記憶の海

海花

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渡辺から貰った本を大事そうに胸に抱えながら次の講義へと向かっている。
冬音夜は、あの人の良さそうな中年と言ってもいい年齢に差し掛かった准教授が好きだった。
好きと言っても恋愛的なそれでは無く、慕っている…と言った方が近いかもしれない。
どこか……父を思い出させる。
いつも穏やかで、冗談も通じる。しかし自分の考えをしっかり持っていて、間違ったことをすれば注意もする。
数少ない“尊敬出来る大人”の一人だった。

───帰ったら早速何か作ってみようかな…。

上手く出来たら渡辺先生に味見をしてもらうのもいいな……そんなことを考えていると、スマホの着信音が鳴り出した。
上着のポケットから取り出すと、画面に『涼太』と表示されていて…鼓動が微かに早くなった。
あの日、あの金を受け取った日に「何時でも連絡が取れるように」と登録させられた。
こんなことにすら自分が売ったのは『身体』でも『プライド』でも無く、『自分自身』なのだ…と知らしめる様で胸がギュッと痛くなった気がした。

「───はい…」

何度目かのコールの後、冬音夜は諦めた様に通話ボタンを押した。

『冬音夜か……?』

電話の向こうから聞こえる、紛れもない“あの人”の声に自分でも気付かないうちに顔が歪む。

「……はい…」

ふと隣を通り過ぎる数人の学生に視線を奪われる。
楽しそうに笑いながら歩いている。

『……そう、あからさまに嫌そうな声出すなよ』

電話の向こうで笑う声が鼻につく。
ただ『自分を買った』男に対する劣等感からかもしれないが、小馬鹿にされているように思えてならない。

「別に…そんな風に思っていません」

僅かに残っているプライドで『無関心』を伝えようとする自分が、冬音夜自身も滑稽に思えて目を伏せた。

『…………──今夜8時にいつものホテルで待ってろ』

当然その電話だと解っていたのに、男の言葉に唇を噛んだ。

『“小林”の名前で部屋は取ってある。先に入っていていい』

「……分かりました」

短い会話を交わし電話を切った。
あの居心地の悪いロビーで待たなくて済んだだけ冬音夜は少しホッとしてた。
しかし──何故今回はロビーではなく部屋で待ってる様に言ったのか……歩きながら頭の隅でボンヤリと考えた。
前回、嘘でも“楽しんでいるフリ”が出来なかった自分をあの男は見抜いた。
もしかしたら……ロビーで居た堪れない思いをしているのに気付いて……。

───まさか……そんな訳ないか……。

そんな気遣いをする様なら、人との電話の最中に犯すようなことしない……。
自分の馬鹿げた考えに冬音夜は自嘲気味に笑った。



「坂崎先生」

電話を切ると、待ってましたと言わんばかりに後ろから声を掛けられ一瞬イラつく。

「どうしたの?」

しかし、病院の隣にある自動販売機の横でタバコを手に振り向いた涼太の顔は既にいつもの笑顔に戻っていた。

「先生…どこ行っちゃったかと思いましたよ。院長先生がお呼びですよ」

医局の事務の若い女がにこやかに白衣の上から涼太の腕に触れる。
少し前に入職した20代中半と思われる、その女の媚びたような笑い方と白衣を通して伝わる体温に微かにイラつく。

「それはすまなかったね。医局にいると時々息が詰まるから、こうして息抜きにね……」

笑顔を向ける涼太の腕から一向に手を離す気配が見られず、自動販売機でコーヒーを買うと、わざわざ自分の腕に触れている手に差し出した。

「はい、手間を掛けさせたお詫び」

「いいんですか?ありがとうございます!」

その言葉ににっこり微笑むと、コーヒーを当たり前の様に受けとった女を置いて、涼太はさっさと歩き出した。
女から伝わる体温が、微かに鼻腔をついた香水の匂いが、不快で堪らなく感じていた。
しかしそれが、院長に呼ばれたことからくるイラつきの付属でしかない事を涼太は理解していた。

───どうせまた……いらない世話をやくに決まってる……。

涼太はこれから院長とするであろう話を考え、うんざりしながら院長室へ向かった。










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