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三十、触不可及(皇帝視点)

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 詩阿の住む中宮に着いた時、すでに夕刻の気配が強かった。
 俺が即座にやってきたのに驚いたのか、詩阿は廂まで出迎えてくれた。

「早速にもご来臨を賜り――」
「ああ、もう堅苦しい挨拶は要らぬ」

 丁寧に腰を折ろうとする詩阿を抱き締め、そのまま袖の中に包み込むようにして堂に入り、いつもの長椅子に並んで腰を下ろす。

「申し訳ございません。わたしの方からお会いしたいなどと、言うべきではないと思ったのですが……」
「よい。逢いたいと言ってくれて、朕は正直に嬉しい。……そなたの奥床しさは好ましいとはいえ、思いが一方通行のようで寂しいと思っていた。詩阿」

 俺が名を呼んでまっすぐに見つめれば、詩阿も俺を見つめ返す。
 黒い瞳が不安そうに揺れていた。

「……光華殿のことか?」
「はい。……その、薛脩媛せつしゅうえんが、呪詛をした疑いをかけられたと聞きまして」
「朕は知らなかったが、そなたと仲がよかったそうだな」

 詩阿はコクリと頷く。

「年も同じですし、いつもこちらを訪問してくれました。……呪うなどと信じられません。それに――」

 詩阿が不安げに目を伏せる。

「どうやら一部では、それがわたしの命令だと噂されているようで。あるいは脩媛が苛酷な詮議を受けるのではと」

 詩阿が白い手で胸元を抑える。その手が、微かに震えていた。

「詩阿。……脩媛のことは心配せずともよい」
「こんなことを陛下にご相談するべきではないのかもしれませんが……」
 
 詩阿の横顔がいつもより青白い。きっと不安でたまらなくて、俺に縋ったのだ。そう思うと、いっそう愛しくてたまらなくなる。

「詩阿、こっちを見よ」

 俺が命じれば、詩阿は顔を上げ、俺を見た。

「詩阿は、賢妃を呪わせたりなど、しておらぬのだろう?」
「まさか! そんなこといたしません! 誓って!」

 言い募る詩阿の必死の形相すら愛らしくて、俺はつい、微笑んだ。

「むしろ朕は、詩阿が他を呪うほど朕を想うてくれるならば、とさえ思うのだがな」
「……陛下?」
 
 詩阿の黒い瞳が大きく見開かれ、そこには俺の姿が映っている。
 俺は詩阿の滑らかな頬を撫で、顔を近づけてそのまま唇を塞ぐ。柔らかく甘い唇を食むように味わってから、わずかに開いた隙間から舌を差し入れれば、詩阿がおずおずと自身の舌を絡めてくるので、それを巻き取るようにして唾液を吸い上げる。

「ふっ……んんっ……」

 俺は角度を変えて深く口づけながら、片手で詩阿のうなじを支えて固定し、もう一つの手を詩阿の背中に這わせる。夏のことで薄衣の下の、華奢な身体の感触が直に伝わり、俺は腕に力を込めてさらに詩阿を抱き込んだ。

「へい、か……」

 唇を離せば、銀色に光る唾液の橋がかかり、詩阿が恥ずかしそうに目を伏せる。すっかり上気して、内側から桃色に染まった白い顔に、ぽってりと赤くはれた唇。俺の内部の欲望がさらに滾り、もう一度唇を奪う。

 誰かがお茶を淹れているのか、カチャカチャと茶器の触れ合う音がして、詩阿が腕の中で身を捩る。
 宦官や下婢に口づけを見られるのくらい、もういい加減に慣れろと思う。――真の意味で俺が一人きりになる時間などないのだから。

 ようやく唇を解放して身を起こせば、詩阿は耳元まで赤くなって俯いている。
  
「そ、その……薛脩媛のことなのですが……」

 詩阿が慌てて言うのに、俺は詩阿の肩を抱き寄せて額に額を合わせる。
 
「宮正はなんと申しておった」
「……無罪だと言うのを証明するのは難しいと」
「そうであろうな」
「でも!」

 詩阿がさらに何か言おうとするのを制するように、俺は詩阿の唇に指を置いた。

「落ち着け。詩阿の困るようなことになならぬ。……たとえ詩阿が本当に呪詛していたとしても、詩阿が罰せられることはないし、脩媛のことも、詩阿の望むように取り計らおう」
「陛下?」
「後宮内のことは、朕がすべて決める。何も心配することはない」

 理解できない、という風に詩阿が目を見開いている。

「法よりも、朕の方が強い。朕が白と言えば白になり、黒と言えば黒くなる。宮正には朕から一筆書こう。……廉!」

 俺が呼べば、宦官の廉がすぐに走り出る。

「紙筆をこれへ」
「は」

 即座に廉が紙と硯箱、それから小さな卓を準備する。半紙を広げ、薛脩媛は罪に問うなかれと書いて、それを廉に手渡す。

「印璽を押して宮正に渡しておくように」
「は!」

 廉はそれを漆塗りの箱に入れ、紐をかけ、額の前に押し頂くようにして後ろ向きに退出し、堂を出て行った。

「これで、そなたの懸案は解決したか? 詩阿」
「は……はあ……」

 納得いかなさそうな表情をしている詩阿に、俺は説明する。

「この手の騒ぎは後宮ではつきものだ。今回の件、誰が、どんな思惑で言い出したか、宮正が今調べているだろうが、どういう目論見であれ、朕が望む判断をして終わりだ」
「陛下が……望む?」
「朕が詩阿を退けたいと望んでいれば、この件をきっかけに退けるだろうが、朕にその気がなければ何も変わらない。たとえは悪いが――たとえ、詩阿が後宮の誰かを害し、それの証拠が挙がったとしても、朕に詩阿を退けるつもりがないならば、その上奏や調査を取り上げずになかったことにして、終わりになる。本当にその罪があろうがなかろうか、実はどうでもいい」
「……つまりそれは、有罪でも罰せられないこともあるし、無罪でも罰せられることもある、ということですか?」
 
 詩阿が呆然と俺を見つめて尋ねるのに、俺は頷いた。

「そう。……朕の母は、先の皇后が遣わした毒を飲んで死んだ。証拠も、挙げようと思えばいくらでもあっただろうが、我が父である先帝陛下は調査をさせなかった。その罪自体、なかったことにされた。皇后が身分の低い下級の嬪を毒殺する、そんな醜聞を後の世に残すことを忌まれたのだ」

 ゴクリ、と詩阿が息を飲んだ。

「朕は、詩阿を退けるつもりはない。だから、詩阿は何も案ずる必要はないのだ」

 俺が詩阿の滑らかな白い頬を撫でながら言えば、詩阿は視線を廻らして言った。

「今は……いずれ、陛下のお心がどなたか別の方に移って、わたしが邪魔になったら、無実の罪で追われることもあり得るのですね」
「詩阿。そんなことはあり得ない」
「でも……古来、君王のお心は移ろいやすいと……
「詩阿」

 俺は詩阿を抱き寄せ、耳元で囁く。

「俺が、何年、詩阿だけを想ってきたと思うておる。そなただけだ。生涯、変わることはないと誓う」
「でも……そんなためしをいくつも史書で読みました」
「詩阿。そなたの不安はもっともだ。俺も、自分が皇帝でさえなければと思う。だが、俺が俺であることは逃れられぬ。詩阿……愛している。信じてくれ。信じて、俺を愛して欲しい」
 
 その言葉に詩阿の肩がビクリと揺れる。

「陛下……わ、わたしは陛下をお慕いしております!」
 
 慌てて言う詩阿に、俺は微笑んだ。

「嘘だ。そなたは俺を愛していない」
 
 断言すれば、詩阿の顔色が見る見る青ざめていく。そりゃあ、そうだ。仮にも皇后が夫である皇帝を愛していないなんて、少なくとも、夫である皇帝自身に見破られたらまずい。

 そう、詩阿は、少しばかり演技が下手すぎる。もっと、いかにも俺を愛しているように振る舞うべきなのに、それができていない。俺の訪れを特に喜んで見せたりもせず、他の女に対して嫉妬もせず、別の女のところにも行けと思っているのを隠すそぶりもない。
 
「わ、わた、わたしは、陛下を……」
「嫌ってはいないが、特別に好きというわけでもない。それくらい、わかる。……俺は、詩阿を愛しているから」

 詩阿が、何も言えずにただ、俺を見つめている。見開かれた瞳が、大きく揺れた。

「詩阿。咎めるつもりはない。でも、俺は詩阿に愛して欲しい。俺を求め、独占し、他の女に嫉妬して欲しい。むしろ他の女を呪ったり、毒を盛るくらい愛して欲しいとさえ思う」
「そ、そんなことできません!」

 詩阿が必死に首を振る、そのようすも可愛らしい。……そう、詩阿はそんなことはできまい。

「詩阿は、俺がいつか、他の女に心変わりすると思い込んでいるようだが、俺に言わせれば、まだしてもいない罪を咎められているようなものだ。――たしかに、後宮から他の女を追い出すことはできないし、他の女の元にまったく通わないわけにはいかない。詩阿が、非難されてしまうからな」

 俺は詩阿の目をまっすぐに見つめ、さらに言った。

「俺が詩阿に告げるような言葉を、他の女にも囁いていると思っているなら、それはない。……廉に、確認してもらっても構わない」
「確認?……確認って?」
「俺がどんな風に他の女を抱くのか、それが詩阿の時とは全然違う様子を、廉ならばずっと見ているから――」
「い、い、要りません! そんなの!」

 詩阿が真っ赤になって首を振った。――たしかに、他の女との行為の様子など聞きたくはないだろうが。

「ならば、どうすれば信じてもらえる?」
「その……信じます! 信じますから!」

 俺は詩阿を抱きしめ、耳元で念を押すように囁いた。

「信じて、愛してくれ。俺にはただ、詩阿一人だ。俺の命が続く限り、愛するのは詩阿だけだと誓う」

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