十造の元から飛び去った
「けっ、さようならじゃと、けっ、何がじゃ、こんちくしょーめが」
帰って来てから、ずっとこの調子で、酒を喰らっていた
「えーい、面白くもないわ、それ、飲めや歌えや、あらほーい、よい、よーい」
漸く気が付いた、「かっこう」は儂よ、静に卵を産み付けて、儂が飛び去ったのよ
そして、あれは、あの涙は、再開の喜びではなく、別れの涙よ
楓が用意してくれた、酒の肴が入った、皿や茶碗を箸で叩きながら、無理に陽気な振りをして、何の意味もない、ただの酔っ払いの戯言を喚きちらす
楓が久方ぶりに、十造の風を感じた、背中を丸め、傍にある、茶碗や丼を箸で叩いて、口を開け歌っては見える、涙も流れてはいない、でも解る、十造様は悲しみに包まれて、泣いている
楓は、胸に抱いていた書物をそっと元に戻した
立ち上がって、十造の背中から抱きついた、首に手をまわし、ゆっくりと、襟足に顔を着けた
十造の動きが一瞬止まり、今度は力なく動き出す
『いつも、力になり、助けてくれるのに、怪我をしているわけでもないのに、楓は貴方を助ける事ができませぬ、何も出来ない自分が悔しゅう御座います、こんな気持ちでしか、貴方に抱き付けない自分が情けのうございます
もう、良いではございませぬか、お休みくださいませ』
十造の襟足に涙が落ちる、十造は動かない
楓は十造が酔い潰れて寝てしまったことを知った
布団を敷いて、十造を着替えさせ、露天風呂に入った
見上げる空は、満天の星、雲はなく、黄色い三日月が輝いていた
楓は今日の一日が終わって、このお気に入りの露天風呂に浸かりながら
『嗚呼、溶けてしまいたい、何もかもが、溶けてしまえ
十造様も、湯の中に入れた氷の様に、溶けてしまえば良い
でも、髪も髭も、ぼうぼうで、まるで野良犬の様じゃった、明日楓がしゃんとしてくれる、逆らおうものなら、針で始末してくれよう』
風呂に入った楓は、家の中に戻って、直ぐに寝てしまった
「う~~ん」大きく伸びをして、辺りを見回すと布団に寝ている自分がいる、囲炉裏をはさんで、静の着物を着た楓が寝ている
又、楓に甘えたのか、益々気持ちが落ち込んで来る
うむ、楓が居るということは、あいつ昨夜は風呂に入ったな、未だ薪をたせば入れるであろうな、良し
風呂釜の熾火に、薪を足して、朝の風呂に、ゆったりと浸かっていた十造の喉元に、いきなり和ばさみが突き付けられた
相手は既に、十造の髪の毛を掴み、後は首の動脈に沿って、刃を滑らすだけであった
十造は観念した、何しろ相手は、楓だ
動くだけ無駄、完全に背後を取られている、髪を引っ張られながら、後頭部を、風呂釜の淵に持って来られて、いきなり十造の、髪を切り出した
時々、「クククク」と笑い、目の前にいきなり剃刀の刃が現れる、結局髭と髪を、整えてくれただけなのだが、完全に遊ばれていた、楓には、結構見られて居るのだと、今更ながら思う十造がいた
そして、家族と十造以外に楓に見つめられて、生きて居るものは、あまりいないと思うと、改めて楓が、味方で良かったと心の底から感謝した
楓は思う、十造様は楓に対して、何も構えては居ないのだ
多分、抱きつかれても、殺されても、そんなに気にしては居ないのだ
でも、所詮は酔っ払い
酒臭く、直ぐに弱みを見せるだらしない人
そんな人に「静」様はよく惚れてくれたものです
感心致します
十造の、髪も髭も終った楓は、十造の背中を流し忘れたのを気が付き、物凄く不機嫌な顔で十造の背中を流してやる
それが終ると、家の中へと入っていった
帰り仕度を済ませた楓に、十造は、宿題を課した
小さな石弓(ボウガン)を与えた
これを、次に会うまでに、お前の針の技程に上達せよ、飛び道具も、覚えておいて損はないと伝えた
全てが終り草鞋を履こうとしていた楓の手を遮り、十造が履かせてやる
楓は、十造が酔っ払っていたなら抱きつけたのに、と、残念がった
十造は、楓が帰った後、貯まっていた、薬の調合やら、仕込みの仕事に没頭していた
数日が過ぎ、いつもの生活に戻った頃合いで、三郎がやって来た
「暫くでした、元気そうで何よりですな」
「おう、楓は石弓の稽古をしておろうの」
「はあ、人並み外れた、集中力で毎日欠かさず
贔屓の目無しに、上達しております
最早、止まっている、的を外す事はありますまい、、、」
「矢張のう、しかし、お主の今の物言いは、なにか淀みがあるようだが」
「一文銭位の丸い輪を書きまして、その中に十造と、、、これが又、百発百中でして」
「うおお、近頃寒気がするのは、もしかして、それかの
まあ、上達するなら、的でも何でも良いわ
其よりも、仕事の話か」
「はい、甲斐の武田信玄が西へ向かって動いています、その数約二万、途中で、もっと増えて行くのではないかと思われます、今頃は駿河の何処かと思われます
間も無く三河にも、、
この武田を止めるには、信玄に居なくなって貰うほかなく、それも、敵討ち等の名目も立たぬ様に、病死で静かに殺して欲しいのです」
「簡単に言うてくれるの、時がかなり、かかると思うがの
さて、それまで織田や徳川がもつかのう」
「織田は、畿内の各所で大わらわ、おそらく徳川に、当てられる人数も、多くは割けないでしょうな
やっかいなのは、戦わないと、益々寝返りが多くなります
ですから、ここは、なにが何でも、信玄に出来るだけ穏便に、亡くなって欲しいのです」
「話はわかった、今度は三郎の助力はないかの、準備までが大変ぞ、楓は明日、早くから寄越してくれ、暫くここで作業して貰う」
「はい、私は何をすればよろしいか」
「うむ、此度は三郎が一番大変ぞ、今何かに書きうつすわい、む、時が惜しいの、先に楓を寄越しに行ってくれぬか、日暮れまでには、間に合うはずよ、其までに頼み事を書いておくわ」
「はい、承知しました」
「楓には、少しここで一人暮らしになると伝えてくれぬか、さすれば、いつもとは、荷物も違うてくるはずよ」
その日の夕方、三郎と楓がやって来た
十造は、先ず三郎に細かな、手配、準備の品等を書いた紙を手渡した
「三郎、明日早くでも、今からでも良い、浜松に発つのだ
儂との待ち会わせ場所を何処か決めてくれぬか
儂は明日早くに三河方面に出て、武田の軍を、見てこようと思うておる」
「それでは、一郎兄のところへ、私は、今から出立致します
父も既に向こうへ出ていました」
「おう、そうか、何処ぞで会うかも知れんな
では、頼んだぞ」
三郎は、出て行った、十造は、楓を呼び寄せ、これから、楓がしなければならない、仕事の段取りを説明し出す
外では、時期外れの蟋蟀が寂しく鳴いていた
急遽、化粧水を作り直すやら、入れ物にする小竹を求めたりで、忙しく動き回っていた
十造は、楓を伴って良かったと、心底、安堵していた
作業を終え、遅い晩飯を取っていた、と、人の気配に気付いて、楓が仕込み杖を持って、部屋の隅に移動した
低い男の声が聞こえた
「御免下され、信濃の静海と申します、十造殿と楓殿と、お見受け致します、是非とも、ご挨拶をと、思いまして、参上致しました」
「これは、静海殿どうぞお入りを」
楓に、敵ではない事を伝え、膳を隅に遣らせた
「然らば御免」
戸を開けて、6尺位の頑丈そうな男が入って来た
正座してお互い挨拶を交わした
「いや、楓殿は、聞きしに勝る腕前ですな、儂は一度死にましたぞ
気配を絶ち切られた時、十造殿を襲っていたら、恐らく仕込みで、ぷすっと」
日に焼けた顔から白い歯がこぼれた
この男もただ者ではない、場面を全て読んでいた
真田衆は、皆こうなのだろうかと、十造は驚きを隠せなかった
楓も、この男を倒すには、十造の助けがなければ、相討ちが良いところ、仕込み杖の届かぬ間合いならば勝目は無し、
組合うて、針が届くならば、何とか相討ちと、相手の強さを認めていた
この前から明らかに、強い者達と会うている、信濃に行けば、もっと凄い忍がいるのだろうか、いずれにしても、自分よりも、強いと感じる者達が、一体どの様な技を使うのか、強い興味があった
「実はお二人を、街中で見かけ、才蔵達が申す、風体と似て居ると思い、半信半疑だったのだが、物腰からしてま違いないと確信いたしました
そして、もしや信濃に、来る途中では、と思いましてな」
十造は、藤六とのやりとりを、隠す事無く、静海に話した
そして、どの様な道程を経て、信濃へ入るか迷っているのだと伝える
「おお、ではそれがしが、案内しましょうぞ、明日の朝、改めて迎えに参りましょう」
「あ、いや、お待ち下され静海殿、実はの、、、」
ここ、浜松で化粧水が、思いもかけず売れたこと、そして、既に明日の分の、作り置きを売り捌かなければ、移動の妨げになると、話した
「ワハハハ、商売繁盛ですな、わかりました、では、昼過ぎにここでよろしいかの」
これで信濃までの、道順に悩まなくて済む
取り敢えず、作ってしまった、化粧水を何とかせねば
そんなことを思いながら、ぼんやりと、床を敷く楓を見ていたら
又もや人、の気配を感じ、楓と態勢を整える
「夜分に無礼つかまつる、手前、伊賀の藤六が長男、一郎に御座る、十造殿に用件あって参上しました」
「なんと、おはいりを、楓もおりますぞ」
戸を開けて、藤六を若くしたような人物が入って来た
「御免くださりませ、失礼致します、おお、楓、元気そうだの、何年ぶりかのう」
楓も突然の兄の出現で驚いている、暫し動きが止まったが、笑顔で再会を喜んだ
「これは、、、急に、何かありましたかな」
「はい、此度、甲斐の武田信玄が、京を目指して、大軍を引き連れ上洛致します、従いまして、今、武田方の領内へ入らば、出てくるのが大変になる事、恐らくは、仕事も無くなるであろう事、甲賀、伊賀にも多大な影響が有る事を、考えていただきたくと、申しておりました」
「なんと、左様か、うーむ、時勢が早く進みおるのう」
「正しく、私も、父と同じ考えで御座います、十造殿だけなら、どうにでもなりましょうが、未だ楓が足枷になりましょう」
「わざわざの知らせを、忝ない、ここは、藤六殿、一郎殿に従いましょうぞ
ただのう、隠蓑で始めた仕事が、未だ残っておって、それが終わり次第でも良いかの」
「勿論で御座います、三、四日でどうこうではありませぬゆえ」
「忝ない、それが終わり次第、儂らは引き揚げるとします、それよりも、楓とは暫くぶりなのでは、、、」
一郎は、楓の方を向いて「はあ、何年ぶりでしょう、十造殿がいなければ、会うてはいますまい、なあ楓」
楓も、雰囲気を感じ頷いた
「おお、そうそう、楓、楓、兄者にあれを、例のものをお渡しせい
一郎殿、この化粧水を奥方へ是非に、儂と楓の合作でしてな、使ってやってもらえぬか」
楓がいそいそと、竹筒に入った化粧水を、五本、六本、兄者に渡した
「楓、楓、風呂敷は無いのか、一郎殿が困っておろう」
楓の兄一郎は、このやりとりを、感心して見ていた、正に、以心伝心とはこの事よ、楓を良くここまでにしてくれた
感激した一郎は、帰りの挨拶もそこそこに、宿を辞した
翌朝、二人は、浜松の市の端に、ほんの小さな場を広げた
それでも昼までには、大方売り終え、楓に帰りの仕度を伝え、自身も帰りの仕度をしていた
「これは、十造殿、良いところでお会いした、実は、、、」
静海が現れ、何か伝えようとしている、十造は、それを手で制して
「事情は、わかっておる、又機会があろうと言うもの、約束しよう、そして、面倒じゃ、呼捨てでよいぞ、静海」
「うむ、承知、又の機会にの、十造、楓、さらば」
十造は、真田衆に、仕事以上の、何か魅力めいた物を感じていた
楓が荷物を背負い込むのを見て、その肩を軽く叩いて
「さあ、楓、旨い物を食べて、帰ろうぞ」
「お待ち下され、十造殿、暫くお待ちを」
「これは、一郎殿、いかがされたかの」
楓の兄一郎が現れたのだ
「あ、いや、十造殿、昨日頂戴した、化粧水がいたく評判が良いので
実は、家内があちこちに紹介したところ
さる御方が、この品は見覚えがある、ずいぶんと昔に、親しく出入りしていた薬屋のものに違いないと、家内は私から十造殿の年格好を聞いて居りましたので、そんな筈は御座いません、年が若う御座います、と申したところ、確か息子がいた筈、余りにも懐かしい、故郷の話を聞いて見たい、此処へは呼べぬのかと、、、
儂は恐らく何かの間違い、勘違いであろうと、家内には言うたのだが」
多分、何か義理やら、しがらみが有るのであろう
他ならぬ、藤六の長男であり、楓の兄者の頼み
「一郎殿構いませぬ、儂が、その方にお会いすれば解決する話、参りましょう」
「あいや、しかし、本当によろしいので」
「勿論、だが、楓まで付き合わせるのは、どうかのう」
「忝ない、さすれば、楓は我が家に連れて行き、家族に会わせるとしましょう」
「おお、おお、これは、一郎殿良き提案、兄妹の水入らず、この十造、なるべく、時間をかけて戻りましょう」
十造は楓にこれまでの事情を話し、屋敷町の方へと三人で歩き出した
途中、一郎の家に楓を置いて、その先に有ると言う、目的の屋敷についた
「ほう、案外と立派な屋敷ですな
この格好では、そなたに迷惑ではないかの」
一郎が申し訳無さそうに言う
「はい、実は、裏木戸からの訪問となるのです」
「帰って良かったわい、この身なりでは、そなたの出世に関わるわ」
「そんな、、、取り敢えずご挨拶してきますので、暫くお待ちを
この後は、おそらくは、お女中の案内となります、私は先に、戻っております」
思いがけず、兄妹の、時間をかけた対面が叶い、十造は、遥々ここまで来たかいが有ったと思うことにした
十造は、敷地内で立って待っていた
格式張って、偉そうなのが、一番虫がすかぬわ、少し腹を立てつつも、今一郎の家に行けば、まだ早い、が、
暫し待って誰も来ないのであれば、最早帰ろうと思っていた
その時に、ここが敷地内の離れになっていることに気がついた
その建物から人が現れた
小綺麗な身なりの、女中が少し早足で、十造に頭を下げた
「大変お待たせいたし申し訳もございませぬ、準備が整いました故、どうぞこちらへ」
ん、儂は、何処からどう見ても、薬売りの風体、扱い方が武士並とは、さては、一郎殿は、儂に仕事を頼まれたのだな
ならば、最初からそう言うてくれれば良いものを
「こちらにて、お待ちくださいませ、只今主人を呼んで参ります故」
成る程のう、礼を尽くせと、そう言う事か、主人がお主より上だから、まだ待てとな
戸が静かに空いた
「若狭様がお入りになられます」
十造は、正座をして、頭を下げ、上座に若狭とか言う奴を待った
すると、平伏する十造の横を、女の足袋と幼子の足が横を通っていった
戸が閉まり、何の声もかからない
『此では、らちが明かぬではないか、もう良いわ、一郎殿の面目も、これで立ったであろう、儂は、帰ろうわい』
顔を上げた、十造の前に、涙に濡れた、静がいた、子供を抱いているつもりだろうが、子供が支えになっていた
直ぐにでも、そこに行き、抱き締めたかった、だが、二人の間約二間には、見えない壁がある、
十造は声をわざと張って
「お元気でしたか、若狭様、お久しぶりで御座います」
静はそれが気に食わなかったのか、十造を泣き顔でにらんだ
どんな時も、美しい、ああ、静がいる、十造は惚れ惚れと静を見ている
泣きながら、静が語りだした
「化粧水の竹に、十と焼き印が有りました、もしやと思い、探して貰いました、もう二度と会う事など有るまいと、思うておりました、そして、自身にそう言い聞かせて、おりました」
「恐悦至極に御座います」
静は、肝心な時に、至極冷静になる十造を憎らしく思った、静の為にそうしているのが、頭のなかでは、わかっているのだが、そこがまた、もどかしい
やっと、泣き止んだ
幼子が十造の所にやって来て、十造のあちこちをさわりだす
「十造殿、十造殿おいたは、なりませぬ、なりませぬ」
嗜めつつも、笑いながら止めようとはしない、ん、十造は子供を抱きながら、ゆっくりと静の顔を見返した
「お子は、十造殿と、、、申しますかな」
「はい、子供が生まれたら、名は十造と願いでました、そうして、十造義次と
私は、十造と言う名が大好きで、お陰様で、毎日幾度でも、十造殿と好きなだけ呼ぶ事が出来るのです」
外から声が、かけられた
「若狭様そろそろ刻限かと、、、」
「わかりました」
静いや、若狭の方が、意味有りげに、十造の目を、見ながら
「山は、今年もかっこうが、鳴きましたか
当家の、かっこうは、子が出来てから、逞しゅうなりました、もう大丈夫、毎日十造殿、十造殿と鳴いて暮らしております
さ、十造殿まいりますぞ」
十造にまとわりついていた、十造義次を抱えながら、若狭の方は、十造に素早く囁いた
「さようなら、今でも好きです、旦那様
どうか、お元気で」
十造は平伏しで、若狭の方の退室を待った
そして、屋敷から出て、一郎の家に行き、楓と合流した
楓は、兄一郎の子供達に、帰るなと、泣かれながら、見送られて出て来た
一郎に丁重に礼を述べ、いよいよ、帰る事となった
余りにも、衝撃が大きすぎた、若狭の方、いや、静の、大胆な計画に言葉が無かった
確かに、考えてみれば、合点の行くことばかり、あんなに、毎日激しく十造を求めたのは、全てがこの為にあったか
深謀遠慮とは正にこの事
一緒になれぬなら、好きな人と過ごせぬなら、では、どうすれば良いのか、そうして思いついたは良いが
それを、話すと儂は絶対に協力しない
ならば、黙っていても、ひたすら愛されれば良い、別れの日が来るまでずっと
そして、かっこうの様に別の巣に移るのだ
考えたものよ、あの純情な静が、そんなにまでして、儂の、、、
楓は、兄の家に十造が、迎えに来た時から、気付いていた、それも、一目でわかるほどに
此度は戦仕事が無かったのに、十造様はやつれておる
楓は、人が話しているのを、風で感じる事が出来る、十造のは、特に感じないと、お互いの命がかかっている
その風が、なくなってしまった
珍しく楓が言わねば、飯も忘れて歩いていた
十造は、すっかり変わってしまった、甲賀と伊賀の境に着くまで、丸二日一言も話さなかった
ただとぼとぼと、道があるから、歩いているだけの木偶人形だ
楓はだんだんと腹が立って来た、いつまでも私を無視する積もりなのか
私は、貴方の添え物なのですか
人が黙っておれば、いい気になって、ほんに腹の立つこと
十造が悩みを抱えて居るのに、何の助けにもなっていない自分にも、楓は腹が立っていた
楓は、十造の家まで付いていった
何故かわからないが、一緒に居たかったのだ
十造は、家に入るなり、荷物を下ろすと、直ぐに、囲炉裏に火も着けず酒を飲み始めた
変わって楓が火を着け、何か作ろうと、竈にも、ついでに外の風呂にも、火を着け家に戻った
水を汲んで来て、十造の足を洗い、湯を沸かす、着替えを出したは良いが、寝てからのほうがやりやすい事に気が付いた
未だ明るいので、畑からなんやかやと、取ってきて、湯がいたりして、十造にあてがった
十造は何も言わずに、ただ酒を飲んでいる
楓は、十造が酒を飲んでいるうちに、自分の事を片付け、肌を見せずに、静の着物に素早く着替えた
暗くなるには、少し時間がある、楓の好きな十造の露天風呂には、まだ早い
部屋の隅に置いてある、十造の書物を読み始めた
楓は、家族皆に字だけは、厳しく教えられた、口が不自由な楓にとって、それは生命線だと家族は思っていたからだ
お陰でどんな本だとしても、読む事は苦痛ではなかった
ただ十造の書物は、薬や火薬の、基本がなければ理解できない代物である
そのなかに、新しい紙で出来た書物が一冊有るのを見つけた
隅の方にちいさく「か」と書いてある
おそらくは、十造が自分でしたためた物なのであろう、一度は、元に戻したのだが、少しだけならと、そっと十造を窺うと、大丈夫ただの酔っ払いに、なりさがっている
「か」と書いてある書物を開いてみる
『楓との連携は、少々の難はあるが、それを補って、余りある成果が得られる
その、口の動き、目の動き、手の動き
よくよく見てより、気遣いの事
その才能を、生かすも、殺すも、相方しだいなり』
これまでの手の動き、変更、追加の場合は、本人の了解経て行うべき事
以下
手の動き解説図なり
仕事の度に、十造と、楓が交わした、手の合図を忘れない様に書いてあった
十造の気付いた事が、細かく書いて有り、楓本人でさえ初めて知った事もあった
頁を飛ばして、最後の方に
『聾者に、正しく効能ある薬今だ調合出来ず
もし、効能あらば、ま先に楓にこそ飲ましめ
二度と、オシ等呼ばせぬものを』
胸が熱くなった
流石は十造様、この楓をいつも見ていて下さる
楓は素直に、感動を覚え
その書物を胸に抱いたまま、動かない
十造は、何故気持ちがこんなにも、落ち込むのか原因は知っていた
それは、静が十造の子を産んで、「かっこう」の話を教えたからではなく
静の口から、別れ際に「さようなら」が発せられたからだった
偶然、久し振りに会った静は、強く、逞しい母親になっていた
十造は、はたと、気が付いた
十造だけが、呑気に、在りし日の静を追いかけ、無い物ねだりをしていた時に、静は一人で、産まれ来る、二人の間の子供の為に、せっせと準備していたのだ
子供が産まれて、静は一人ではなくなった、愛する者が身近に出来た
十造に、見て貰う事も出来た
これが最後の別れ
そして、「かっこう」は十造の元から飛び去った
「けっ、さようならじゃと、けっ、何がじゃ、こんちくしょーめが」
帰って来てから、ずっとこの調子で、酒を喰らっていた
「えーい、面白くもないわ、それ、飲めや歌えや、あらほーい、よい、よーい」
漸く気が付いた、「かっこう」は儂よ、静に卵を産み付けて、儂が飛び去ったのよ
そして、あれは、あの涙は、再開の喜びではなく、別れの涙よ
楓が用意してくれた、酒の肴が入った、皿や茶碗を箸で叩きながら、無理に陽気な振りをして、何の意味もない、ただの酔っ払いの戯言を喚きちらす
楓が久方ぶりに、十造の風を感じた、背中を丸め、傍にある、茶碗や丼を箸で叩いて、口を開け歌っては見える、涙も流れてはいない、でも解る、十造様は悲しみに包まれて、泣いている
楓は、胸に抱いていた書物をそっと元に戻した
立ち上がって、十造の背中から抱きついた、首に手をまわし、ゆっくりと、襟足に顔を着けた
十造の動きが一瞬止まり、今度は力なく動き出す
『いつも、力になり、助けてくれるのに、怪我をしているわけでもないのに、楓は貴方を助ける事ができませぬ、何も出来ない自分が悔しゅう御座います、こんな気持ちでしか、貴方に抱き付けない自分が情けのうございます
もう、良いではございませぬか、お休みくださいませ』
十造の襟足に涙が落ちる、十造は動かない
楓は十造が酔い潰れて寝てしまったことを知った
布団を敷いて、十造を着替えさせ、露天風呂に入った
見上げる空は、満天の星、雲はなく、黄色い三日月が輝いていた
楓は今日の一日が終わって、このお気に入りの露天風呂に浸かりながら
『嗚呼、溶けてしまいたい、何もかもが、溶けてしまえ
十造様も、湯の中に入れた氷の様に、溶けてしまえば良い
でも、髪も髭も、ぼうぼうで、まるで野良犬の様じゃった、明日楓がしゃんとしてくれる、逆らおうものなら、針で始末してくれよう』
風呂に入った楓は、家の中に戻って、直ぐに寝てしまった
「う~~ん」大きく伸びをして、辺りを見回すと布団に寝ている自分がいる、囲炉裏をはさんで、静の着物を着た楓が寝ている
又、楓に甘えたのか、益々気持ちが落ち込んで来る
うむ、楓が居るということは、あいつ昨夜は風呂に入ったな、未だ薪をたせば入れるであろうな、良し
風呂釜の熾火に、薪を足して、朝の風呂に、ゆったりと浸かっていた十造の喉元に、いきなり和ばさみが突き付けられた
相手は既に、十造の髪の毛を掴み、後は首の動脈に沿って、刃を滑らすだけであった
十造は観念した、何しろ相手は、楓だ
動くだけ無駄、完全に背後を取られている、髪を引っ張られながら、後頭部を、風呂釜の淵に持って来られて、いきなり十造の、髪を切り出した
時々、「クククク」と笑い、目の前にいきなり剃刀の刃が現れる、結局髭と髪を、整えてくれただけなのだが、完全に遊ばれていた、楓には、結構見られて居るのだと、今更ながら思う十造がいた
そして、家族と十造以外に楓に見つめられて、生きて居るものは、あまりいないと思うと、改めて楓が、味方で良かったと心の底から感謝した
楓は思う、十造様は楓に対して、何も構えては居ないのだ
多分、抱きつかれても、殺されても、そんなに気にしては居ないのだ
でも、所詮は酔っ払い
酒臭く、直ぐに弱みを見せるだらしない人
そんな人に「静」様はよく惚れてくれたものです
感心致します
十造の、髪も髭も終った楓は、十造の背中を流し忘れたのを気が付き、物凄く不機嫌な顔で十造の背中を流してやる
それが終ると、家の中へと入っていった
帰り仕度を済ませた楓に、十造は、宿題を課した
小さな石弓(ボウガン)を与えた
これを、次に会うまでに、お前の針の技程に上達せよ、飛び道具も、覚えておいて損はないと伝えた
全てが終り草鞋を履こうとしていた楓の手を遮り、十造が履かせてやる
楓は、十造が酔っ払っていたなら抱きつけたのに、と、残念がった
十造は、楓が帰った後、貯まっていた、薬の調合やら、仕込みの仕事に没頭していた
数日が過ぎ、いつもの生活に戻った頃合いで、三郎がやって来た
「暫くでした、元気そうで何よりですな」
「おう、楓は石弓の稽古をしておろうの」
「はあ、人並み外れた、集中力で毎日欠かさず
贔屓の目無しに、上達しております
最早、止まっている、的を外す事はありますまい、、、」
「矢張のう、しかし、お主の今の物言いは、なにか淀みがあるようだが」
「一文銭位の丸い輪を書きまして、その中に十造と、、、これが又、百発百中でして」
「うおお、近頃寒気がするのは、もしかして、それかの
まあ、上達するなら、的でも何でも良いわ
其よりも、仕事の話か」
「はい、甲斐の武田信玄が西へ向かって動いています、その数約二万、途中で、もっと増えて行くのではないかと思われます、今頃は駿河の何処かと思われます
間も無く三河にも、、
この武田を止めるには、信玄に居なくなって貰うほかなく、それも、敵討ち等の名目も立たぬ様に、病死で静かに殺して欲しいのです」
「簡単に言うてくれるの、時がかなり、かかると思うがの
さて、それまで織田や徳川がもつかのう」
「織田は、畿内の各所で大わらわ、おそらく徳川に、当てられる人数も、多くは割けないでしょうな
やっかいなのは、戦わないと、益々寝返りが多くなります
ですから、ここは、なにが何でも、信玄に出来るだけ穏便に、亡くなって欲しいのです」
「話はわかった、今度は三郎の助力はないかの、準備までが大変ぞ、楓は明日、早くから寄越してくれ、暫くここで作業して貰う」
「はい、私は何をすればよろしいか」
「うむ、此度は三郎が一番大変ぞ、今何かに書きうつすわい、む、時が惜しいの、先に楓を寄越しに行ってくれぬか、日暮れまでには、間に合うはずよ、其までに頼み事を書いておくわ」
「はい、承知しました」
「楓には、少しここで一人暮らしになると伝えてくれぬか、さすれば、いつもとは、荷物も違うてくるはずよ」
その日の夕方、三郎と楓がやって来た
十造は、先ず三郎に細かな、手配、準備の品等を書いた紙を手渡した
「三郎、明日早くでも、今からでも良い、浜松に発つのだ
儂との待ち会わせ場所を何処か決めてくれぬか
儂は明日早くに三河方面に出て、武田の軍を、見てこようと思うておる」
「それでは、一郎兄のところへ、私は、今から出立致します
父も既に向こうへ出ていました」
「おう、そうか、何処ぞで会うかも知れんな
では、頼んだぞ」
三郎は、出て行った、十造は、楓を呼び寄せ、これから、楓がしなければならない、仕事の段取りを説明し出す
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