不可侵領域

千木

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「ふーん。聞けば聞くほど、神職者ってのは面倒っすねぇ」

 ノノは出窓に座り、足をぷらぷらさせながらそう言った。今日は手術前の精密な検査をするからと事前に伝えられていて、セイが来た時には既にレンの姿は無かった。代わりにベッドシーツを取り替え終えたノノとこうして駄弁っている。サボっているのではないかと内心思いつつ、彼女のシフトなど知る由もないので、余計なことは言わないでおいた。

「これから大変だろうけど、面倒くさいしがらみから出られて良かったんじゃないっすか?」
「そうですね。まだ完全にしがらみから解放されたわけではありませんし、今後の不安はありますが、出て良かったは間違いありません。いずれは一人で出て行く予定が、たまたま早まったに過ぎませんし」
「一人で出て行く予定が、愛しの旦那さんと一緒の逃避行になるなんて、ロマンチックっすねぇ」
「……まぁ、そうですけど。揶揄ってるでしょう」
「そんなそんな、滅相もない。ラブラブで良いな~って話っすよ」

 セイは少しだけノノを睨んでから、作業に戻る。読み聞かせのバイトをし始めても、内職をやめることはなかった。家でも出来るし、何より金はあればあるだけ良いのだから。セイの様子など意に介さずに、ノノは話を続ける。

「旦那さんの何処が好きなんすか?」
「……、笑いません?」
「笑わないっす」
「匂いです」
「……」
「だ、黙らないでくださいよ」
「あー、すんません。あんだけ顔良しスタイル良し性格良しなのに、一番は匂いなんすねぇ」

 笑うどころか、きょとんとして首を傾げるノノから、バツが悪そうに目を背ける。自分だって多少なりともおかしいとは思ってはいるのだ。けれど事実なので、なんとも言えない。

「仕方ないじゃないですか。そもそも気になったきっかけが匂いだったんですから」
「前にそんなこと言ってましたね。まぁ好きな人の体臭って惹かれるって言いますし。番の典型的な特徴でもありますから」
「そうなのですか?」
「あれ?知らないんすか?」

 聞き返されて口を噤む。言うほど番について詳しくは知らないのだ。セイの知ることといえば、『一部の職業の出世に有利になること』『とても珍しく、その縁は大切にされること』『番同士は惹き合うこと』『番の印は性行為をした際に女性の下腹部に現れること』くらいだった。というか、その程度しか教えてもらっていない。それを聞くと、ノノはあからさまに引いた。

「なんつーか、最低限っつーか……。まぁわたしも専門ではないんで、事細かに知ってるわけじゃないんすけど」

 そう前置きをして、彼女は端的に話し出す。
 番同士は、互いの体臭を好む。リラクゼーション効果がある反面、欲情を増進させることもある。それもあってか、身体の相性はかなり良い。
 心から惹かれるようになり、他に靡くことが無くなる。まさに神からの導きのように添い遂げる。番になって別れたカップル、或いは夫婦は現段階存在しない。

「まぁつまり、心身共に満ち足りる相手ってわけっすね。移ろいやすい人間の感情なんかも超越した、まさに《運命》ってヤツ。番だから惹かれるってよりは、本当に結ばれるべき相手と出会えたから番になるって感じかなぁ。ちょっとファンタジーっすよね」
「……」
「話聞いてると、二人が番じゃないってにわかに信じられないっすよ。特徴まんまなのに」
「そうですね。……でも、番でないことは確かです。印が無いので」

 セイは服越しに腹を撫でる。いくら経ったところで、その白い肌に印が浮かび上がることはなかった。印がどんなものか見たことはなかったが、何も無いのだから番ではないのだろう。
 話が切れたタイミングで、二つの聞き慣れた足音が聞こえた。此方に向かっていることを確認すれば、セイは静かに内職のセットを鞄にしまう。チャックを閉め切ったのと扉が開いたのはほぼ同時。そもそもレンには見えないのだが、彼は察しが良いので念のためだ。

「あっ、ノノちゃん。サボっちゃダメじゃない。さっき看護師長が探してたよ?」
「探してんなら担当してる部屋を一番に探すじゃないっすか。それをしてないんなら急ぎじゃないんでしょうよ。ってかサボってないし」

 ふんぞり返っているノノを見て、やはりサボタージュをしていたのかと苦笑する。それから今日初めて顔を合わせたレンと軽くハグをして、ベッドに誘導した。

「ねぇセンセ、番の印が出ない場合ってあるんすかね?」
「うん?うーん、聞いたことは無いなぁ。女性の身体に番の印が現れて、そこに男性がキスすることで成立するわけだからね」
「そっすよねぇ」

 ノノは顎に手を置いて何やら考えている。なんの話?と問い掛けるレンに、どう返したら良いかと答えあぐねていると、それより先に医師が口を開いた。

「ノノちゃん、その辺りナイーブな話なの、わかってるでしょ?」
「わかってるっすよ。でもなんかの手違いで、ほんとは番だったら、二人は楽じゃないっすか」
「そうだけど……印が出るのはやっぱり確実だと思うよ。例外は無いと思う」
「印がやたら薄いとかは?」
「個人差はあるけど、視認出来ない程度ではないよ」
「うーん」

 再びノノが唸り出す。不意に袖を掴まれて目を向けると、レンは心配そうにセイの顔を見つめていた。セイが気にしていると思ったのだろう。確かに自分が番であったならこうはならずに済んだし、彼に気苦労を掛けることは無かったと思うことはある。しかし、どれだけ思い悩んだところで事実は変わらないのだ。どうしようもないことを気に病んでいる時間が勿体ない、そう思うようにしている。セイはにこやかに笑い、レンの手を握った。

「そんな顔をしないでください。ノノさんは番と同じくらい、私たちが強く結ばれているように見えると言ってくれたのです。それは、嬉しいことではありませんか?」
「そう、なの。……そうだね。そう見えるなら、嬉しいな」
「でしょう?」

 レンは少しだけ笑ってくれた。思うところはきっと彼にもあるだろう。けれど、だからどうという話ではない。どうあっても離れることはしたくないから、今ここに居るのだ。握り返してくれたレンの手はいつも通り少し冷えている。そのひんやりとした感覚さえ愛おしく感じるのは、さすがに重症だろうか。
 医師は二人の様子に安心したように微笑み、しかしすぐに何かを思いついたように、口を開いた。

「印が出ないことは無いけど、稀に特殊な例がーー」

 その時、医師を呼ぶ声が後方から飛んできた。見れば、半分ほど空いた扉から看護師が顔を覗かせている。言葉を切った医師はそれ以上を言い直すことはせず、短く返事をしてから病室を出て行った。
 《特殊な例》?医師の言葉が気になって、レンとセイは顔を合わせる。しかし知り及ぶところではない。そもそも『印が出ないことは無い』なら、二人には関係の無い話だろう。
 視界の端で、ノノがようやく腰を上げた。気まずそうに頭を掻いている。

「あー、なんか、すんません。余計なこと言って」
「気にしていませんったら。むしろこの気持ちを、より大切にしなくてはと改めて感じました。だから、謝らないでください」
「……そっすか。うん、じゃあお言葉に甘えますわ」
「はい、そうしてください」

 ノノは、自分たちを想ってくれただけで、決して悪気は無いだろう。自分たちが気づかなかっただけで、実は番でしたなんて淡い期待を逆に潰してくれたのは、下手な夢を見ずに済んで良かったかもしれない。未だ目を泳がせる彼女に、セイは問い掛ける。

「ノノさん、今日は読み聞かせのバイトはさせていただけるのですか?」
「あぁ、もちろんっすよ。子供たちは絵本を選んで待ってるんすから」
「ふふ、ならもう少ししたら庭に行きましょうか。神父様もご一緒にいかがです?」
「うん、じゃあ行こうかな。君の声は、本当に心地良いから」

 点字の絵本でもあればなぁ、とレンが呟くと、探せばあるかもしれないとノノが言った。自分の声を褒めてもらうことは嬉しいが、やはりレンの方が慣れているだろうし、セイ自身もレンの読み聞かせが聞いてみたくて、一緒にやろうと提案する。それに、レンはすぐに頷いてくれた。

「そういや、奥さんって名前で呼ばないんすね」
「え?」

 少しだけ重かった空気が和んだところで、投げ掛けられた問いに声を上げる。今は教会の外だし、病衣姿の彼は傍目に神父だとはわからないだろう。しかしずっとそう呼んできたから、今更変えるなど考えたことはなかった。そして、指摘されて初めて考えてみて、それが思うより気恥ずかしいことに気づいた。話を逸らそうとして、レンがにっこりと笑っていることに気がついた。

「聞きたいな。俺の名前」

 まずい、と思う暇さえ与えてくれなかった。おそらく思考を見抜いた上で言っている。ぐ、と息を詰めて、それから自分にゆっくりと言い聞かせる。
 名前を呼ぶだけ、たったそれだけ。反芻。

「……、レン、さん」

 ぽそり、ぽそりと、小さな声で紡ぐ、愛しい人の名前。敬称に悩んで、とってつけたようになってしまったことを気にする余裕も無く。流れる謎の静寂。

「……何か言ってください」
「ごめん、思ったより嬉しかった」
「なんですか、もう」

 一言、それだけなのに、顔から火が出そうになる。何故かレンも動揺していて、口元に手を置いて目を逸らしていた。それが余計に気恥ずかしさを増進させ、セイはたまらず彼の胸に埋まり顔を隠した。
 こんな戯れを、しかも人前でしてしまったことが居た堪れない。それなのに、幸せを感じる心を叱咤することも出来ない。ノノの顔を見ることなど、もっと出来ない。

「……なんか、幸せっすねぇ」
「やめてください」
「良いことっすよ」
「そうだよ」
「ばか」

 頭を撫でられ、悪態を吐く。ぐりぐりと頭を擦りつけると、彼の匂いがした。久しぶりにこれだけ密着した気がする。毎日好きなだけ一緒にいられはするけれど、ハグもキスもするけれど、それ以上は無い。当たり前ではあったが、気にし出すと、途端に身体に熱が灯ってしまって。ふるふると被りを振った。

「ねぇ、奥さん」
「……なんですか。名前ならもう呼びませんよ」
「違くて。一つノノから提案があるんす」

 やっと顔を上げ、複雑そうな表情を浮かべるセイを横目に、ノノは扉に向かい少しだけ開けてキョロキョロと辺りを見渡した。それから扉をピシャリと閉めて、戻ってきた。

「わたし、マジでサボってんじゃなくて、今日本来は夜勤なんすよ。今はある意味ボランティア。……それでね、」

 耳打ちをされる。悪戯っぽい声音で囁かれた提案に、二人は顔を見合わせた。それはあまりに、看護師の台詞とは思えなかったが。
 頷いた二人を見て、ノノはにやりと笑った。
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