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第10話 黒薔薇の未亡人と夜の契約
アインハルト領から南東へ約五十キロ。ローゼンバーグ侯爵領に入ると、空気の味が変わった。
雪の冷たさの中に、鉄錆と石炭の匂いが混じっている。
アレクたちが乗る【魔導雪上輸送車(スノー・クローラー)】の車窓からは、山肌から黒い煙を吐き出す精錬所の煙突群と、そこへ続く荷馬車の列が見えた。
「さすがは鉱山都市ね。活気が違うわ」
助手席のエレノアが、悔しそうに、しかし感心して呟く。
彼女の実家である公爵領ほどではないにせよ、このローゼンバーグ領は豊かな鉄鉱石の産出によって潤っている。その富を一手に握るのが、今から会う女領主だ。
丘の上に建つローゼンバーグ侯爵邸は、要塞のような堅牢さと、美術館のような優美さを兼ね備えたゴシック様式の建築だった。
案内されたのは、屋敷の奥にある「黒の間」と呼ばれるプライベート・ラウンジ。
壁紙も、絨毯も、革張りのソファも、すべてが深紅と黒で統一されている。
「ようこそ、可愛らしいお客様たち」
部屋の最奥、暖炉の前のカウチソファに横たわっていた女性が、気だるげに身を起こした。
ベアトリス・フォン・ローゼンバーグ侯爵夫人。
喪服を思わせる漆黒のドレスは、大胆に背中と胸元が開いており、透き通るような白い肌との対比が妖艶さを際立たせている。波打つ紫紺の髪、濡れたようなアメジストの瞳。その口元には、常に蠱惑(こわく)的な微笑みが張り付いていた。
「お初にお目にかかります、ローゼンバーグ侯爵閣下。アインハルト家当主、アレクです」
アレクが一歩進み出て礼をすると、ベアトリスは扇で口元を隠し、クスクスと笑った。
「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。ここは私の寝室の隣……私的な空間ですもの。ねえ、そちらのお嬢さん方も座ってらして?」
彼女の視線が、エレノアとミレーヌに向けられる。
エレノアは公爵令嬢としての矜持(きょうじ)で背筋を伸ばし、ミレーヌは商売敵を見る目でベアトリスを見据え返した。
ソファに座ると、メイドたちが濃厚な赤ワインを注いで回る。
「さて、単刀直入に参りましょうか。アレク男爵……いいえ、伯爵でしたわね」
ベアトリスはワイングラスを揺らしながら、ねっとりとした視線をアレクに絡めた。
「貴方が欲しているのは、私の山から出る『鉄鉱石』。それも、市場には出回らないような高品質な磁鉄鉱。そうでしょう?」
「ご慧眼(けいがん)です。我が領の生産ラインを維持・拡大するには、安定した鉄の供給が不可欠です」
「ええ、知っていますわ。貴方が作ったという、あの雪を走る鉄の箱。あれを作るには、並大抵の鉄では足りませんものね」
ベアトリスは立ち上がり、ゆっくりとアレクの背後へ回った。
甘い薔薇の香水の香りが、アレクを包み込む。彼女の手が、アレクの肩にそっと置かれた。
「鉄鉱石の独占供給契約……結んで差し上げてもよろしくてよ。相場より二割安く、貴方の欲しいだけ」
破格の条件だ。ミレーヌが息を呑む。
「……条件は、何ですか?」
アレクが問うと、ベアトリスは耳元で囁(ささや)いた。
「お金はいりませんわ。私、お金には困っておりませんの。私が欲しいのは……『退屈しのぎ』です」
彼女の指が、アレクの首筋をなぞる。
「亡き夫は、真面目だけが取り柄のつまらない男でした。周りの貴族たちも、私の財産か体にしか興味がない豚ばかり。……でも、貴方は違う」
ベアトリスは身体を離し、エレノアたちを見下ろした。
「没落寸前の領地を、たった数週間で立て直し、見たこともない技術で世界を変えようとしている。……ゾクゾクしますわ。貴方のような『危険な男』を、私の手元で飼ってみたい」
「ちょっと! 飼うってどういうことよ!」
エレノアが激昂して立ち上がる。
「アレクは私の婚約者(仮)よ! あなたの愛玩動物じゃないわ!」
「あら、怖い。公爵令嬢様がそんなに青筋を立てて。……でも、これは商談よ? アレク様が決めることだわ」
ベアトリスは冷ややかな目でエレノアを制すと、再びアレクに向き直った。
「アレク様。今夜、私の寝室にいらっしゃい。そこで『契約書』にサインをしましょう。……貴方が、未亡人の寂しい夜を慰められる『大人の男』かどうか、確かめさせていただきたいの」
それは明白な、愛人契約の誘いだった。
鉄という国家戦略物資を握る女傑が、自らの庇護下に入ることを求めているのだ。
拒絶すれば、アインハルト領への鉄の輸出は止まり、工場のラインは停止するだろう。
アレクは静かに立ち上がり、ベアトリスの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……分かりました。今夜、伺います」
「アレク!?」
エレノアとミレーヌが同時に声を上げるが、アレクは手で制した。
彼の目には、欲望に流された男の色はない。あくまで、対等な取引相手としての光が宿っていた。
「ただし、閣下。俺は飼われるつもりはありません。貴女を『満足』させたら……俺を対等なパートナーとして認めていただきます」
「ふふっ、生意気な口。……いいわ、楽しみにしているわよ、坊や」
その夜。
エレノアたちが悔しげに客室で待機する中、アレクはベアトリスの寝室へと足を踏み入れた。
天蓋付きの巨大なベッド。薄明かりの中、シルクのネグリジェを纏ったベアトリスが待っていた。
「来たわね。……さあ、見せてちょうだい。貴方の『全て』を」
彼女はアレクをベッドへ誘い、その胸に押し倒した。
アレクは抵抗しない。だが、流されもしない。
彼はベアトリスの腕を掴み、逆に彼女をシーツへと縫い留めた。
「……っ!?」
驚くベアトリスを上から見下ろし、アレクはニヤリと笑った。
「勘違いしないでください、閣下。俺は貴女のオモチャになりに来たんじゃない。貴女という最高の後ろ盾を、俺の色に染めに来たんです」
アレクの瞳が青く輝く。
――構造解析(アナライズ)。
彼はベアトリスの身体、その深層心理、そして彼女が抱える「孤独」と「渇望」の構造を一瞬で見抜いた。
彼女が求めているのは、単なる快楽ではない。自分を支配し、未知の世界へ連れて行ってくれる圧倒的な「強者」だ。
「……いい目ね。夫も、他の男たちも、そんな目で私を見たことはなかったわ」
ベアトリスの頬が紅潮し、震える吐息が漏れる。
「合格よ、アレク。……私の全てを使いなさい。その代わり、私を飽きさせたら許さないわよ」
夜が明ける頃。
アレクが部屋を出ると、手には「鉄鉱石の無期限供給契約書」と、もう一つ、「軍事同盟の誓約書」が握られていた。
契約の証であるキスマークを首筋に隠し、彼は廊下で待ち構えていたエレノアたちに告げた。
「交渉成立だ。……鉄は手に入った。これで、世界を変える準備が整ったぞ」
エレノアはアレクの首筋をじっと睨み、ふんっと顔を背けたが、その表情には安堵と、新たな焦りが混じっていた。
こうして、アインハルト領は「鉄」という血液を手に入れ、本格的な産業都市への変貌を開始する。
そしてアレクには、頼もしくも危険な「年上の愛人」という新たな武器が加わったのだった。
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