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あの夜……確かに幸成の身体から白姫の匂いが届き、いつもと様子も違った。
今思えば、離れるつもりだったのだと解る。
だから「心だけは……」そう言ったのだ。
「さすがに堪えたんじゃない?……自分の耳元で甘く囁く男の口が、以前自分の子供を喰──」
「──白姫ッ!……それ以上言ってみろ…………二度と余計な事言えねぇ様に身体ごと切り刻んでやるからな」
白姫の言葉を打ち消すように、紫黒の声が響いた。
先程までの感情剥き出しの声とは違う。
腹の奥底からの怒りが体を這う様に伝わり、白姫の身体がビクリと震えた。
子供達にさえそれが伝わったのか、三人共が琥珀の身体にしがみついた。
その肌から、紫黒の声にも、この場の雰囲気にも、そして何より幸成が突然消えたことへの不安が伝わってくる。
琥珀はずっと庭に向けていた視線を三人に向けると、一人づつ、安心させるように頭を撫で立ち上がった。
「───どこ行くの!?」
翡翠の手が琥珀の着物を強く握る。
「幸成を連れ戻してくる。───心配するな……。必ずオレが連れて帰ってくるから」
不安に揺れる翡翠の瞳を見つめると、そう言って再び三人の頭を撫で、もう一度翡翠を見つめた。
「お前は一番の兄ちゃんなんだから、大丈夫だな?」
今にも泣きそうな顔が唇を噛み締め、大きく頷くと、涙を堪え握りしめていた手を離した。
「───連れ戻すって……お前が嫌で逃げ出したんだったらどうするの?……薬まで使ってさ。お前の顔なんか二度と見たくないって思ってるかもね」
その様子を見ていた白姫が意地悪く笑った。
「……それどころか………お前に惚れたと思わせて……やっぱり目的はひとつだったのかもね……。彼が“何の為”にお前の元に来たか……知らない訳じゃ無いだろ……?」
嘲る様に笑った顔に、本人にすら気付かない程度の影が射した。
思ったよりずっと上手く事が運んでいる。
それを夢にまで見ていた筈だ。
愛しい者を奪われた苦しみを、もう一度琥珀に味合わせたい。
その苦しみの為に自分がした事を思い知らせたい────。
しかし何故か、白姫の胸は晴れなかった。
あの苛つく程素直な人間のせいで、胸の中に重い霧が掛かっている様に晴れないのだ。
「…………それならそれで幸成の口から聞くまでだ。それにあいつは───平気で嘘を吐くような、そんな卑怯者じゃねぇ」
振り返る事無く言った背中が狼の姿に変わると、瞬きする間も無く姿を消した。
既にいなくなった背中から目を逸らせずに、白姫は自分の着物の袖を無意識に握っていた。
「…………今更……もう遅いんだよ…………」
吐息のように吐いた、呟くよりもまだ小さな声に、誰一人として気付く者はいなかった。
足の下のぬかるんだ土が“ズルッ”という音と共に崩れ、黒川は一昨々日の雨で湿っている草の上に転ぶ様に膝を着いた。
歩き慣れない獣道に思わず溜息が漏れる。
一昨日から幸成が言っていた『琥珀』を探し、祭りの夜、籠を置いていく場所からかなり山奥にまで足を踏み入れていた。
しかし本当にこちらの方角で合っているのかも分からない。
ただ当ても無く探すしかないのにも関わらず、屋敷を留守に出来る時間も限られている。
正成や、まして誠一郎に気付かれる事になれば、幸成を救う手立てが無くなるだけに気ばかりが焦った。
一昨々日幸成が戻った夜に顔を見てから、誠一郎の部屋に入ることも儘ならず、幸成が無事なのかどうなのかすら分からないのだ。
正成の許しを得ているのを良い事に、誠一郎すら部屋から殆ど出てこないばかりか、怪しげな使いの者が誠一郎を訪ねてきていることさえあった。
「───琥珀殿ーッ!!」
本当にいるのかも分からない名前を、黒川は息の続く限り叫んだ。
この三日この名を何度叫んだか分からない。
───やはり届かないのか…………
しかし諦めかけたその時、突然目の前に“狼”と見える獣が姿を現せた。
過去見たことのある“狼”より一回り以上大きいと思われる獣が、僅かに牙を見せながら、のそりのそりと近付いて来る。
そしてゴクリと唾を飲み込んだ黒川のすぐ目の前まで近付くと
『……何故その名を知ってる……』
紅い口が開き、人の言葉を吐いた。
今思えば、離れるつもりだったのだと解る。
だから「心だけは……」そう言ったのだ。
「さすがに堪えたんじゃない?……自分の耳元で甘く囁く男の口が、以前自分の子供を喰──」
「──白姫ッ!……それ以上言ってみろ…………二度と余計な事言えねぇ様に身体ごと切り刻んでやるからな」
白姫の言葉を打ち消すように、紫黒の声が響いた。
先程までの感情剥き出しの声とは違う。
腹の奥底からの怒りが体を這う様に伝わり、白姫の身体がビクリと震えた。
子供達にさえそれが伝わったのか、三人共が琥珀の身体にしがみついた。
その肌から、紫黒の声にも、この場の雰囲気にも、そして何より幸成が突然消えたことへの不安が伝わってくる。
琥珀はずっと庭に向けていた視線を三人に向けると、一人づつ、安心させるように頭を撫で立ち上がった。
「───どこ行くの!?」
翡翠の手が琥珀の着物を強く握る。
「幸成を連れ戻してくる。───心配するな……。必ずオレが連れて帰ってくるから」
不安に揺れる翡翠の瞳を見つめると、そう言って再び三人の頭を撫で、もう一度翡翠を見つめた。
「お前は一番の兄ちゃんなんだから、大丈夫だな?」
今にも泣きそうな顔が唇を噛み締め、大きく頷くと、涙を堪え握りしめていた手を離した。
「───連れ戻すって……お前が嫌で逃げ出したんだったらどうするの?……薬まで使ってさ。お前の顔なんか二度と見たくないって思ってるかもね」
その様子を見ていた白姫が意地悪く笑った。
「……それどころか………お前に惚れたと思わせて……やっぱり目的はひとつだったのかもね……。彼が“何の為”にお前の元に来たか……知らない訳じゃ無いだろ……?」
嘲る様に笑った顔に、本人にすら気付かない程度の影が射した。
思ったよりずっと上手く事が運んでいる。
それを夢にまで見ていた筈だ。
愛しい者を奪われた苦しみを、もう一度琥珀に味合わせたい。
その苦しみの為に自分がした事を思い知らせたい────。
しかし何故か、白姫の胸は晴れなかった。
あの苛つく程素直な人間のせいで、胸の中に重い霧が掛かっている様に晴れないのだ。
「…………それならそれで幸成の口から聞くまでだ。それにあいつは───平気で嘘を吐くような、そんな卑怯者じゃねぇ」
振り返る事無く言った背中が狼の姿に変わると、瞬きする間も無く姿を消した。
既にいなくなった背中から目を逸らせずに、白姫は自分の着物の袖を無意識に握っていた。
「…………今更……もう遅いんだよ…………」
吐息のように吐いた、呟くよりもまだ小さな声に、誰一人として気付く者はいなかった。
足の下のぬかるんだ土が“ズルッ”という音と共に崩れ、黒川は一昨々日の雨で湿っている草の上に転ぶ様に膝を着いた。
歩き慣れない獣道に思わず溜息が漏れる。
一昨日から幸成が言っていた『琥珀』を探し、祭りの夜、籠を置いていく場所からかなり山奥にまで足を踏み入れていた。
しかし本当にこちらの方角で合っているのかも分からない。
ただ当ても無く探すしかないのにも関わらず、屋敷を留守に出来る時間も限られている。
正成や、まして誠一郎に気付かれる事になれば、幸成を救う手立てが無くなるだけに気ばかりが焦った。
一昨々日幸成が戻った夜に顔を見てから、誠一郎の部屋に入ることも儘ならず、幸成が無事なのかどうなのかすら分からないのだ。
正成の許しを得ているのを良い事に、誠一郎すら部屋から殆ど出てこないばかりか、怪しげな使いの者が誠一郎を訪ねてきていることさえあった。
「───琥珀殿ーッ!!」
本当にいるのかも分からない名前を、黒川は息の続く限り叫んだ。
この三日この名を何度叫んだか分からない。
───やはり届かないのか…………
しかし諦めかけたその時、突然目の前に“狼”と見える獣が姿を現せた。
過去見たことのある“狼”より一回り以上大きいと思われる獣が、僅かに牙を見せながら、のそりのそりと近付いて来る。
そしてゴクリと唾を飲み込んだ黒川のすぐ目の前まで近付くと
『……何故その名を知ってる……』
紅い口が開き、人の言葉を吐いた。
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