海色と灼熱

SHIROKO

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灼熱の過去に触れる海色

人はそれを恋愛と呼ぶ

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 ナルタが風呂を済ませたあと、光冬に声をかけられた海音が風呂に入るために着替えを準備をして、足早に部屋から出て行った。

 ナルタは特にやることもなく手持ち無沙汰になってしまったのでどうするかなぁと部屋の証明をぼんやり眺めていた。
 そしてすっくと立ち上がり、押し入れの前に折りたたみ式の小さな足場を置いて、海音の布団を取り出し、昨日自分が使った布団を押し入れの中に敷いた。
 『よし、ついでに海音の布団も敷いておくか』
 布団の敷き方をしっかり覚えたナルタは、小さな身体をぴょこぴょこと動かしながらせっせと海音の布団を敷いた。
 敷き終わっても海音が風呂から戻る気配はなく、再び手持ち無沙汰になったナルタはリビングに顔を出した。
 リビングには、風呂上がりにもう一杯麦酒を呑む慎二と、慎二と一緒にテレビを見て笑っている光冬がいた。

 「あ、ナルタくん。どうかしら?家には慣れた?」
 ナルタに気付いた光冬は手をこまねいた。
 「えっと……多分、慣れたと思う」
 それは良かったと笑う光冬の顔は、海音の笑顔と面影が似ていた。
 「その……なんというか、ありがとな……俺に色々教えてくれて」
 「いいのよ、このくらいなんてことないんだから。むしろ豊君より物分りが良くて助かってるわ」
 「……その親戚の豊って奴、どんな子供なんだ?」
 度々話題に出る、"豊"という子供の事が少し気になった。
 ナルタの問いに答えたのは慎二の方だった。
 「俺の一番上の姉の子供だ。俺の一番上の姉は職業柄、地方遠征が多くてな。姉の旦那も海外出張が多い関係で一年に何度かこの家に預けられるんだよ。」
 「ん……?」
 「簡単に言うと、豊君の両親の都合で、何度かこの家に泊まりに来るの。」
 「何でだ?」
「複雑な事情があってな。今は姉の遠征も落ち着いてて、暫くは面倒を見れるから大丈夫らしいんだが、季節が変わったらまた状況は変わってくるだろうな」
 「そうか……」
 何かとその豊君とやらと比較される事に少し不快感を抱いていたが、暫くはその本人と対峙する事は無い事に少し安心したような気持ちになった。
 「もし豊君がまた泊まりに来たら少し大変ね。豊君、海音の事大好きだから……」
 「なっ、何だって!?」
 しっぽまでいきり立った。
 「豊君、ナルタくんと同じくらいの歳なんだけど……」
 「だから俺は子供じゃないって」
 すかさずナルタはつっこんだ。
 「あら、ふふふ、分かってるわよ。見た目の話では、の話ね。赤ちゃんの頃からよく家に泊まりに来てたからか、海音がよく面倒を見ていたからか、最近は特に海音にべったりで……。この前泊まりに来た時は帰りたくない!!なんて騒ぎながら海音にしがみついて離れなかったわね」
 「なっ、なっ、何だってっ」
 海音にしがみつくなんて許せないが!?
 『ま、まあ、海音がよく俺に対して優しかったり教える時の言い方がなんか奏子やアランとは違うと思っ』
 そこでナルタははたとした。
 『ま……まさか……海音は俺の事を……その豊とかいうマセガキと同じような感覚で接してたりするってことか!?』
 ナルタは雷に撃たれたような衝撃に、思わずリビングの床にへたりこんだ。
 「あら、ナルタくん大丈夫??」
 「い、いやなんでもない、ちょっと腰抜かしただけ」
 頭がぐわんぐわんする。

 『つ……つまり……もしかしたら、海音はそのマセガキと同じようなガキ(俺はガキじゃないのに)に惚れたとか言われたとか思ってるかもしれないって事か……??そ、そんなの……そんなの、なんか全然違くないか!?気持ち的に!!』

 今更になってかつて人間共の告白を足蹴にして片っ端から振ってきた自分の容赦なさが襲いかかってくる。
 『海音に、マセガキから告白されたー、私はなんとも思ってないのに困るなーとか思われてたら、俺っ……俺っ……』

 死にたい!!!!

 しっぽが虚しくリビングの床に垂れた。




 『今日も色んな事があったな……』

 湯船に浸かりながら、海音は今日あったことを朝から順番に思い出していた。
 やはり、一番頭の中を埋めていたのはナルタのことだった。
 朝にキスをして、昼に両親に迎えられ、昼過ぎに友人と色んな話をして。
 色んな……。

 『今はお前の事が物珍しくてその期を伺ってるだけかもしれない!!!!けどこれだけはハッキリしてるんだ!!!!この龍がその気になれば一瞬でお前の事を殺せる!!!!お前の事を面白がって遊んでるだけで、飽きたらポイするような相手なんだぞ!?』

 アランの言葉が蘇ってくる。
 本当にナルタは海音に飽きたら、命を奪って元の世界に戻ってしまうのだろうか。
 昼間に胸をしつこく揉んでいたのも、女の体だから遊ばれていただけなのかもしれない。
 キスも……反応を楽しんでいるだけに過ぎないのかもしれない。
 そう思うと胸が酷く傷んだ。

 正直、押し入れに引きこもったナルタと面と向かって話す勇気が無かった。
 しかし、晩御飯の時間になって光冬に「海音がナルタくんの面倒を見るんでしょう?」と言われてしまい、気持ちの整理がつかないまま押し入れに話しかける事となってしまった。
 ナルタと食べたご飯も、味噌汁も、肉じゃがも、全部いつもより美味しく感じた。
 ナルタと話してて胸にふんわりと温かい気持ちが広がっていったのも。
 それは確かなのに……。
 顔の下半分まで湯船に沈めてぶくぶくと息を吐き出した。
 そして、再びナルタとのキスを思い出す。
 無意識のうちに、唇に触れてあの時の感触を思い出す。
 すると、すぐにまた胸がキュンとして、甘く痺れる。
 なんだろう、これがキスをするっていうこと?
 今日、三回もしてしまった。
 初めてのキスだったのに、もう、三回も……。
 心臓の鼓動がとくとくと少し速くなる。
 何でだろう、キスを知ってしまったから?
 それとも身体が魔力を欲しがっているから?
 分からない、でも……

 『もっと……ナルタくんにキスしてほしい……』

 なんだか顔が熱い。
 湯船に浸かりすぎたのだろうか。
 もう一度、ナルタの唇の感触を思い出そうとしてーーー。

 下腹部がキュンとした。

 『ん……あれ……?』
 胸のキュンとは別物だ。
 そして連鎖するように、寝てる間に胸を揉まれた事を思い出す。
 『ナルタくん……どうして私の胸なんか揉んでたんだろ……やっぱり男の子だからこういうことに興味があるのかな……』
 湯船から顔を上げて、自分の胸を眺める。
 別になんてことの無い、自分の胸だ。
 サイズはD。少しおっきいとは言われるけど目立つほどでもない。筈だが?
 揉みしだかれた左胸に触れてみる。
 やはり、別に変な感じはしない。
 『……………………えっと、ナルタくんは確か、こんな風に……』
 瞳を閉じて、ナルタがしていたように、下から持ち上げるように左胸をゆっくりと揉んでみた。
 ナルタの手の温かさを思い出しながら。ナルタに揉まれる想像をしながら。
 すると。
 『!!!!』
 再び、下腹部……もっと奥の方がキュンッとした。
 『んっ……!!あ、な、何でだろ、凄く、なんだか、えっちな気持ちになって……!!』
 ざぱっと湯船から立ち上がり、痺れるようにキュンキュンと波打つそこにそっと触れてみる。

 『あっ……や、やだ……私……』

 とろ、とそこから透明な蜜が指に絡みついた。

 『ナルタくんに……えっちなことされると、えっちな気持ちになっちゃう……!!』

 気付いてしまったからにはもう遅い。
 明らかに切なさを感じているそこが、何かを求めるように痺れて、蜜が溢れてくる。
 『どうしよう、どうしよう!!こ、こんなのきっとダメ……!!』

 『だって、ナルタくんはまだ子供なんだから……!!』


 ……違うのだが。




 いつもより少し長風呂になってしまった海音は、火照った身体を冷ますためにベランダに出て少しぬるい夜風に当たっていた。
 ナルタはどうやら父からテレビゲームを教わっているらしく、父と楽しそうにRPG風のレースゲームを遊んでいた。
 「海音、なんだかいつもより可愛い顔になってるわね」
 「えっ!!」
 びくっとして隣に顔を向けると、光冬が少し悪戯っぽく笑っていた。
 「海音は彼のこと、どう思ってるの?」
 「ど、どうって……」
 奏子程の反応は見せないものの、母は海音を見て何かを察していたようだ。
 「ナルタくんね、豊君は海音にべったりなのよって言ったら物凄く動揺してたの。なんでかしらねぇ」
 ベランダから見えるリビングの一角、慎二と並んでコントローラをガシャガシャ鳴らしてるナルタを見て光冬は微笑んだ。
 「海音は、もう少し大人にならなきゃね」
 「それって、どういう意味……」
 「それを知るのも、大人になるって事なのよ。ふふっ」
 そう言い残して、光冬はリビングに戻り慎二の傍に立って慎二を応援し始めた。

 『大人になる……』

 母のアドバイスは、よく分からなかった。
 リビングから「なんで慎二ばっかで俺のことは応援してくれないんだよ!!」と喚いているナルタの姿が見える。
 その顔が、なんだかちょっと微笑ましくて。
 海音はベランダから室内に戻り、テレビゲームをする二人のレースゲームの様子を見守った。
 父は初心者であるナルタにも容赦なく、あんなトラップやこんなトラップを仕掛け続ける。
 その度にぐぬぬと顔を顰めるナルタは、やはり少し可哀想で。

 「大丈夫、ナルタくんならお父さんなんてすぐに追い越しちゃうんだから」

 と、後ろから声を掛けると。

 「うっ……そ、そうだ!!俺だっていつまでも負けっぱなしじゃないんだからな!!」
 途端にナルタは顔つきがキリッと変わり、少しずつコツを掴んでいった。

 そうして一日が終わる頃まで、夢中になってレースゲームをする男二人と、同じく夢中になって応援する女二人がそこにはいた。




 「最後の最後にギリギリ慎二に勝ってやった!!ざまみろ!!」 
 フン!!と鼻を鳴らすナルタを見て「凄かったね」と海音は思わずナルタの頭を優しく撫でた。

 「うっ……やっぱりお前、俺の事子供扱いしてるだろ……」

 アランに向けていたあの威圧感のある表情ではなく、見た目通りに子供のようなあどけなさのある不満げな表情を向けるナルタに、海音は思わず笑顔を向けた。
 「ナルタくんが可愛いからだよ」
 「あーっ!?かっ、可愛いだと!?俺は男なんだぞ!?」
 更にいきり立つナルタを見て、海音はくすくすと笑った。

 日付が明日に代わり、海音は両親にお休みを残してナルタと共に部屋に戻っていた。
 照明をつけようとしたが、部屋に差し込む月光が綺麗で、敢えて部屋の照明は付けずに海音は窓辺に立った。

 「あ……今日は月が良く見えるね。今夜は雨戸は閉めないでおこうかな」
 「本当だ。……月は千年前とあまり変わってないんだな……」
 少し遠くに思いを馳せているような、月光に照らされたナルタの紅い瞳を見て、海音はそっと聞いた。
 「ねえ、ナルタくん。私の家はもう慣れた?」
 「ん?ん。」
 光冬と同じような質問をされて、ナルタは素直に頷いた。
 「でも、慣れた、というか……。ちょっと、初めての事ばかりで戸惑ったりもした。なんか、胸がこそばゆい」
 「そっか……」
 「あ、嫌とかじゃないからな!!そうじゃなくて……。なんか、初めてなんだよ……何かを求める為の、上辺だけの優しさじゃなくて……。一緒に居てもいいんだっていう、そんな安心感みたいなものがさ」
 海音はナルタのその言葉に、少し悲しさが滲んでいるような気がした。
 「だから、なんというか……」

 途端に、何故かナルタが遠くにいるような気がした。
 待って、置いていかないで……。

 無意識に、海音はナルタの小さな身体を優しく抱きしめていた。

 「……海音?」
 「……ナルタくん、早く、この家に慣れてね」

 込み上げてきたこの想いは何なのだろう。
 まだ、よく分からない感情が海音の身体を動かす。

 同じシャンプーの香りがする、ダークブラウンの髪に混じって太陽に似た香りがほんのりと漂ってくる。
 この香りが、なんだかとても好きで。
 こうすると、なんだかとても安心する。
 なんだか、胸がすごく、キュンキュンと強く痺れる。


 「……海音」
 そっと、ナルタは海音の肩を掴んで引き剥がす。
 「ナルタくん」
 「……海音、ごめん」
 ぽつりと、ナルタは呟く。
 「ナルタくん、どうしたの?」
 「海音……俺は……」
 視線を床に落とすナルタの紅い瞳が揺れている。


 「やっぱり、酷い龍だったんだ」


 このままじゃ、きっとダメだ。
 海音に抱きしめられて、ナルタは思った。
 同じシャンプーの香りがする水色の髪から、優しくて甘い香りが漂ってくる。
 この香りがすごく、好きだ。
 ずっと嗅いでいたいと思う。
 でも、だからこそ、ちゃんと伝えるべきだと思った。
 自分の言葉で。


 俺は、もうどのくらい生きてきたかなんて覚えていない。
 気付いたら炎龍として元の世界で生きていて、気が遠くなる程昔から、色んな世界に召喚されては人間の言いなりになったり、人間に騙されたり、人間に信仰されたり、人間同士の戦争の原因にされたり、いつだってまともな結末には至らず、ナルタを召喚した召喚士は呆気なく死んでいった。
 召喚士が死ぬ度に、今回の地獄も生き抜いたと安堵し、召喚される度にすり減っていくココロという、形のないモノ。
 炎龍は、どの世界に於いても重要視された。
 ある者は炎龍に加護を。
 ある者は炎龍に絶対的な力を。
 ある者は炎龍に子孫繁栄を。
 色んな人間が、ナルヴォリエタルマスという名の炎龍に願いを背負わせた。
 すり減ったココロを癒してくれるものなど無く、生まれた世界に戻っても、その世界で再び炎龍として世界を破滅へと導く天災として役目を果たさなくてはならない。
 生まれた理由など、今でもよく分からない。
 異世界からの召喚に応じる運命さだめの下に生を受けて、役目を終えたら元の世界で天災としての役割を全うする。
 それが、炎龍ナルヴォリエタルマスという龍の龍生だった。

 人間のちっぽけで自己中心的な愛など、ナルタのすり減ったココロを満たすことなどなく。
 多くの召喚士達の想いを踏みにじり、頃合を見つけたらその度に召喚士を殺してきた。
 もう、縛られたくなかった。
 人間に。願いに。運命に。

 ………………。

 千年くらい前に、この世界に召喚された後。
 ナルタはいつものように召喚士を殺して元の世界に戻った。
 いつも孤独で、何も信じられなくなったココロは何も求めなくなった。
 唯一、眠ることだけが安心出来る事だった。
 眠っている間は、誰からも邪魔されない。
 無駄な事を考えなくていい。
 擬似的に死んでいるようなものだから。
 だから、千年前。
 ナルタは自らに悠久の眠りの術を掛けて眠った。
 千年も寝続けたのは初めてだった。
 もしかしたら、寝ている間にもどこかの世界の召喚士が召喚しようとしたのかもしれないが、ナルタが目覚めることは無かった。

 なのに。
 千年の時を経て、目を覚ました。
 目を覚ました途端に召喚されるなど、まるで運命はナルタの求める安息すらも奪っていくよう。
 初めは術が切れたのかと思った。
 早く召喚士を殺して、また眠りたいと思った。
 でも。

 ………………。

 生きてきた永い年月の中で、一つだけ綺麗だと思った景色があった。
 それは、この世界にあるあの青くて広い海だ。
 人間に興味は無いが、この世界の海はいつ見てもナルタのすり減ったココロを僅かに癒してくれた。
 戦わなくてもいい日は、いつも拠点の近くにある海を見に行った。
 よく晴れた日の海が好きだった。
 波の音、渡り鳥の鳴き声、押しては引いていく、形を持たない、形。

 それを、初めて人の魂の中に見た。
 何度も召喚されてきたナルタだから分かる。
 この人間のココロも、海のように広くて、澄んでいて、深いのだと。


 もう、永い眠りは居らない。
 ……眠りからナルタを目覚めさせたのは、魂に優しく落とされたあの口付けだったのもしれない。




 「海音……俺は何度も人間の心を見限って殺してきた。それは過去の話だとしても、きっと許される事じゃない。でも、これは気が遠くなるほど生きてきて、初めての想いなんだ」

 「海音、きっと俺は、今、最初で最後の恋をしてる。」
 「それは……お前なんだ。海音」

 少年の姿をした悠久の時を生きる炎龍。
 想いを真っ直ぐに伝えるその声と表情は、とても大人びていた。


 小さい身体に、身体の大きさ以上の過去を負っている。
それは、人間一人が抱えるような大きさではない。

 昔、考えたことがある。
 悪者が退治されたあと、その悪者の死を嘆く人は居るのだろうか。
 目の前で自分の目を見つめる紅い瞳は、何度も人間に絶望して、最後は殺していたのだろう。
 人間は欲深くて、力に溺れてしまうから。


 「ナルタくん」
 海音はナルタの長い独白を聞いた後、静かに口を開いた。
 「ん……」

 「もう一度、キスしてくれる?」
 「はっ!?」
 ナルタは途端に顔を真っ赤にして目を丸くした。
 「お願い、ナルタくん。もう一度、キスして」
 「え、な、何だよ」
 「いつでもキスしてくれるって言ってたよね?」
 「えっ!?いやそりゃ言ったけど」
 「嘘つき?」
 「んなっ!?っ、こ、こんなこと言った後ですることかよっ」
 とか何とかブツブツ言いながら、ナルタは目の前で正座する海音に一歩近付いた。
 海音の表情は珍しく凛とした表情で、とても大人びて見えた。

 「じゃ、じゃあ、するからな……」
 朝のように、ナルタは優しく海音の頬を撫でる。
 それを合図に、海音はそっと瞼を閉じる。

 そして、程なくして二人の唇が優しく重なる。

 何度しても、結果は変わらない。
 触れる唇は優しくて、温かくて、胸の奥が甘く、強く痺れる。
 だから。

 「んっ!?」

 海音はナルタをそのまま抱きしめた。
 今度こそは引き剥がされないように、しっかりとかその小さな身体を抱え込むように。

 「んっ、ん、んんっ!?」

 驚いたナルタが両手をバタバタと動かす。
 しかししっかりと抱え込まれているせいで全く歯が立たない。

 「んっ……ぷは!?ちょ、お前いきなり何っ……」

 ぽつり。
 ふと、ナルタの右頬に何かが落ちてきた。

 『え……』

 静かに部屋に差し込む月明かり。

 「ねぇ、ナルタくん」

 月明かりに照らされたその顔は。

 「ナルタくん、今までずっと、辛かったよね」

 ナルタは息を呑んだ。

 「ねぇ、ナルタくん」

 ぽつり。
 今度は左頬に何かが落ちる。

 「君が……。ううん、あなたが……」

 まるで心臓が止まってしまうくらいに。
 まるで時が止まってしまうように。

 「私に恋をしたというのなら、私に恋を教えて」

 落ちてくるのは、まるで真珠のように綺麗な、大粒の涙だった。

 「その代わりに」

 月明かりに照らされたその顔は。

 「私があなたに愛を教えてあげるから」


 今まで見てきた、どの海音の表情より、





 ただ、ただ、美しかった。
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