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7.過去
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久しぶりに本気で泣いたからか、リュシーは体力を使い切ったかのように寝てしまった。目元も鼻も赤く、見ていて痛々しい。これほど感情を爆発させた姿は初めて見る。それだけ、子どもたちが母親を巡って喧嘩したことが痛かったのだろう。
もう二度と、子どもたちを悲しませないように、争わせるようなことがないように。親の愛情を感じながら健やかに育ち、幸せになるように――これを子育ての目標に定める。
リュシーが言うから、リュシーのために、そう決める。
正直、テオはリュシーの涙も後悔も罪悪感もあまり理解が出来ていない。
貴族の、しかも高位貴族の子どもともなれば早々に親元を離れて社会のルールやマナー、人間関係、力の差などを学び始める。そもそも子育てなんて乳母の仕事だ。そのために『乳母』という職業があるのだ。乳母と乳母の実子と共に育つことが当たり前と言える。
実際、皇族でもそれが当たり前だし、テオに至っては凄惨な幼児時代を過ごしている。
テオ・デュラン。今では大公として絶対的な権力と力、財力を持ち、この国の皇帝と同等であると胸を張れる立場にあるが、ここに至るまでは決して幸せや平凡とは程遠かった。
理由は、大公に与えられる闇の力が原因である。
テオの不幸は実母――ヴィオラたちの兄弟から始まる。
ヴィオラはデュラン家の未子だった。四番目の子どもだ。ヴィオラは生まれてすぐに闇の力が継承されたことで、生まれた瞬間にデュラン家の後継者に決まってしまった。赤子に後継者の立場を奪われた上三人は激高したが、うまくそれを隠した。隠して、隠して、隠して、機会を窺った。なぜなら、人の道に外れた人間は絶対に闇の力は継承されないからだ。だから、邪魔なヴィオラを殺してしまうことは出来なかった。
三人は長く待った機会をヴィオラが子どもを産む時とした。情の厚いヴィオラは夫も何よりも大切にしていた。産まれてくる子どもも愛することは分かりきっていた。
三人は、ヴィオラの夫に懸想する女を使って、産まれたばかりの赤子を攫わせて、夫を手に掛けさせた。
当時、長男の嫁も同時期に産気いたため、城中が慌しかったのだ。全員が、平静ではなかった。故に女の侵入を、悪行を、許してしまった。ヴィオラが選んだ夫は荒事とは程遠い人間だったこともあり、油断し、簡単に命を落としてしまった。
ヴィオラは最愛の夫と子どもを失い、発狂。茫然自失。三人は全てを上手くこなした。
だが、闇の力は誰の手にも入らなかった。
闇の力は闇の力を受け継いだことがある者にしか分からない。ヴィオラが持ったままなのか、赤子に継承されたのか、分からない。唯一受け継いだ経験のある祖父は長男の嫁の方に付いていたため、赤子の姿を見ていない。そのせいで、単純にヴィオラが力を失っただけなのか継承されたのかは、赤子を見なければ分からないのだ。
だが、赤子は女に攫わせた後の行方が不明。女を言葉巧みに嗾けることが精一杯のため、直接的に殺すよう命じることは出来ない。女を探したが夫への愛を綴った手紙を一枚残して自死していた。
誰にも、赤子の居場所は分からなかった。
テオは川に投げ捨てられるところを教会の若いシスターの手によって救われ引き取られていた。
女は全財産を使い大公領を出て、近隣の領地にまで逃げていたのだ。
教会は金もなく、一人増えてより厳しい状況となる。そのせいで、物心ついた頃には周囲、同じ教会に住む孤児から疎まれていた。物を投げられ、小突かれ、心無い言葉ばかり与えられていた。テオを救ったシスターは縁あって別の教会へ移っていたため、味方がいたことはなかった。
テオは、常に薄汚れていて痩せていた。真っ赤な目が気持ち悪いと紙袋を被せられていた。
そんな中で、リュシーと出会ったのだ。テオとぶつかり二人して転んだ。
リュシーは自分のことよりもテオに「大丈夫!? ごめんね」と声を掛けてくれた。自分は膝小僧を怪我して血を出していたのに、テオを気遣った。
――本当にごめんね。
テオも怪我をしたが、普段から痛い目に遭わされているため大したことはなかった。だが、それを知らないリュシーはテオの体にある傷や痣が全て今転んで出来たものだと勘違いし、泣きそうな顔で「痛かったね」と共感した。
紙袋を被って小汚くて痩せっぽっちで、どう見ても孤児にしか見えないテオを、皆が遠巻きにするテオを、リュシーは手を取って立たせ、手当てをし、抱きしめてくれた。
――お母さまが、ハグをすると元気になるって。痛いのなくなりそう?
初めて感じる温かさと柔らかさと美しさと良い匂いにテオの頭は混乱し、気付けば泣いていた。初めての涙だった。
――ごめんね、本当に。
より強く抱きしめるリュシー。テオは抱きしめられた記憶がないため、抱きしめ返すという発想がなかった。
初めての行為と感情に混乱している時に、「リュシー様!?」と悲鳴に近い声が聞こえ、テオはリュシーを突き飛ばしその場から逃げ出した。
これが、リュシーとの初めての出会いだった。
次にテオがリュシーと出会ったのは、テオが十三歳の頃だ。それまでテオの生活は変わらなかったが、頑丈で少しの鍛錬で力が付く体は相手を圧倒させるに打って付けだった。そのため、面と向かってテオに喧嘩を売る人間は少なくなっていた。
リュシーは領主の子どもだった。領主の子どもは豊穣を祝う花祭りで桜の精を演じて舞う。
多くの人間が注目する中、煌びやかな舞台で軽やかに舞うリュシーに全てを持っていかれた。美しさと良い匂いから、すぐにリュシーがあの時の子どもだと分かった。
テオは人のオーラが見える。臭いが分かる。テオの周りは汚いオーラと臭いを纏っていた。街中で見る人間は様々だったが、大抵は不愉快だった。それが普通だと思っていた。
だが、リュシーは違った。澄んだ空気は美しく、香る匂いは甘くスッキリとしていた。
だから花の精がリュシーだと分かった。美しく良い匂いの人間はリュシーしか会ったことがないから。
テオはまた触れたいと思って、舞いが終わったリュシーの元へ向かった。当たり前だが得体の知れない人間が近付けるわけがなく、会うことは叶わなかった。諦めるしかなかった。
なのに、リュシーが許可を出してくれた。
――お礼してくれるんでしょう? ありがとう。
なけなしの金で買った一輪の花は見窄らしい。茎は短く少ない花弁は小さい。リュシーの周りには多くの花束が保管されており、居た堪れず恥ずかしくなった。
テオのそれに気付いたのだろうリュシーは、耳にかけて「花飾りに良いね」と笑ってくれた。
――ありがとう。大切にします。
得体の知れない小汚い人間からの不細工な一輪の花。リュシーは喜んでくれた。
テオにとって、人間の裏と表は目に見えて分かる。可哀想と言いながら嫌悪し、味方だよと笑いながら無関心で、お前のために言っているんだと怒りながら暴力に快感を得る。
人間には裏表があり、より汚く醜い顔を隠す。それがテオの知る人間だった。もちろん、自分もその知る人間に当てはまるし、テオの周りは良い環境とは言えないのだから、環境に染まって汚く醜くなっても仕方ない。マシな環境下にいる人間だって、底辺にいる人間を自分とは違うと差別することも理解出来る。
なのに、リュシーは違った。表も裏もなく、汚く醜い顔がなかった。
得体の知れない小汚い人間からの不細工な一輪の花。リュシーは、心から喜んでくれた。
リュシーは十一歳と聞いた。十一歳なら、善悪も周囲との違いも身分も差別も色々と分かる歳だ。過去に出会った何も知らなさそうな幼い子どもではない。
なのに、リュシーは変わらなかった。
そのことが、どれほどテオの喜びとなったか分からない。
テオはリュシーのいるこの地を守ろうと決めた。教会はリュシーの住む領地に隣接する境界ギリギリの他領だったが、すぐに移り住んだ。
テオは傭兵団に入り、得意な武力を持って領地を守った。真摯に取り組んでいたからか、他領に駆り出された時にその領の領主に呼ばれた。
それが、転機となった。
その領主はデュラン家のことを知っている貴族だった。
この国に黒髪に赤い目は少なくないがゼロではない。だが、デュラン家には必ず現れる。また、前当主の子どもが攫われたことも知っていた。
領主は念のためと思い、デュラン家に連絡を取ったことで、テオがヴィオラの息子であると判明した。前々当主であるテオの祖父が、テオに闇の力が強く継承されていることを確認したからだ。
それが、十五歳の出来事である。
テオは大公家に戻り、後継としての日々が始まる。その中で、自分の身に何が起きたかを、実母の兄弟の画策を、両親の死の原因を知り、粛清した。
テオが大人しく大公子として舞い戻った理由は、同じ貴族ならリュシーと会える可能性が高いと思ったからだ。
大人しく、真摯に、自分に出来ることに取り組み続けた。
テオが十七歳になる年。リュシーと再び会うことが出来た。
リュシーは十五歳の頃にオメガとして発現しており、多くのアルファ貴族から縁談を申し込まれていると聞いた。見知らぬアルファに嫁がされると知り、テオは居ても立っても居られず、リュシーの元へ駆けていた。
何をするわけでもない。むしろ何をしたいかも分かっていなかった。
だが、リュシーの元へ行きたかった。
リュシーは自領の花畑の世話をしていた。周りに護衛はおらず、侍従が数人いるだけだった。垣根もない、他の人間の目もある花畑で、無防備に笑顔を見せるリュシーが信じられず、腹が立った。
テオの存在に気付いたリュシーは笑顔で「こんにちは」と言う。警戒心もない。この時テオは顔を隠すために仮面を被っていた。怪しさ満点だ。
――花が、欲しくて。
テオが無遠慮に乞うても、リュシーは「ここの花は売り物じゃないんですけど」と困ったように答える。
――内緒にしてくださいね。
だが、綺麗な花を一輪、とってくれた。
相変わらず、美しく澄み、甘い香りをさせていた。
リュシーとの会話は過去を含めて三回だけ。
だが、十分だった。
テオの世界にはリュシーとそれ以外になった。
大公家に来て多くの人間と関わるようになり、汚く醜い人間ばかりではないと知ることが出来た。リュシーと同じように澄んだ人間もいた。
それでも、テオの中にはリュシーがおり、リュシーに変わる人間はいなかった。
権力を使いリュシーを自分のものにしようと考えたこともあるが、美しい人間を自分の欲望に巻き込む気にはなれなかった。自分の欲望よりもリュシーの幸せを願う方が強かった。
なのに、どこぞの馬鹿が権力を使ってリュシーを苦しめていることを知り、テオも権力を使ってリュシーを娶ることにした。馬鹿を一人排除しようが、美しく育っているリュシーの近くにはきっとまた馬鹿が現れる。そして、その馬鹿共はリュシーの両親では捌き切れない。
交流もなかった大公子との結婚に、リュシーは恐縮しっぱなしだった。テオに恐怖心と罪悪感を抱いていた。それ自体は周りと同じだが、理由が違った。
周りはテオの闇の力に恐怖を持っていたが、リュシーは単純に自分との体格差や力の差に怯えていた。一度、リュシーの目の前で不埒な輩に制裁をしたことがあるため、そこから暴力に怯えるようになったのだ。大男を一撃で伸したため、自分がその拳の餌食になったら死ぬと思っている。
得体の知れない闇の力に怯えないリュシーに、やはり美しい人間だなと思った。
テオはリュシーをそばに置くことで十分幸福だった。……そのせいで、リュシーを閉じ込め、好き勝手して、泣かせてしまった。
凄惨な環境下にいたこと、純粋な愛情を受けていないこと、普通の幸せを知らないこと、様々な要因から、リュシーや子どもたちへの接し方を知らない。幸せにしたいと思っていても正直分からない。自分が見聞きしたこと、勉強した事柄がテオのベースになっているせいで。
故に、子どもたちを思って泣いたリュシーのことも、安心安全に暮らしているのに親とまともに接していないことで不安がる子どもたちのことも、イマイチ理解出来ていない。
それでも、リュシーが泣くなら改善しなければと思う。
テオの世界にいるリュシーが泣かないように、幸せだと笑っていられるように、努力するのだ。
テオは眠るリュシーにキスをして、秘書のマルタンを呼ぶ。きっと泣いたせいで起きた時には目が腫れているだろう。回復薬を持ってくるように指示を出した。
もう二度と、子どもたちを悲しませないように、争わせるようなことがないように。親の愛情を感じながら健やかに育ち、幸せになるように――これを子育ての目標に定める。
リュシーが言うから、リュシーのために、そう決める。
正直、テオはリュシーの涙も後悔も罪悪感もあまり理解が出来ていない。
貴族の、しかも高位貴族の子どもともなれば早々に親元を離れて社会のルールやマナー、人間関係、力の差などを学び始める。そもそも子育てなんて乳母の仕事だ。そのために『乳母』という職業があるのだ。乳母と乳母の実子と共に育つことが当たり前と言える。
実際、皇族でもそれが当たり前だし、テオに至っては凄惨な幼児時代を過ごしている。
テオ・デュラン。今では大公として絶対的な権力と力、財力を持ち、この国の皇帝と同等であると胸を張れる立場にあるが、ここに至るまでは決して幸せや平凡とは程遠かった。
理由は、大公に与えられる闇の力が原因である。
テオの不幸は実母――ヴィオラたちの兄弟から始まる。
ヴィオラはデュラン家の未子だった。四番目の子どもだ。ヴィオラは生まれてすぐに闇の力が継承されたことで、生まれた瞬間にデュラン家の後継者に決まってしまった。赤子に後継者の立場を奪われた上三人は激高したが、うまくそれを隠した。隠して、隠して、隠して、機会を窺った。なぜなら、人の道に外れた人間は絶対に闇の力は継承されないからだ。だから、邪魔なヴィオラを殺してしまうことは出来なかった。
三人は長く待った機会をヴィオラが子どもを産む時とした。情の厚いヴィオラは夫も何よりも大切にしていた。産まれてくる子どもも愛することは分かりきっていた。
三人は、ヴィオラの夫に懸想する女を使って、産まれたばかりの赤子を攫わせて、夫を手に掛けさせた。
当時、長男の嫁も同時期に産気いたため、城中が慌しかったのだ。全員が、平静ではなかった。故に女の侵入を、悪行を、許してしまった。ヴィオラが選んだ夫は荒事とは程遠い人間だったこともあり、油断し、簡単に命を落としてしまった。
ヴィオラは最愛の夫と子どもを失い、発狂。茫然自失。三人は全てを上手くこなした。
だが、闇の力は誰の手にも入らなかった。
闇の力は闇の力を受け継いだことがある者にしか分からない。ヴィオラが持ったままなのか、赤子に継承されたのか、分からない。唯一受け継いだ経験のある祖父は長男の嫁の方に付いていたため、赤子の姿を見ていない。そのせいで、単純にヴィオラが力を失っただけなのか継承されたのかは、赤子を見なければ分からないのだ。
だが、赤子は女に攫わせた後の行方が不明。女を言葉巧みに嗾けることが精一杯のため、直接的に殺すよう命じることは出来ない。女を探したが夫への愛を綴った手紙を一枚残して自死していた。
誰にも、赤子の居場所は分からなかった。
テオは川に投げ捨てられるところを教会の若いシスターの手によって救われ引き取られていた。
女は全財産を使い大公領を出て、近隣の領地にまで逃げていたのだ。
教会は金もなく、一人増えてより厳しい状況となる。そのせいで、物心ついた頃には周囲、同じ教会に住む孤児から疎まれていた。物を投げられ、小突かれ、心無い言葉ばかり与えられていた。テオを救ったシスターは縁あって別の教会へ移っていたため、味方がいたことはなかった。
テオは、常に薄汚れていて痩せていた。真っ赤な目が気持ち悪いと紙袋を被せられていた。
そんな中で、リュシーと出会ったのだ。テオとぶつかり二人して転んだ。
リュシーは自分のことよりもテオに「大丈夫!? ごめんね」と声を掛けてくれた。自分は膝小僧を怪我して血を出していたのに、テオを気遣った。
――本当にごめんね。
テオも怪我をしたが、普段から痛い目に遭わされているため大したことはなかった。だが、それを知らないリュシーはテオの体にある傷や痣が全て今転んで出来たものだと勘違いし、泣きそうな顔で「痛かったね」と共感した。
紙袋を被って小汚くて痩せっぽっちで、どう見ても孤児にしか見えないテオを、皆が遠巻きにするテオを、リュシーは手を取って立たせ、手当てをし、抱きしめてくれた。
――お母さまが、ハグをすると元気になるって。痛いのなくなりそう?
初めて感じる温かさと柔らかさと美しさと良い匂いにテオの頭は混乱し、気付けば泣いていた。初めての涙だった。
――ごめんね、本当に。
より強く抱きしめるリュシー。テオは抱きしめられた記憶がないため、抱きしめ返すという発想がなかった。
初めての行為と感情に混乱している時に、「リュシー様!?」と悲鳴に近い声が聞こえ、テオはリュシーを突き飛ばしその場から逃げ出した。
これが、リュシーとの初めての出会いだった。
次にテオがリュシーと出会ったのは、テオが十三歳の頃だ。それまでテオの生活は変わらなかったが、頑丈で少しの鍛錬で力が付く体は相手を圧倒させるに打って付けだった。そのため、面と向かってテオに喧嘩を売る人間は少なくなっていた。
リュシーは領主の子どもだった。領主の子どもは豊穣を祝う花祭りで桜の精を演じて舞う。
多くの人間が注目する中、煌びやかな舞台で軽やかに舞うリュシーに全てを持っていかれた。美しさと良い匂いから、すぐにリュシーがあの時の子どもだと分かった。
テオは人のオーラが見える。臭いが分かる。テオの周りは汚いオーラと臭いを纏っていた。街中で見る人間は様々だったが、大抵は不愉快だった。それが普通だと思っていた。
だが、リュシーは違った。澄んだ空気は美しく、香る匂いは甘くスッキリとしていた。
だから花の精がリュシーだと分かった。美しく良い匂いの人間はリュシーしか会ったことがないから。
テオはまた触れたいと思って、舞いが終わったリュシーの元へ向かった。当たり前だが得体の知れない人間が近付けるわけがなく、会うことは叶わなかった。諦めるしかなかった。
なのに、リュシーが許可を出してくれた。
――お礼してくれるんでしょう? ありがとう。
なけなしの金で買った一輪の花は見窄らしい。茎は短く少ない花弁は小さい。リュシーの周りには多くの花束が保管されており、居た堪れず恥ずかしくなった。
テオのそれに気付いたのだろうリュシーは、耳にかけて「花飾りに良いね」と笑ってくれた。
――ありがとう。大切にします。
得体の知れない小汚い人間からの不細工な一輪の花。リュシーは喜んでくれた。
テオにとって、人間の裏と表は目に見えて分かる。可哀想と言いながら嫌悪し、味方だよと笑いながら無関心で、お前のために言っているんだと怒りながら暴力に快感を得る。
人間には裏表があり、より汚く醜い顔を隠す。それがテオの知る人間だった。もちろん、自分もその知る人間に当てはまるし、テオの周りは良い環境とは言えないのだから、環境に染まって汚く醜くなっても仕方ない。マシな環境下にいる人間だって、底辺にいる人間を自分とは違うと差別することも理解出来る。
なのに、リュシーは違った。表も裏もなく、汚く醜い顔がなかった。
得体の知れない小汚い人間からの不細工な一輪の花。リュシーは、心から喜んでくれた。
リュシーは十一歳と聞いた。十一歳なら、善悪も周囲との違いも身分も差別も色々と分かる歳だ。過去に出会った何も知らなさそうな幼い子どもではない。
なのに、リュシーは変わらなかった。
そのことが、どれほどテオの喜びとなったか分からない。
テオはリュシーのいるこの地を守ろうと決めた。教会はリュシーの住む領地に隣接する境界ギリギリの他領だったが、すぐに移り住んだ。
テオは傭兵団に入り、得意な武力を持って領地を守った。真摯に取り組んでいたからか、他領に駆り出された時にその領の領主に呼ばれた。
それが、転機となった。
その領主はデュラン家のことを知っている貴族だった。
この国に黒髪に赤い目は少なくないがゼロではない。だが、デュラン家には必ず現れる。また、前当主の子どもが攫われたことも知っていた。
領主は念のためと思い、デュラン家に連絡を取ったことで、テオがヴィオラの息子であると判明した。前々当主であるテオの祖父が、テオに闇の力が強く継承されていることを確認したからだ。
それが、十五歳の出来事である。
テオは大公家に戻り、後継としての日々が始まる。その中で、自分の身に何が起きたかを、実母の兄弟の画策を、両親の死の原因を知り、粛清した。
テオが大人しく大公子として舞い戻った理由は、同じ貴族ならリュシーと会える可能性が高いと思ったからだ。
大人しく、真摯に、自分に出来ることに取り組み続けた。
テオが十七歳になる年。リュシーと再び会うことが出来た。
リュシーは十五歳の頃にオメガとして発現しており、多くのアルファ貴族から縁談を申し込まれていると聞いた。見知らぬアルファに嫁がされると知り、テオは居ても立っても居られず、リュシーの元へ駆けていた。
何をするわけでもない。むしろ何をしたいかも分かっていなかった。
だが、リュシーの元へ行きたかった。
リュシーは自領の花畑の世話をしていた。周りに護衛はおらず、侍従が数人いるだけだった。垣根もない、他の人間の目もある花畑で、無防備に笑顔を見せるリュシーが信じられず、腹が立った。
テオの存在に気付いたリュシーは笑顔で「こんにちは」と言う。警戒心もない。この時テオは顔を隠すために仮面を被っていた。怪しさ満点だ。
――花が、欲しくて。
テオが無遠慮に乞うても、リュシーは「ここの花は売り物じゃないんですけど」と困ったように答える。
――内緒にしてくださいね。
だが、綺麗な花を一輪、とってくれた。
相変わらず、美しく澄み、甘い香りをさせていた。
リュシーとの会話は過去を含めて三回だけ。
だが、十分だった。
テオの世界にはリュシーとそれ以外になった。
大公家に来て多くの人間と関わるようになり、汚く醜い人間ばかりではないと知ることが出来た。リュシーと同じように澄んだ人間もいた。
それでも、テオの中にはリュシーがおり、リュシーに変わる人間はいなかった。
権力を使いリュシーを自分のものにしようと考えたこともあるが、美しい人間を自分の欲望に巻き込む気にはなれなかった。自分の欲望よりもリュシーの幸せを願う方が強かった。
なのに、どこぞの馬鹿が権力を使ってリュシーを苦しめていることを知り、テオも権力を使ってリュシーを娶ることにした。馬鹿を一人排除しようが、美しく育っているリュシーの近くにはきっとまた馬鹿が現れる。そして、その馬鹿共はリュシーの両親では捌き切れない。
交流もなかった大公子との結婚に、リュシーは恐縮しっぱなしだった。テオに恐怖心と罪悪感を抱いていた。それ自体は周りと同じだが、理由が違った。
周りはテオの闇の力に恐怖を持っていたが、リュシーは単純に自分との体格差や力の差に怯えていた。一度、リュシーの目の前で不埒な輩に制裁をしたことがあるため、そこから暴力に怯えるようになったのだ。大男を一撃で伸したため、自分がその拳の餌食になったら死ぬと思っている。
得体の知れない闇の力に怯えないリュシーに、やはり美しい人間だなと思った。
テオはリュシーをそばに置くことで十分幸福だった。……そのせいで、リュシーを閉じ込め、好き勝手して、泣かせてしまった。
凄惨な環境下にいたこと、純粋な愛情を受けていないこと、普通の幸せを知らないこと、様々な要因から、リュシーや子どもたちへの接し方を知らない。幸せにしたいと思っていても正直分からない。自分が見聞きしたこと、勉強した事柄がテオのベースになっているせいで。
故に、子どもたちを思って泣いたリュシーのことも、安心安全に暮らしているのに親とまともに接していないことで不安がる子どもたちのことも、イマイチ理解出来ていない。
それでも、リュシーが泣くなら改善しなければと思う。
テオの世界にいるリュシーが泣かないように、幸せだと笑っていられるように、努力するのだ。
テオは眠るリュシーにキスをして、秘書のマルタンを呼ぶ。きっと泣いたせいで起きた時には目が腫れているだろう。回復薬を持ってくるように指示を出した。
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